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文の文

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2・古井由吉さん

有楽町で逢いました・2

古井由吉さん

残念ながら、いや、恥ずかしながらである、
小説家であるこのかたの作品を
わたしは一冊も読んでいない。
なのになんでこんなになつかしいような思いが
湧くのだろうと不思議に思う。

豊かで硬そうな白髪にふちどられたお顔の表情はどこまでもおだやかだった。
「この間、もう何十年と通っている新宿で
道を間違えてしまいました。
東京は街の雰囲気がどんどん変わっていくものだから、
勘違いしてしまうんですね。……狼狽いたしました」
そんなことを照れくさそうに話される。
このかたをとりまく時間がゆったりと流れているように感じ、それがわたしにはとてもここちよかった。

「芥川龍之介と東京」というテーマのお話だった。
36歳で自殺する芥川が30歳のころに作った俳句がある。
「元日や 手を洗いおる ゆうごころ」
自分の体の不調に気づき始めたころである。
足袋から伝わってくる板の廊下の冷たさを思う。
芥川が体の衰えを感じている。
そんなけだるくはかない句だと氏は語る。

大正14年に書かれた「年末の一日」という作品の一節を氏が朗読した。
その作品は新山の手に暮らす人間のわびしさや
総じて清浄な空気の感触が伝わってくる作品なのだそうだ。
清浄なのは掃除がいきとどいているからで
なぜそんなに磨き上げるのかといえば
ひとつ現実味のたりない、
根のおりた感じのしない暮らし、
満たされず、しっくりこないこころを
慰める営みとしてなされているからだという。

内容もさることながら氏の朗読は印象的だった。
氏が読む文章の文末の「た」という発音の余韻が、
古寺の梵鐘のそれのようにこころに残った。
妙な言い方だが、それは滋味溢れる「た」なのだ。
わたしにはなんとしても、そう感じられてならない。
お話をせがむ子供のように、
またその「た」を聞きたくて、
耳をすまして待っている。そんな朗読だった。

本所から田端へ移り住んだ芥川の感じているのは、
流入者の多い地での違和感であり、
自分はそこに根付いてはいないという思いである。
東京生まれの東京育ちでありながら、
自分はなぜこんなところに住んでいるのかという
精神的なバックボーンを無くしたような憂鬱である。
芥川は、そこで、行き場のない、
足場のない陰惨な苦しみを味わい
やがて、結局、どこにいようとこんなものだという虚無に
ふっと引き込まれていったのだとも、氏は語る。

横浜から東京に引っ越してきたばかりのわたしは
その言葉に大きく頷いた。
だれも知る人のいない土地に来て、
そこでずっと感じている思い、
ちっともおちつけず、景色やひとびとに
容易に馴染んでいかない自分の思いを
ふわっと解き明かしてもらったような気がしていた。

講演が終わって演壇から降りようして、
氏の片足が台のはしにひっかかっておっとっと、と
転びそうになった。
みなが思わず息を飲む。
一瞬狼狽している顔になって氏は
すぐさまにこやかで照れくさそうな顔になって
下手へ消えた。
最後まで氏をとりまく空気の色が変わらなかった。
またどこかでお会いしたいものだと思っていた。


関礼子さん

この方は亜細亜大学の先生だという。
ショートカットで眼鏡をかけた細身のかた。
丁寧なお言葉で資料を使って、
樋口一葉の日記からうかがえる当時の東京について語られた。
ただ、有能とか無駄やそつがないという感じがかべになってしまうこともあるのだと
くっつきそうになるまぶたを押し上げながらつらつらと思ったことでありました。

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