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文の文

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13・浅田次郎さん

有楽町で逢いました・13

浅田次郎さん

1999年の文学学校では、浅田さんは着物姿であらわれ、
当時大ヒットした「鉄道屋」の本や映画のお話をされたな、と思い出す。

その年は「文学のなかの友人・師弟」という全体のテーマだったのだが
とりとめなくご自身の「よいおはなし」が続いたような記憶がある。
今回のお話のなかでも高倉健さんといっしょにカラオケに行って
「唐獅子牡丹」を目の前で聞いた話をされていた。

こんなことを言ってはまことに失礼なのかもしれないが、
ずいぶん講演がお上手になられたような気がする。

さても、その日、車を会場近くの地下駐車場に止めた浅田氏は
生家近くのこの有楽町で道に迷ったそうだ。
東京生まれ東京育ちの氏がおおいに嘆かれるのであった。

「私の目から見ると東京は滅びてしまった」
「故郷が薄れる」「風景が失われる」「地名もなくなる」
「東京の名への思い入れのない地方のひとが多く住みついたからではないか」
「東京の言葉が滅びてしまった」
「ローカリズムを失うことはナショナリズムを失うことである」等々。

だから、ご当地作家とは波長があうのだとおっしゃる。
山の手のおぼっちゃんで、ひとつの東京人の典型である三島由紀夫が好きである、という具合にお話は三島へと繋がっていく。

浅田氏は本物の三島由紀夫にあったことがある。
氏の小説デビューはそう早くはないのだが
高校一年生のときから小説を書いては出版社に持ち込んでいたのだという。
とくに河出書房には足繁く通って添削してもらっていた。
その編集者が三島由紀夫の担当だったのも奇遇である。

「昭和45年、高三の1月が2月の寒い日のこと
やはり河出書房から生原稿を持って帰る途中
どういうわけか御茶ノ水ではなく、水道橋まで行ってしまったんですね。

後楽園のボディビルジムのそばを通っていて
信号待ちの間、なにげなく、半地下になっているガラスのなかを覗き込むと
そこではなんと三島がバーベルを持ち上げていたんです。

眼があうと三島はものすごくイヤそうな顔をしました。
意外に背が小さくてね、顔が異様に大きかったです。

三島は眉をひそめて、切なげな顔をしました。
自分が原稿用紙を手にしていたので、
青臭い文学少年が会いに来たのではないかと思ったのかもしれません。

三島は立ち上がり奥に入っていきましたよ。
お付きのひとがわたしの方を指差して笑ってました。

それはたった数十秒間のことでしたが、
わたしにはわすれられない出来事であり
そうしていよいよ自分は作家になるのだと思いを強くしたのでした」

11月25日、浅田氏はマージャンをしているときに三島自決の一報を耳にした。
小説家が死んでしまった。何故かという疑問を解かねばならなかった。
大学を辞めて自衛隊に入った。

当時の自衛隊の給与は15100円、手取りで9000円だった。
ベトナム紛争、ゲバ棒の時代で、親の危機感はかなりつのっていたそうだが
若き日の浅田氏は体育会系文学少年であり、ものすごくタフであった。

銃器の扱いのほかに整理整頓能力と声の大きいことがよい軍人資質である。そういう資質に恵まれていた氏は配属された市ヶ谷第三連隊で陸士長になる。その連隊は、今はないのだが、三島さんがあのとき動かそうとした部隊だった。

ある時連隊長の当番になった浅田氏は、一号館の三島が自決した、真っ赤なじゅうたんの敷かれたあの部屋へ5,6人の部下を指揮して、払い下げの品、応接セット4点を取りにいった。

その応接セットは三島の首がころがっていたそばにあったものだった。
ソファーの足のあたりがどす黒く汚れていた。

当時の連隊長中村一佐は三島の関孫六を素手で受けて筋を切ったというひとである。
「あやつきだから、連隊長のあとを追ってきた」などと皆が言いあっていた。

浅田氏は連隊長の身の回りの世話をする係でそのソファーの面倒もみていた。そのソファーで夜中に三島の小説の文庫本を懐中電灯で読んだ。
贅沢な読書だと思った。そしてなんと因果の深いことだろうと思った。

三島の死が契機となり自衛隊に入った浅田氏であるが
2年のうちに三島の死も自分の中で解決した。

「自衛隊を辞める時には、銃剣を武器庫で返納します。
それは歩兵の魂でした。一抹の寂しさを感じました。
三島は筆を置いて武器を取りました。
自分は武器を置いてペンを取るのだと思いました。
小説家になろうと思いました」

21歳で自衛隊を辞めてから、浅田氏の日々はなかなか大変だった。
35歳でやっと自分の書いたものが活字になり、39歳で自分の本が出た。
45歳で直木賞をもらった。その年齢は、三島の享年であった。
遅咲きではあるのだろうが、そのあとのご活躍はめざましいものである。

最後に三島の「太陽と鉄」に書かれた「言葉とはなにか」にふれてこう言われた。

「言葉の私物化は小説家の敗北宣言であるかのように思われます。
本質に立ち返って小説を書いてみるべきではないかと思い
もっとも簡単な言葉で普遍的な感情を伝えるというところへわたしは立ち返ったのです」

「もっとも簡単な言葉で」という言葉が耳に残った。
それは簡単そうで決して簡単なことではないよなあ、
それはそれで勇気がいることだよなあ、
小手先じゃ、ごまかせっこないしなあ、
普遍的な感情を伝えるのってむずかしいよなあ、
とか思いを巡らせるうちに浅田氏のお話は終わっていた。

なにか宣伝をされていたような気もするのだが聞き逃してしまった。
しかし、わたしごときが買わんでも
きっと売れ行きよくベストセラー本になっていずれ大物俳優主演で映画化されるにちがいないとも思っていた。


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