佐藤栄作前総理へニクソン前大統領からの書簡を公表 密約の存在が暴露
昔々、ニクソン大統領が当時の首相 佐藤栄作に当てた書簡で日米繊維交渉において、二人の間に交わした密約にノーと言ったということでニクソン大統領からの失望の手紙ということだ。
これがニクソン大統領の怒りに触れ、
ニクソン大統領の首相への不信感を増幅させ、同年7~8月の頭越しによるニクソン訪中計画発表と金ドル交換停止という2つの「ニクソンショック」をもたらす日米関係険悪化の引き金になったとみられるらしい。
この記事を読んだ時、よくやった佐藤総理という気持ちになった。
というのも、密約は必ず一方的にアメリカに都合が良い不平等条約のはずで、アメリカの繊維業界をバックにニクソン大統領も日本なんかにグーも言わせませんよとかなんとか言っていたのに、総理にノーと言われたもんだから、面目をつぶされた!と怒りの矛先を日本に向けただけのことである。
アメリカは毎年IMFの年次改革要望書なるものを送りつけ、日本をアメリカの都合のいいようにやって来ている。
議員や 政府高官はアメリカが恐ろしくていいなり状態で、IMFの指示なのに、たまたま日本の政策がアメリカからの要望書と一致しただけ!とにげごしだ。
逆らうと、今まで何人か不審死があったように影から影へと消されるからだ。
しかし、佐藤栄作総理は密約にもかかわらず、日本の国益を最優先して勇気を持ってノーと言ったんだと思う。
ノーと言えない日本人の著書である石原前東京都知事の本にもあるように、アメリカの言いなり議員が多い気がする。
みんなはどう思う?
なぜ日本は、年次改革要望書などに従い、国民生活の破綻につながる郵政民営化や派遣労働法の改正、また三角合併の容認などアメリカの要求にことごとく従うのでしょう。
日米繊維交渉決裂、ニクソン大統領が密約守らぬ首相非難 外交文書公開
産経新聞 7月24日
外務省が24日公開した外交文書で、日本の繊維製品の対米輸出規制を話し合う日米繊維交渉が決裂した昭和46年3月、ニクソン米大統領が佐藤栄作首相に「失望と懸念を隠すことができない」などと日本政府の対応を強く非難する異例の書簡を送っていたことが明らかになった。
大統領の書簡は「佐藤栄作日記」の記述などから存在が知られていたが、日本政府が公開したのは初めて。
日米繊維交渉をめぐっては、佐藤首相とニクソン大統領が44年11月の首脳会談時に年内決着でひそかに大筋合意し、その内容を日本の官僚が当初把握せず交渉が頓挫した経過が、過去に公開された外交文書などで明らかになっている。
繊維交渉は46年10月、日本の米提案受諾で政治決着するが、交渉決裂による「密約」履行の遅れが大統領の首相への不信感を増幅させ、同年7~8月の頭越しによるニクソン訪中計画発表と金ドル交換停止という2つの「ニクソンショック」をもたらす日米関係険悪化の引き金になったとみられる。
書簡は46年3月12日付で、和訳文が手書きで3ページにわたり記されていた。直前の8日には日本側の業界団体である日本繊維産業連盟が一方的に、米側要求とかけ離れた繊維製品の輸出自主規制を発表していた。
書簡で大統領は、業界団体の発表やこれを歓迎した日本政府の声明に触れ「何らかの結論に達するであろうと思っていた時であっただけに、本当に驚いた」と言明。「われわれの業界、その支持者たち(議会人を含む)の大反撃を受けることは確実であろう」と指摘した上で、「双方が満足できるような交渉を続けることが望ましいが、不可能と思われる」と交渉打ち切りを警告し、輸入制限立法の必要性にも言及した。
大統領は「こうした方法であなたに手紙を書くことになったことを、深く遺憾とする」とも記し、憤りをにじませた。
他の公開文書によると、愛知揆一外相はマイヤー駐日米大使と同月10日に会談し、業界団体の自主規制策定に「政府は全然関与しておらず、背後で何かたくらんだことはない」と釈明。首相も大使と会い「(大統領の)期待に沿えなかったのは残念」と述べていた。
当時、首相が政治生命をかけていた沖縄返還協定は46年6月までに調印される運びとなっていた。だが繊維交渉の決裂を受け、マイヤー大使は「沖縄問題への跳ね返りも心配している」と日本側に忠告していた。
繊維交渉と沖縄返還との関係は「糸(繊維)と縄(沖縄)の取引」ともいわれたが、繊維交渉の妥結を経て、47年5月に沖縄が本土に復帰した。
外務省が24日公開した外交文書は、戦後の昭和20年代後半~50年代にかけての86冊。