久々に帰った日本で
その日は昼過ぎから都内を散策していたので、本屋も洋服屋も喫茶店にもすでに立ち寄ってしまい、それ以上何もすることが無くなった。映画を見るほどの時間はないが、連れとの待ち合わせまでもまだ多少の暇がある。腹ごしらえでもするかと山手線で目白まで行き、降りた。辺りは薄暗く紺色の空だ。駅の改札を出てまっすぐ進むと、線路沿いの路地に見える黄色い看板に「高級とんかつ」と書いてある。夫婦のような二人がやっている店で、店内は奥行きが広くちょっとした洋食屋の風情だ。赤いカーペットにしつこくニスの塗られた茶色い木のタイル壁。私は昔この店の近所に住んでいた頃いつもそうしていたように、入って二つ目のテーブルに腰掛けた。首から下げていたローライフレックスをテーブルの脇に置くと、女将がお茶とおしぼりを持ってくると同時に「まあー、立派なカメラですね。撮れるんですか?」と聞いてきた。「ええ、撮れますよ。」「二眼レフ。うちにもありましたけど、まだあるんですね。」「ええ、これ50年以上前に作られたカメラみたいなんですけどね。」「そうでしょうね。最近はなかなか見ませんものね。ご注文は?」驚いた。以前、何年かこの店に通っていた頃にこの女性と交わした言葉は「いらっしゃいませ」「ヒレカツ定食ください」「ごちそう様でした」「ありがとうございました」の4つだけなのだ。初めて会話らしい会話を交わしたことに、照れもあったが感動した。やはりこいつは魔法のカメラだ、と思った。女将の笑顔は変わらぬが、間違いなく3つ歳をとっている。それはこちらとて同じことだが。数年前にはしていなかった黒縁の眼鏡をかけている。美しく歳をとるとはこういうことを言うのだろう。私がアメリカの田舎街に住処を替えてフラフラとしていた間も、この人は毎日決まった時間に店に立ち、当たり前のように米を炊きキャベツを刻み、客に愛嬌を振りまいてきたのだ。勘定の際、カウンターの向こうから料理人も「それどこのカメラなの?俺も二眼レフ持ってるけど、へえーいまどき珍しい。」と話しかけてきた。それでこの男も写真をやるのだということに気がついた。よかったら撮らせてもらえませんか、と言うと、「俺にはピントが合わねえだろう」と視線をそらして仕事に戻る振りをする。恥ずかしがって調理場でうつむいた姿を一枚だけ、撮った。そろそろ夕刻7時になろうとしていた。