552241 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

文の文

文の文

そんな日々           

   そんな日々           
               

   二〇〇二年・夏
 
司馬遼太郎氏の「アイルランドは連戦連敗の国である」という一文を読んだ時、
その国をとても身近に感じたことがある。  
 もしも嫁姑の間に戦いというものがあるとしたら、
私も同じように嫁いでこのかた、
なにをとっても姑に勝ったためしがない連戦連敗の嫁だからである。

 その連戦連勝の姑が体調を崩した。
足腰が痛んでどうにも歩けなくなった。
 もしも嫁姑の間に戦いがあるとしたら、
こういう状況は嫁に有利かもしれない。
そんな少々人聞きの悪い思いをこっそり抱いて、
京都でひとり暮しをつづける姑のもとに横浜から新幹線で介護に通った。
 特別に暑い夏だった。
   
六月・老化現象
 
裏から光を当てられたMRIのフィルムに長くしなやかな指が伸びる。
「ほら、ここ、骨の色が変わっています」
 姑の主治医が指したところは背骨の第五腰椎で、
圧迫骨折による変色だという。
骨粗しょう症で脆くなった骨が押し潰されている。これが痛みの原因だ。
 
もう一枚のフィルムには脊椎の中の神経が映っている。
連続したコマのなかの二カ所に神経が映っていない。
肥大した黄色靭帯に圧迫された神経が
フィルムに映らないくらい細くなってしまっているのだ。
手術でその黄色靭帯を取り除かないかぎり下半身は麻痺する。
 
手術すれば絶対によくなるのかといえば、それがそうとも言えない。
神経を扱う手術のデリケートさもさることながら、
手術をしたあとに筋肉がすっかり落ちてしまって
歩けなくなるケースも少なくないのだ、と主治医の言葉が続く。
 
総合病院の整形外科である。松葉杖の若いひともいるが、お年寄りが多い。
朝六時半に診察券をいれて、診てもらうのは十時半を過ぎる。
それぞれの処置を施される患者と看護婦がせわしなく行き来する診察室に
姑の低く太い声が響く。

「センセ、そらもう、にわかにいとなりましてなあ、歩けしまへんのや。
ほれ、うちの廊下は長ごおすやろ。
夜中、お便所にいくのに往生しますのや。
このあいだまでなんとものうで、バス旅行までしましたんどすえ」
 
症状を聞かれているのだが、あれもこれも言いたいらしく、とりとめがない。
 育ちのよさそうな顔立ちの主治医は辛抱強く聞き「
そうですか」と穏かに頷きながら、姑に後ろで黙って聞いていた私に告げた。
「この手術はしなければ死んでしまうというものではありませんが、
患者が六十歳の方なら絶対にしましょうと勧めます。
歩けなくなってしまうからです。
でも、八十六歳の方に対して同じことは言えません」
 
他人からみれば、姑は八十六歳の老人なのだと当たり前のことに驚いていた。
世の中の常識としていのちの残り時間がそう多くはなく、
静かに余生を送るというイメージなのかもしれないが、
姑はちょっとどこかが違うような気もしていた。
 
いずれにしろ八十六歳の気持ちなど八十六歳になってみないことにはわからない。
私があごの手術をしたときに、姑にその痛みをわからなかったのと同様に
姑の今の痛みや痺れも想像はついても結局はわかりえない。

 老いはそれぞれが自分で引きうけていくしかないんだと身に沁みる。
白髪や目じりのしわに気づいたとき、
老眼鏡をかけ、しみじみと物忘れが多くなってきたなあと思うとき、
今までおぼろだった私自身の老いの輪郭がくっきりとし始める。
そして行きつく先は自分の足では歩けなくなってしまうこの姑の姿だ。

「あの旅行のときに長いことバスに乗ったんがあかんかったんや。
あれでいとなったんや。あほなことしたわ。
もう、ぜったいバス旅行はいかんとこ。あほらし」

 痛みを言葉でかき消すように
繰り返し同じ事をしゃべりつづける姑の車椅子を押した。
その言葉を聞いているうちに、
生きていることの質、生きていることの意味、死んでしまうことの意味、
死なないでいることの重さなどが、
漠然とした重たい塊になってこころをころがっていった。
   
七月・死に方

楽に死なしてほしいねん」
 まだまだ死にそうにない姑が入院を前にそんな言葉を口にした。
 
八年前、百歳まで生きたなさぬ仲の母親を送って一人暮しをはじめた姑が
思いきって建て替えた三階建ての自宅のリビングである。
冷房は冷えるからといって切り、扇風機の風に当たり、好みの渋茶をすする。
 
ただ足腰が痛んで整形外科にお世話になるだけなのに、
延命治療をしないでほしいと言われて、こちらは返す言葉に困る。
 しっかりしている姑だからこその言葉なのかもしれない。
「延命治療の拒否」「尊厳死」を希望しているのだ。

 しかし、それは悪性の腫瘍ができ、
死なないために手術であごを失った私には、
えらく遠いところから聞こえてくる言葉だった。

「ボケてしもたらなんもわからんようになるさかい、
今のうちに言うとかなあかんねん。
これからはあんたらにちゃんとやってもらわんとな」

 そういって証券や通帳、家作や年金のことなど、
これまで姑がひとりで仕切ってきたものを全て私たち夫婦の前に差し出した
 そのうえ、手回し良く死に方まで合理的に考えている姑を
えらいなあと思いながらも、そっぽをむいてしまいたい自分がいた。

 生きたくて生きたくて死ぬひとがいる。
死にたくて死にたくて死ねないひともいる。
死に方はほっておいても、かみさまが決めてくれるんじゃないのかな、
などと姑が聞いたら低い大きな声で「なにゆうてますのや」と
喝を入れそうなことをこっそり考えていた。
  
 八月・「く」のひと
「はちがさした」という遊びがある。

「いちがさした」といって手の甲を上にして差し出す。
となりのひとが「にがさした」とその上に手をのせる。
次のひとは「さるが掻いた」と言って「に」のひとの手の甲をガリガリと引っ掻く。

「しがさした」のあとは「ござるが掻いた」とごりごりと引っ掻く。
「ろく」「しち」がすんなり出したあとは、「はちがさした」となる。
今度はキュッとつねるのだ。
「はち」のひとの勝利でおわりかと思うとそうはいかず
「くまんばちがさした」と言って
「はち」のひとはさっき自分がしたよりも強く
ギュッと「く」のひとにつねられることとなる。そんな遊びである。

 八月「脊柱管狭窄」なる病名で背中を切り開き、肥大した黄色靭帯を脊椎から剥がす
という手術をした姑の入院介護をした二週間たらずの間、
私には姑がいつも最後に勝つ「く」のひとであるように思えてならなかった。

 同年輩のよそのおとなしいおばあさんと違い、
なかなか一筋縄でいかないからか、気がつくと、
姑に向かう看護婦たちの頬にはいつもかすかな苦笑が浮んでいた。

 家付き娘で商売を切り盛りし
廃業したあとのひとり暮しが長い「自立した女」である。
他人から指図されることには慣れていない。

 八十六歳になるまで、お産以外に入院経験がない。
あまりに健康過ぎて、病気に対する勘とか知識は、
日経新聞を読んで得る経済の情報のようにはすんなりと身につかなかった。

 そこで、姑は旺盛な好奇心でなんでもかんでも質問する。
なんであれ自分が納得して進めたいのだ。
 点滴のたびに、「そのお薬はなんのためのもんどす?」と訊ねる。
丁寧に答えてもらってその時は納得しても、
次の点滴には違う薬かもしれないから、また、問う
。看護婦によって答え方が違っていたら
「前のひとはこういうたはったけど、
あれとはちがいますのんか?なんでどす?」と問いただす。
かくして、看護婦は苦笑するのである。

 数字はお得意だから、自分の血圧もしっかり頭に入っている。
測ってもらう度に、必ず、その数値を聞いて、
「昨日より高いのはどういうわけどすやろ?」と聞く。
半端な答えでは納得しないので、看護婦は先生に聞きに行くことになる。

「うちの苗字は二文字やさかいに覚えやすいのんかいなあ。
どの看護婦さんもよう覚えてくれはるねん」
 本人だけが気付いていない。
 
手術当日、いざ手術室に向かわんという時、
何人もの看護婦、看護人に囲まれた姑はいささか興奮気味だったのかもしれない。
着替えをさせてくれる看護婦にむかって 
「パジャマを脱ぐねんな。わかった。パンツもやろ。
へー、まだかいな。それしたあと、あんたが脱がしてくれるのんかいな。
自分で脱げまっせ。へー、わかった。手はおなかのうえやな。あんたさんのいわはるとおりにせなあかんのやな」

と休むまもなく話しかける。
そのあとストレッチャーに移される段になると
「そっちへいくのんか。わかった。腰あげるのんかいな。
わかった。合図してや。待ってや。
裾が乱れるさかいにあんじょうせなあかん。
えー、勝手に動いたらあかんのんか。わかった。
そう言われたらおとなししときますわ。よいしょっと。
ああ、うまいうまい。さすが、慣れたもんやなあ。
あんた若いのに経験豊富やなあ。たのもしわあ」
と、ひとしきり言葉を重ねた。

 幸い手術は成功し、強い生命力で回復も順調である。
術後三日目にはこんなことを言う。
「点滴のうまい看護婦さんにはなあ、あんたうまいなあ、
さっきのひととちごて百パーセント大成功やって褒めてあげるねん。
看護婦さんも褒めたげるとうれしそうにしやはるえ。
年とったらひとの喜ぶこと言うたげんとあかんのや」
 
自分があごの手術したあと、身も世もなく唸っていた日々を思い起こし、
その彼我の感に嘆息する。
 姑は、まさに「く」のひとではないか? 
さすがに常勝のひとである。
 
 九月・ 途中経過

 染めていた栗色が落ちて、ほとんど白髪になった姑が、
机の縁を指先でなぞりながら珍しく小声で言った。
「ここの雰囲気ようないさかい、はよ出たいねん。
なんやしらん、自分の行く末を見せられてるような気がしてうっとしいねん」
 八月十四日に背中の手術を無事に終え、
その後の傷の経過も順調な姑は九月半ばに整形外科病棟から
同じ病院内のリハビリ療養所に移った。
 
その療養所に入っている人はみな高齢で、
例外なく歩行機や車椅子を使っている。
寝たきりのひともいる。
一様に動きの少ないとろんとした目で見るともなくあたりを見て、
飼いならされてしまったもののように
決まったとおり、言われるままに体を動かす。
ここではゆっくりとしたペースで時間が流れている。

 脳梗塞を起こしたらしいおばあさんは、言葉がおぼつかず、
体が右側に傾いたままだ。石のように動かないおじいさんもいる。
少々痴呆が始まったようなおばあさんはお人形をだいている。

 幼稚園のように赤や黄色の折り紙で飾りつけられた食堂で、
皆がそろってから「いただきます」と言って食事をはじめる。
腕が上がらず介護人に食べさせてもらっているひとがいる。
歯が無いひとにはどろっとしたペースト状のものが用意されている。
そういうひとは赤ちゃんの涎掛けのようなものを胸に当てている。

 それはどこの老人ホームでもそんなふうであると映像では見知っているが、
実際にたくさんの老人の現実が目の前にひろがると、息をのんでしまう。
希望とか前進とかいう言葉の対極にあるものが、肌に迫ってくる。
 
面倒をみてくれる人に、体も心も寄りかかっているようにも見える。
機能の衰えは誰にでもやってくることだが、
不自由な体に押し込められたこころは
そんなふうにだんだんに小さくなっていくのだろうか。
ひとの歴史の突き当たりはこんなところなのだろうか。
ここに来るためにひとは生きているのだろうか。

 そんななかで、ひとり姑の生気は際だって輝いているように思う。
くりくりとよく動く瞳の力の強さはここには馴染まないかもしれないが、
人の世話になりつづけることを良しとしない意思も自立心も強い姑が、
まことにたのもしくあっぱれに思えてきたのだった。

 しかし、今は、足腰の痛みは取れたものの、
やはり筋肉が衰え、足先に痺れが多少残り、
自力歩行が少々困難な状態である。

「もうここではリハビリのセンセにあなたさまのおっしゃるとおりにします、
て言うていっしょけんめいやってんねんけどなあ、
なかなかこの足が言うこと聞いてくれへんのや」

 いつも前向きな姑の口からめずらしくそんな言葉がころがり落ちた。
年を取る現実、衰えていくありのままを目の当たりにして、
さすがの姑もいささか意気消沈しているのかと思うと、
こちらのほうが不安になる。
 
それでも、姑は姑である。いろいろあっても、
また、うまく軌道修正するに違いない。
一ヵ月もすれば退院の用意をできるだろう。
 もしも嫁姑のあいだに戦いというものがあるとしたら、
退院の後に本当の戦いが始まるのかもしれない。





© Rakuten Group, Inc.