生涯の友 版画家日下賢二の訃報
[image: DSCF0719.JPG]その人と暫く、いや結構長い間会わなくても、「その人が離れた何処かでその人なりの生活を営んでいるだろう」と考えるだけで、なんとなく安心出来る。そんな気持ちを持ったことは無いだろうか?私は、自分にとって非常に重要な友人が居た。その人の訃報を今朝聞いた。いや、正確に言えば、その友人の死を知っているか?と逆に問い合わせを受けたのだ。青天の霹靂とはこのことだろう。その人がこの世の中のどこにも居なくなってしまった、ということは私にとって非常にショッキングな出来事だ。もう、どこへ行っても会って話したり、一緒に酒を愉しむことも出来ず、なかなか他の人には分かって貰えないようなことを聴いて貰うことも出来なくなってしまったからだ。実に淋しい限りだ。その問い合わせをしてきたのは、亡くなった版画家日下賢二の同郷で、中学時代から共に芸術の道を目指してきた陶芸家の白石 斉である。彼等には彼等なりの付き合い方があり、幼馴染みの同郷人の芸術家同士という付き合い方を続けて来たのであろう。ところが、日下画伯と私の付き合い方は、それとは全く違う。化学工業の製造会社に勤務していた私が弁理士資格を取ったらと親戚の者に勧められて、入った丸の内の大手特許法律事務所の先輩として、既に彼日下賢二は意匠や商標登録出願申請書類に必須のロゴやデザインを手書きし、それを旧式の手動印刷機で印刷し、仕上げるという仕事をしていた。芸術家のパトロンとして振る舞いたかった当時の所長の下で、日下賢二は昼間は専ら意匠商標図面作成係のサラリーマンとして働き、それ以外の自分の時間は版画家として活動していた。田夫野人の風貌を有し、語り口も木訥そのものであったが、人の良さと芸術的感性には並々ならぬものを感じさせる日下賢二と私は外から見れば、さぞ対照的に見えたことであろう。私は東京生まれ、東京育ちの生まれつきの都会人だったから、一見日下とはほとんど共通点がないように見えたかも知れない。しかし、私は小さい頃から割合芸術的志向が強く、当時既に詩の同人誌に参加していたし、文章を書いたり、文学を読んだりすることに熱中していた。そんな芸術的な関心の深さから、日下賢二との親交は深まった。生活態度や状況も彼と私とでは大きく異なっていた。しかし、それが却ってお互いの関心を惹き、率直に交流することでお互いに多くのことを知り合えることが出来た。(続く)-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 城 洋司(久道)-ぶらいおん mailto:??????@gmail.com??????@ejoh.orgSlownet スローネット『退位も出来ない 下流老人「ぶらいおん」の漂流人生!』https://slownet.ne.jp/blog/user/98477 HP: 「”ぶらいおん”の 来た道~往く路」 http://www.burairoad.ejoh.org/コラム「Jタウンネット82-83歳ぶらいおん」公開記事一覧: http://j-town.net/tokyo/tag/22373/「人生100年時代」を生きる86歳”ぶらいおん”のコラム=(Jタウンネット離脱後)http://buraijoh.seesaa.net/?1491104579ブログ 「昭和一桁の 老人と海」:https://buraijoh.jimdo.com/My favorite things! ぶらいおんの詞藻アンソロジー https://buraijoh.jimdo.com/ぶらいおんのTwitter:https://twitter.com/buraijohぶらいおんのFacebook:https://www.facebook.com/w.eventp"The ぶらいおん Daily":http://paper.li/buraijoh/1335062326?utm_source=subscription&utm_medium=email&utm_campaign=paper_sub生活を豊かにする「和歌浦公民館インターネット活用教室」: http://www.freeml.com/wakaurapc/-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-