分太郎の映画日記

2007/06/20(水)16:15

『アポカリプト』

外国映画(アメリカ)(30)

【注意】ラストのネタを記していますので、ご注意ください。  メル・ギブソンは、この頃では俳優というよりは、すっかり監督業が板についた感じであるが、その彼の監督最新作。  マヤ文明後期の中央アメリカのジャングルを舞台にしたアクション映画で、全編マヤ語で語られる、一味変わったアクション(たぶん)映画。  一足先に試写会(半蔵門駅近くの東宝東和試写室)にて鑑賞。  『アポカリプト』 評価:(ラスト直前まで)☆☆☆☆☆ (ラストを含めた全体)☆☆  配給会社の試写室で公開前に映画を鑑賞させていただくのは、これが2回目(前回はGAGA提供で『バベル』→すみません、こちらの感想はまだ書いてません)。ゆったりした座席に音響もよく、何より一般試写会のように座席確保に苦労することがないのがよい。  まずは招いていただいた関係者の方々に感謝感謝。 【愚痴】だけど、基本的に自分の金で年間数百本の映画を見ている身としては、評論家の多くが自腹(1800円)を切ることもなく、優遇された待遇で鑑賞して、〔提灯持ち〕記事を垂れながしているのかと思うと、何か腹立たしく感じたのも確か。って、ここで述べるべきことではないか。  ただ、この映画は、雄大なジャングルをたっぷりと味わうためにも、できるだけ大スクリーン(の映画館)で鑑賞した方がよい作品だろう。私も劇場公開されたら、もう一度観にいくつもり。  この映画で描写されたマヤ文明の正しさ(というのかな)については、正直よく分からない。まぁハリウッド映画で日本がどのように描かれているのかを見れば、何となく想像はできるが、判断材料はないので、とりあえずは保留にせざるを得ないが、本作のように残酷描写が多い場合は、その点は厳密に検証しないといけないとは思う(ただ何故メル・ギブソンがこのような描写をしたのかについては、たぶん下記に私が書いた感想で正しいと思ってはいる)。  タイミング良く、今年(2007年)の7月14日(土)から東京・上野の国立科学博物館にて、「インカ・マヤ・アステカ文明展」が開催される(~9/24まで)ので、この特別展を観覧後に、もう一度映画鑑賞したいとは思う(上映されていれば)。 【あらすじ】  若き狩人ジャガー・パウが、部族長の父フリント・スカイや親友のブランテッドらと大きな獲物を仕留めて戻った翌日早朝、村はホルケインの戦士たち――マヤ帝国の傭兵に襲撃・焼き射ちにされた。パウは何とか臨月の妻サラと息子タートル・ランを涸れ井戸に隠すと果敢に抵抗するが、父を目の前で惨殺され、仲間たちとともにジャングルから連れ去られてしまう。  河を渡り山を越えて、一行はやがて大きな都市にたどり着いた。そこで女たちは奴隷として売買され、男たちはピラミッドの神殿で行われている、干ばつを鎮めるための生け贄の儀式に供される。そしていよいよパウの順番が来たとき、皆着既日食が起こり、神の御業と信じる神官らによって儀式は中止となった。  が、生き残ったパウや仲間たちは、競技場で傭兵たちの人間狩りゲームの標的になってしまう。背後から飛んでくる無数の矢と槍をかわして必至に走るジャガー・パウ。脇腹に矢を受けるものの、瀕死のブランテッドの助けもあり、傭兵のスネーク・インクを倒してジャングルに逃げ込み、一路、故郷の村を目指す。涸れ井戸の妻子を助けるために。一方、息子であるスネーク・インクを殺された傭兵の隊長ゼロ・ウルフは、小隊を率いて彼を追いかける。  こうして、ジャングルを舞台にした過酷なサバイバル・ゲームが始まった……。  まずは、冒頭の狩りのシーンから、むせかえるようなジャングルの自然──木の香りや様々な音が圧倒的に迫ってくるようだ。実際には匂いも音もある訳がないのだが、それをまざまざと脳裏に思い浮かべさせる映像の迫力は、ただものではない。  そして、ほぼ全員が映画初出演というネイティブ・アメリカンの登場人物たちが、そのジャングルを縦横無尽に駆け回っている姿に、あっという間に、かつてのマヤ文明のあった時代に引き戻されるようだ。  この彼らの演技が、これまた凄い。最近のCGで作られたアクションではなく、本物の躍動する肉体が繰り広げる様々なアクション──滝に飛び込み、ジャガーに追いかけられ、泥沼に落ち、木に登り、木々の間を駆けめぐる──は、非常に魅力的だ。滝に飛び込むシーンなども、役者自身が演じているという。  映像の凄さは、ジャングルのシーンだけでなく、再現された村のシーンもそうだし、河の渡ったり危険な河岸の崖を歩く場面、そしてマヤ・シティ──ピラミッドが建ち並ぶ街の姿など、すべてが言葉を絶するような見事な出来映えだった。  「いまだかつて誰も見たことのないビジュアル」というのは、確かにその通りで、大いに成功していると思うし、話の展開などはさておいても、この映像を見るためだけでも映画館に足を運んだ方がよいだろう。  ストーリー的には、まずは人々の過酷な暮らし──始めは人間対自然、そして中盤は傭兵対部落の住人、都市の住人の圧政などを、これでもかというくらいに丹念にリアルに描き出していく(はじめ、遠くのピラミッドの頂上から、ごろごろと落ちていくものが人間の首だとは思わなかった)。  過酷と言えば、主人公の妻の出産シーンは、今までで見た映画の中でこれ以上はないという悲惨な状況で、子どもを産み落とすことになる。 (これと同じくらい過酷なのは、私が思い浮かぶ中では、『ジャスミンの花開く』の中で、チャン・ツィイーが豪雨の中、橋の欄干で出産するシーンくらいだろうか)  細かい突っ込みを言えば、天文学的に日食と満月は同じ日(の前後)には起こらないとか、ジャガーはあんなに速く走らないのではとか、ご都合主義的な部分も目には付いたが、それを上回っていろいろと感動した部分はたくさんあり、これは稀に見る大傑作だ、と思っていたのだが……、ラストシーンを見て、一気に興奮が醒めてしまった。 (以下、ネタバレあり)  たぶん、これは人によって感じ方が大きく異なるとは思う。  たぶん、一部(多く?)の人には、ラストが感動的なのかも知れない。  そして、このラストこそ、たぶんメル・ギブソン監督が一番にいたかったことに違いない。それは、監督の前作が『パッション』で有ることに思い至れば明々白々だろう。  しかし、私は、単なる言い訳映画のように思えてしまって仕方なかった。 (以下、本当にネタバレします)  ラストは、主人公と生き残った追っ手二人が海岸にたどりつく。そこで彼らが見たのは、沖には船が停泊しており、侵略者たち──スペイン人たちと神父がボートでやってくる姿だった、というものだ。 (その後、茫然自失の追っ手を残して、主人公が妻と子どもを助けるシーンがあるが)  このラストを見たとき、とくにボートで神父の姿が大写しになったとき、ああ、これはキリスト教の言い訳映画だったのかと、私は一気に醒めてしまった。  もちろん、「キリスト教」と一言でまとめてしまうのは、さまざまな宗派の方々に大変失礼であることは承知しているつもりであるので、失礼があったならばお許し願いたい。  しかし、マヤ文明が、確かに文明自身に自滅に至るさまざまな要因を抱えていたとしても、直接的に滅亡の引き金を引いたのは、スペイン人とキリスト教(と住人には未知の感染症)の侵略である。  それを、映画で散々、傭兵と都市の人間の残虐さを描いていたのは、彼ら自身が招いたものであり、そこにキリスト教が救いとして現れた、冒頭の「文明は外から崩されるのでなく、内部から崩壊する」というフレーズも、キリスト教が滅ぼしたのではない、ということが言いたかったのかと思ったら、キリスト教に縁もゆかりもない私には、映画全体が単なるキリスト教の正当化映画、“言い訳映画”にしか思えなくなってしまった。  たぶんラストに感動する人は(結構)いるのだと思うし、それ自体を否定するつもりはない。  ただ私の評価としては、全体としては☆三つがいいところだ。  ということで、マヤ時代を描いた、「いまだ見たことのない」映像を見せてくれる映画として、本作は大変にお薦めではあるし、見て損は絶対にないが、ラストの解釈は人それぞれなので、映画全体の出来・評価も人それぞれだろうか。 『アポカリプト』 APOCALYPTO 【製作年】2006年、アメリカ 【配給】東宝東和株式会社 【監督・製作】メル・ギブソン 【脚本】メル・ギブソン、ファラド・サフィニア 【撮影】ディーン・セムラー ASC,ACS. 【音楽】ジェームズ・ホーナー 【出演】ルディ・ヤングブラッド(ジャガー・パウ)、ダリア・ヘルナンデス(パウの妻:セブン)、ジョナサン・ブリューワー(パウの太った友人:ブランテッド)、モリス・バード(パウの父)、ヒラム・ソト(狩りで出会ったフィッシュ・ハンター)、ラオウル・トルヒーヨ(ホルケインの戦士のリーダー:ゼロ・ウルフ)、フェルナンド・ヘルナンデス・ぺレス(高僧) ほか 公式サイト http://www.apocalypto.jp/

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