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社会規範とすべき法なり決め事が、厳格で微細に渡って張り巡らされると。正しい規律の整った社会が実現するのか、実現の道を辿るのか? と言うと必ずしもそうでは無いと思う。
規範・規律の強制と言うのは、制限を加えないと世の中が混乱するからという必然性と考える。其れはどちらかと言うと、為政者の立場に立った視点。本当はそう云う取り決めや言われるまでも無くても 人々が己の良心に従って、正しい・悪しきの判断が付けば、法は 出来るだけなだらかな申し合わせの様な事で足るのだが 現実はそう云う訳にはいかない。 法三章と言われる 漢の高祖の 殺人・傷害・窃盗の三章だけの罰則を布告して有名になった話は、史記の高祖本記に載っているのだが、其の三章を発布する前段の秦の圧政をの事を語らずして 法三章の本当の意味・目的は判らない。 秦の時代 帝に背く様な事が有れば一族殺戮 僅かな発言でも棄民として身分を落し込むという恐怖政治 其処へ沛公(高祖)が乗り込んで 人を殺せば死刑 傷害と窃盗は其の程度によって罰が下される。その他の諸々は秦の事例に倣うという布告を出した。 一族連座と言うのは 日本でも豊臣秀次の一族を賀茂の川原で処刑して、其の跡地に建った瑞泉寺ガ菩提を弔っているという事例が有るが 一族連座と言うのは 傅かせる(かしずく)という事に付いては、一番効果のある方法だったのかも知れない。 秦国に住む人の民心を集める爲 高祖は この法三章を掲げた事に対して、多くの事が 酒や貢物を差し出したが -、其れも受け取らなかったという。法三章も、権力を得る前段の戦略の一つと捉えると すこし評価も変わってくると思う。 我国の法と云うのは、天下万民の顔が建つように精巧に出来ている様に思う。駄目が仮に出たとしても 救済の道が準備されている。ザル法と云われる由縁でもある。天下万民を振りかざせば何事も通る様に思う事がある。 殆どの庶民は、殺人や生涯・窃盗とは関係の無い生活を送っている、しかし重大犯罪を起こした者の一族と言うのは 住んでいたところから逃れ 起こした事件とは何等関係なくとも 世間から消えたような生活をする。 秦や漢の時代も今も、左程人々の営みが変って来たとは思えないのだ、 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.09.13 10:34:19
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