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文の文

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愛でる

ときどきうかがう料理屋がある。
ここのご亭主は今年80歳なのだが、なんとも色気がある。
カウンターに向かうすらりとした立ち姿、とくにその背が美しい。
かくしゃくとして、品もある。

この店を紹介してくれた友人によると
なんでも昔は役者をしていたらしい。
ほうほう、それはそれはと見入る。

このご亭主がお客のご機嫌伺いに席を回ると、
常連のご婦人がたが「おとうさん、おとうさん」と呼んで歓待する。
隣に座って眼鏡の奥の目を和ませながら、真剣に話を聴く。
そして美味き酒や美味き料理のことを話し始める。

かぎりなくスキンヘッドに近い頭。その後頭部のかたちのよいこと。
振幅のある人生を送ったに違いないと思わせる声と話しぶり。
ちょっと頑固でちょっときまま。

こちらの酔いがまわったのか、そんなご亭主をながめていて
その後頭部にまわされた手がふっと浮かんできたことがあった。

白く細く、それでいて意志を持った手。
その整ったかたちをなぞりながら思いを伝える指、
その頭蓋のなかの思いを探りたいと願う指、
ただそのぬくもりを愛でていたいとその曲線にそう掌。
つかの間我が物だとその手が言い張る。

そんなふうにこのご亭主を想った何人ものおんなのひとが浮かんでくる。
時が流れ、そんなおんなのひとたちもいずれ老女となっていることだろう。

ほっこりあたたかな春の縁側で、あるいは散る桜を見上げながら、
遠い日の恋のことなど思い出し、
いとしいおとこを愛でた掌に残るかすかな記憶を
静かに辿っているのではという気がしてくる。

思い出を隠し持つ老女はきっと魅力的なのだろうと思ったりする。


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