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明治期の京都の古地図を拡げると、島原遊郭の西側に京都競馬場と囲みの有る地域が有る。日本に最初に出来た競馬場は 大阪鳴尾競馬場。鳴尾ほど広大では無かったが結構設備は整っていたらしい。大阪瓦斯の工場跡 ガスタンクが建っていた辺りが競馬場だったという。
少し話が逸れるが、ガス会社が営業を始めた頃の ガスの大消費地は遊郭 電燈の普及前は 不夜城遊廓の灯りは、ガス燈だった。島原遊郭極近である。 祇園町南側にも ガス工場を作る計画が有ったと 立命の末川先生が何かの本に書いておられた。 本題 競馬場に戻して、少し京都競馬場の沿革を調べて見ると、明治40 年3月社団法人『京都競馬会』が設立され 翌41年5 月 16日 17日 19 日 20日の四日間 一日10レース 春季 秋季 と特別の日に開催されていたが、明治45 年11月に火災で競馬場焼失してしまう。 船井郡須知へ移したが 交通不便で人気なく大正13年 9月 現在地 淀に移したという。 島原遊郭の直ぐ傍に在った時代 大阪・神戸からの客が多く 遠征組には 新町屋北新地の綺麗どころが付き従ったという。東本願寺の大谷光蛍法主も度々見えていたという。 淀の競馬場は 開場当時は東洋一と言われた。一レース一枚しか馬券を変えなかったとか 又払い戻しも馬券金額の十倍を超えてはならないという規定になっていたが 東洋一というキャッチフレーズが効いたのか 人気うなぎ上り 今に繋がっている 淀に移ってからでも もう98年が経つ。 淀競馬場の池は。巨椋池最後の遺構と言われている。 宮川町検番の理事長だった 駒屋 駒井富太郎翁に 絶対競馬に負けない方法を伝授された。競馬で家何軒かを飛ばしたとも言われる翁の言葉を守っている。 予想紙買って ○◎△つけて馬券買った心算でレース見て 全レース金をつぎ込んだ心算で一日楽しんで 本当なら財布が軽くなっているのに 今日は撒けなかったそう云う愉しみ方もあるよと 教えられた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.04.04 10:49:20
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