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ヴェネツィアの獅子たち

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Reiko Fujiwara Marini

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2009/02/07
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当ブログはこのページに引っ越しいたしました。

ヴェネツィアの獅子たち







Last updated  2009/02/07 07:11:52 PM
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2009/01/03
カテゴリ:歴 史
 略奪と破壊のあと、十字軍側、ヴェネツィア側からそれぞれ六人ずつの代表者が選出されました。その中から、ラテン帝国の初代の皇帝と総司教を決めるためです。
 
 この地域を知り尽くした海の男として、ヴェネツィアのリーダーとして、この十字軍の実質上の総司令官であった総督エンリコ・ダンドロは、12人の候補者の中でも最も有力な初代皇帝候補でしたが、高齢を理由に候補者にされることも辞退します。
 
 投票の結果、初代皇帝にはフランドル伯のボードワンが就くことになりました。そしてビザンティン帝国の広大な領地が、フランスの主な騎士とヴェネツィアとで分割されました。小アジアのニカイア地方を、ブロワ伯。ペロポネソス半島のアカイア地方を、ヴィラルドゥアン家(シャンパーニュ伯の家老職の家柄)。テッサリア、マケドニア地方を、モンフェラート候など。
 
 ヴェネツィアの総督には、この度の分割で「東ローマ帝国の8分の3の統治者」という称号が付け加えられました。
 その結果、アドリア海東部にとどまらず、イオニア海とエーゲ海のほとんどの島を所有することになり、ヴェネツィアからコンスタンティノープルの金角湾まで、一直線で結ばれるようになったのでした。
 これにより、ヴェネツィアの海の支配権と交易上の優位性は圧倒的に増大し、ヨーロッパの強国の仲間入りを果たします。
 
 しかし、近代から現在の、第四回十字軍のヴェネツィアに対する評価は「理想も思想も持たないヴェネツィア商人が、巧みに十字軍を利用して私利私欲を満たした詐欺的行為」というものです。
 ヴェネツィアはただ、手持ちのカードと配られたカードで、自国の繁栄につながるよう臨機応変に行動しただけなのです。
 
 また戦争も、ヴェネツィアが仕掛けたように言われていますが実は反対で、 最終的な攻撃に入る前に、万が一戦争が回避できるならと、アレクシウス5世との交渉を最後まで提案したのも、ダンドロ総督でした。
 
 それに本当に私利私欲なら、ダンドロ総督が高齢であっても、皇帝の座に就いたでしょう。すぐに息子か孫にでも譲ればよいのですから。
 もちろんダンドロは、歴代の総督の中でも特に優れた人物ですが、彼が特別なのではなく、そういう動きをしないための制度と気風が、ヴェネツィアにはすでに確立されていたのです。

 一つの国も一個人も、まったく「私利私欲」無しの行動は有り得ないと思いますが、敢えて言うなら、この言葉から一番遠くに位置していたのが、ヴェネツィアであったと思います。
 
 現代では、ネガティヴな響きの十字軍の、ましてキリスト教徒を攻撃し大義すら失った第四回十字軍を、すべて「ヴェネツィア商人」のせいにして、「罪悪感」を洗い流そうとする「心理」から来る、西欧の歴史の「検証」を感じでしまうのです。
 
 ラテン帝国は、建設から50年ほどしか保たず、それから200年してトルコがコンスタンティノープルに侵入します。聖ソフィア寺院はモスクとして使われ、コンスタンティノープルは、千年以上呼ばれたその名を、イスタンブール(ISLAM-BOL=イスラムの豊かさ)と変えます。
 
 ヴェネツィア総督エンリコ・ダンドロは、1205年6月1日コンスタンティノープルでその98歳の生涯を閉じました。聖ソフィア寺院に葬られ、名を刻んだ墓石は今でも残っています。(ラテン文字で書かれたエンリコ・ダンドロの名)






Last updated  2009/01/03 06:51:20 PM
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2008/12/27
カテゴリ:歴 史
 イタリア語の “bizantinismo”  “bizantino” には、「ビザンティン様式」、「ビザンティンの」という第一の意味の他に、比喩的な使い方があります。
 「結論を先送りして、のらりくらりする態度」「屁理屈好き」「人を欺くようなやり方」などです。言葉になるという事は、それがイタリア人の偽らざる感覚なのでしょう。
 
 どの地域のイタリア人よりも、ビザンティン人と関係の深かったヴェネツィア人は、彼らの性質を熟知していたはずです。やはり彼らの経験に基づく危惧は的中します。
 
 金角湾に泊まっているヴェネツィアの船に、火が付けられたのです。民衆の不満に迎合し、人気の回復を図ろうとしたアレクシウス4世が、十字軍を裏切ったためでした。
 何とか火は消し止められ、被害は最小限ですみましたが、十字軍側からすると、これは事実上の宣戦布告に他なりません。帝国内の、ラテン人居住区も焼き払われ、もはや命を守るには戦う事しか残されていないようでした。
 
 そんなビザンティン、十字軍双方ともに張りつめた状況の中、旧老皇帝と息子のアレクシウス4世が殺害されるという事件が起きたのです。権力の座を、これまた奪い取ろうとした、アレクシウス5世(4世の従兄弟)が謀ったことでした。
 十字軍にとってこれでいよいよ、キリスト教国ビザンティン帝国襲撃の理由がそろいました。
 
 1204年4月12日朝、コンスタンティノープルへの攻撃が開始されました。
 初日こそ、それなりの抵抗を示したビザンティンの大軍隊でしたが、皇帝がくるくると変わる中、戦うモチベーションも指揮系統も失い、翌日の朝には、街の南部が十字軍により制圧されました。そこかしこで火の手が上がり、ビザンティンの住民が逃げ惑う中、コンスタンティノープルは十字軍の手に落ちたのでした。
 
 そこで慣習により、十字軍兵士の三日間の略奪が行われました。緊張の後の勝者の興奮に、舞台は世界一の華やかな都。美しく貴重であればあるほど、彼らの征服欲と破壊欲を満たしたことでしょう。それが宝物であっても、宮中や貴族の女達であっても。
 コンスタンティノープルの街は、目も当てられないほどに荒らされ損なわれました。
 
 ヴェネツィアの男達がそれに加わらなかった、という証拠はありません。しかし彼らは、兵士というより商人であったので、貴重な写本やイコン、モザイク画、屏風などなどあらゆるものを持ち帰るのに夢中だったのです。
 と言っても、後で転売して儲けようというよりも、ヴェネツィア人にとって、ビザンティン芸術は彼ら自身の誇りだったからです。古代ローマの栄華を継承する唯一の文明として、憧れと同時に彼らの「ルーツ」のようなものを感じていたのです。
 
 この後、広大なビザンティン帝国の、領土の分割が行われます。
(その8に続く Gustave Dore コンスタンティノープルの入場)







Last updated  2008/12/27 05:39:59 PM
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2008/12/20
カテゴリ:歴 史
 ビザンティン帝国の首都、コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス=コンスタンティヌスの街)は、紀元前からの街ビザンティウムが、330年ローマ皇帝コンスタンティヌス(在位306-337)の遷都で、こう呼ばれるようになりました。
 
 十字軍の攻撃を受ける1204年までの約千年の間、難攻不落の都市であり、文化、経済レベルとも断トツに世界一の、華やかな都でした。
 しかし、大国のその繁栄が頂点に達すると、「お腹いっぱい」で動きが緩慢になり、新しい発想にも危機管理にも鈍感になりがちです。十字軍がやってきたのは、ビザンティン帝国のそういう時期でした。
 だから、今度の十字軍が我々を攻めるらしい、と知っても、この街が攻め落とされるような事はまず有り得ない、と皇帝も支配階級の貴族も信じていました。
 
 1203年7月、十字軍とヴェネツィア人の艦隊が、ボスポラス海峡に姿を現しました。フランスの騎士達の部隊は陸側から、ヴェネツィア人部隊は海側からの上陸を試みます。
 ガレー船上のヴェネツィア人達は、前面の街を取り囲む城壁と塔の高さに苦戦していました。その時、船上でそれを見ていた総督エンリコ・ダンドロが、「私を城壁の手前の岸に降ろせ」と命じたのです。
 それが転換へのきっかけでした。目も不自由な高齢の総督が、先頭を切って上陸したことによって、ヴェネツィア人の動きが変わり、金角湾の城壁を破り始めたのです。
 
 一方、上陸したフランス人騎士部隊は、数では完全に勝るビザンティンの部隊と対峙していました。その知らせを受けた総督ダンドロは、全ヴェネツィア軍とともに加勢に駆けつけます。
 それでも圧倒的有利は変わらないはずのビザンティン部隊が、戦わずして退却していったのです。数ではない、総督を始めとする、一人一人の気迫が圧倒したのでしょうか。
 
 皇帝の座をむりやり乗っ取った、アレクシウス3世でしたが、これは不利と見たのか、愛娘イレーネと目ぼしい宝石を持って逃走したのでした。
 釈放された前皇帝は、老齢を理由に息子アレクシウス4世に皇帝の座を譲ります。予定通りの十字軍側には問題はなかったのですが、ビザンティンの民衆にとって、アレクシウス4世は、外国人の操り人形であり、裏切り者でした。
 
 そんな、暴動や蜂起が起きてもおかしくない情勢もあり、新皇帝は十字軍に、約束のお金がすぐに払えないのもあるし、滞在の契約期間を延期して、1204年の春まで留まってほしいと頼みます。
 聖地奪回を忘れた訳ではない十字軍側は、不満を口にします。一方、出来たら聖地奪回などしたくないヴェネツィア側といえば、今から冬の到来で、ここに留まるのはいいとして、あまりに長引かせるのはまずいな、と感じていました。
 彼らヴェネツィア人は、長い交易上のつきあいから、新皇帝の言葉を鵜呑みにするには、ビザンティンの人間の性質を、知り過ぎていたのでした。(その7に続く 城壁に囲まれたコンスタンティノープルの街の絵)
                






Last updated  2008/12/20 04:33:02 PM
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2008/12/13
カテゴリ:歴 史
 十字軍への、ビザンティン帝国皇太子アレクシウス4世の依頼に、最初に賛成した人物がいました。モンフェラート候のボニファチオです。10世紀頃ピエモンテ州の丘陵地帯に興った侯爵家で、今回の十字軍の総大将を勤めている人です。
 
 ところで、アレクシウス4世の姉が二度目の結婚で、ホーエンシュタウフェンのフィリップ(ドイツ王1178-1208 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(通称赤髭王)の末子)に嫁いでいました。
 それで、アレクシウス4世は、十字軍にこれらの依頼をする前に、この義兄を頼ってビザンティン帝国の顛末を相談しに行っていたのです。
 
 フィリップは、妻の弟の窮状を助けてやりたいのと、最大のライバル関係にあるヴェルフェン家のオットー4世を出し抜きたい気持ちもあって、義弟アレクシウス4世の要望を受け入れます。
 
 この時に、このドイツ王と縁戚関係である、上記のモンフェラート候もフィリップのもとを訪れていたのです。彼らの間で、十字軍への依頼とその見返りについての、事前の根回しが出来ていたのは間違いないようです。 
 
 ヴェネツィアは、ビザンティン帝国での「お家騒動」の件は把握していましたが、ドイツ王とモンフェラート候が加わった、アレクシウス4世の王座奪還計画の情報まではつかんでいなかったので、ザーラでのビザンティン皇太子の登場は、想定外の出来事だったのです。
 しかし、総督エンリコ・ダンドロも、すばやく賛成を表明します。ヴェネツィアにとって、ビザンティン帝国との決着を付ける時が来ていたからです。
 
 ここ何十年か、ビザンティン帝国はイスラム教徒との戦いの他、国内の有力貴族達の賄賂の横行で腐敗がすすみ、市民が暴徒化することが多々ある等不安定な状態でした。
 そんな中、ヴェネツィアが伝統的に受けてきた交易優遇措置を、突然打ち切ったり、元に戻しても年々不利な条件にするような「なめられた」外交状態であったのと、帝国内のヴェネツィア人が、庶民の憎しみの対象となって殺害される事件も多発していたのです。
 
 熟考したのは、フランス人の騎士達でした。一度ならず二度までも、キリスト教徒を襲うのはいくら何でもまずいのでは、とのためらいがありました。
 けれども、総大将であるモンフェラート候が賛成したこと、そして見返りとしてアレクシウス4世が出した、「東西キリスト教会の統一」が実現すれば、結果的に神のためになるのだという「大義」に押され、彼らも目的地をエジプトからコンスタンティノープルへ変えることを承諾したのでした。
 最終的に「大義」が勝った理由として、大金30万マルクの存在は関係なかった、とはやはり言えないでしょう。
 
 これを知った法王インノケンティウス3世は、怒ります。しかしあくまで表面的にです。彼は、「東西キリスト教会の統一」への野望にくすぐられていたからです。それを示すように、今回の具体的な懲罰はありませんでした。
 
 1203年春、十字軍はいよいよ世界一の都、コンスタンティノープルに向けて出発します。
(その6に続く イスタンブールの聖ソフィア寺院(アギアソフィア)で、かつての正教会の総本山。4本の尖塔は15世紀オスマン帝国支配後に設置)







Last updated  2008/12/13 05:13:24 PM
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2008/12/06
カテゴリ:歴 史
 イストリア、ダルマツィアの街は、これまで目にしたこともないような艦隊を見ただけで、すぐに恭順を誓いました。
 一方、ザーラの街は抗戦の構えだったので、十字軍の襲撃を受け、再びヴェネツィアの支配下に入ることが約束されたのでした。
 
 しかし、これを知った法王インノケンティウス3世は激怒し、十字軍を破門します。ハンガリー王国もこの沿岸地方もキリスト教徒の民だったからです。
 フランスの騎士達はあわてて、法王に「ヴェネツィア人に、さもなければ船を出さない、と脅されやむを得ず」と「状況の説明」をし、なんとか破門は撤回されました。
 一方ヴェネツィア人は、破門には慣れていたので、破門されたままでした。
 
 たしかに、異教徒征伐の十字軍が、キリスト教の民を襲撃するのは、矛盾しています。しかしそれなら十字軍は、異教徒と交易することで成り立っている、ヴェネツィア共和国総督の提案は受けてはならなかったし、そもそも矛盾の元は、支払い能力があるかどうかも分らずに、大事業を企てたことにあります。
 
 一方、ヴェネツィアの行動の判断基準は、「国益」にかなうかどうか。短期、中期もしくは長期的な視野から、国のためになるか否かで、首尾一貫しています。
 
 さて1203年、ザーラで春待ちのために停泊中の十字軍に、ある人が面会を求めにやって来ました。
 ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の皇太子アレクシウス4世です。彼の父、皇帝イサク2世は兄弟であるアレクシウス3世の謀反にあい、失明させられたうえ投獄されていたのでした。
 
 アレクシウス4世は、父の仇である叔父を追放し、皇帝の座を取り戻す協力をしてほしい、そうすれば代わりに、30万マルク(20万マルクの説もあり)の現金、イスラム教徒との戦いのため1万人の軍隊、全ビザンティン帝国領土で、カトリック教会の権威の承認を約束するというものでした。
  アレクシウス4世のこの依頼が結果的に、第四回十字軍の運命を変えることになるのです。
(アレクシウスの肖像 その5に続く)







Last updated  2008/12/06 06:34:14 PM
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2008/11/29
カテゴリ:歴 史
 さて、この時のヴェネツィア総督エンリコ・ダンドロは、1107年生まれとあり、総督に選出された1192年に、すでに85歳。第四回十字軍の依頼があった1201年には、94歳ということになります。
 この生まれ年が正確かどうかは、はっきりとは分りませんが、とにかく相当の高齢であり、なおかつ衰えを見せない判断力、決断力の持ち主であったことは間違いないようです。
 
 この経験豊かな「老巨人」は、その大規模な十字軍側の計画を知り、輸送準備をするだけでなく、ここはひとつ自分たちも船と人を出して参加し、今後の交易にさらに有利になるよう開拓しようと、ヴェネツィア政府首脳とともに考えたのでしょう。 十字軍の依頼とは別に、ヴェネツィアの費用で、50隻のガレー船と人員を出すことを決めます。
 
 そしてその十字軍の依頼とヴェネツィア政府の決定が、サンマルコ寺院に集まった一万人のヴェネツィア市民に承諾され、国を挙げての準備が始まりました。
 
 一年後の1202年春、ヴェネツィアはすべての契約内容を果たし、たくさんの新しく作られた船が、出航を待っていました。しかし十字軍側といえば、集まるはずだった兵士の数も、お金もまったく足りていなかったのです。
 
 85000マルクのうち34000マルクが未払いのままでした。このままではヴェネツィアの大幅な赤字になるため、船を出す訳にはいきません。十字軍側は資金集めに奔走しますが、やはり足りない。さて、どうするか。
 
 総督エンリコ・ダンドロが、打開策としてある提案を十字軍側に持ちかけます。アドリア海南下の途中で、イストリア地方の街と、最近ハンガリー王国に占領されたザーラの街を取り戻すのを手伝ってくれたら、不足分は後で結構です、というものでした。
 
 アドリア海に面したイストリア、ダルマツィア地方(現在のクロアチア沿岸部)の街は、ヴェネツィアにとって、商船の通行上譲れない重要なポイントのため、以前よりヴェネツィア共和国の支配下にあったのですが、時折反乱することがあったのです。
 
 十字軍側は考慮の末、この提案を受け入れることにしました。ヴェネツィアに集合してから資金不足のため出発のめどが立たなかったのが、これでようやく動き出せるからです。
 
 1202年10月、総督ダンドロをはじめ、多くのヴェネツィア人を含む十字軍は、二百隻以上からなる艦隊でヴェネツィアを出航します。「世界」「巡礼者」「天国」と名付けられた3隻の大きなガレー船は、長さ60メートル幅10メートルで、一列に25人ずつ左右各二列で計100人の漕ぎ手と、そびえ立つ3本のマストが見るものを圧倒しました。(その4に続く)







Last updated  2008/11/29 04:38:45 PM
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2008/11/22
カテゴリ:歴 史
 ビザンティン帝国は、第一回十字軍の成功により、領土の回復に成功していましたが、1176年に再びトルコ勢に再び破れ、帝国は衰退していました。
 
 1198年に選出された、若き法王インノケンティウス3世(1160-1216)は、すぐさま第四回十字軍編成に着手しました。しかし、第一回十字軍から100年が経ち、第二回、第三回の不成功もあって、人々のあいだに以前のような熱狂はなく、法王の計画はなかなか具体化できないでいました。
 
 そこで、パリ近郊出身のフォルコ修道士に、白羽の矢が立てられます。パリの神学校で学んだこの修道士が、抜群の記憶力と、人に感銘を与える巧みな弁舌の持ち主であることを、法王が知っていたからです。
 
 フランスの騎士達が会した場所で、自ら、赤い十字の形の布を、僧衣の背に縫い付けたフォルコ修道士の演説が始まりました。
「位のある者も、ない者も一丸となり、聖地を守り抜かねばなりません!神がお望みになるのです。そう、神がお望みになるのなら、私たちは怖れることはなにもない。この十字架を手に、私たちの勇気と血で、汚れた者の手から取り戻そうではありませんか!」
 
 数分後にそこは、熱気と興奮に満ちた劇場のような空間と化していました。こうして第四回十字軍が動き出したのです。

 フランスの名のある騎士達が参加を表明し、シャンパーニュ伯、ブロワ伯、フランドル伯から二人ずつ計六人が、細事の決定の代表として選出されました。行程は海路とし、輸送全般は、ヴェネツィア共和国に依頼することが決定しました。
 
 1201年の春、この六人の代表はヴェネツィアにやってきます。この度の十字軍輸送の委託交渉のためです。
「4500人の騎士、4500頭の馬、20000人の歩兵、9000人の従者を運ぶ船と、それらの一年分の食糧」これが、十字軍側が、ヴェネツィアに頼んだ中身でした。
 これは単なる移動手段というのではなく、ヴェネツィア側にとっても国をあげての大事業で、失敗はできない大きな資本投下を意味していました。これを、85000マルクで1202年の6月29日までに用意をする、というのが契約の内容でした。
 
 さて、この時のヴェネツィア政府トップは、エンリコ・ダンドロです。この第41代総督は、しかし齢八十を超え、以前のケガで視力も十分ではない状態でした。(その3に続く)







Last updated  2008/11/22 05:25:54 PM
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2008/11/15
カテゴリ:歴 史
 「十字軍」という言葉は、理想又は信念に基づく、集団的な抗議行動をさす意味に使われたりもしますが、歴史的には中世カトリック教会の、異端征伐のための軍隊や戦争のことです。
 
 具体的には、1096年から1099年までの第一回十字軍遠征から、1270年の第八回までのことで、キリスト教発祥の聖地パレスティナを、イスラム教徒から奪回する目的で行われた戦争です。
 
 11世紀、中央アジアからトルコ系遊牧民であるセルジューク朝が台頭し、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の領土を侵食し始めていました。11世紀後半には、首都コンスタンティノープルも含む、アナトリア半島(小アジアとも。現在のトルコの大部分)を占領されます。
 
 ビザンティンの皇帝アレクシウス1世は、ローマ法王ウルバヌス2世に援軍を依頼します。
 ビザンティン帝国は、東方正教会とはいえキリスト教の民です。そこで、この教会改革と異教徒征伐に燃える法王は、1095年クレルモン教会会議で、十字軍遠征を宣言します。

 この第一回こそ、ビザンティン帝国の領土奪回に成功し、エルサレム王国を建設、当初の目的は達成したと言えますが、それ以降は第四回を除き、イスラム諸国の反撃にあい、基本的にはほとんどが失敗しています。
 
 現在でこそ、これらの十字軍遠征は、「聖戦」に名を借りた完全な侵略戦争であった、と考察されています。というのは、十字軍遠征への参加者は、宗教的な正義感というより、名誉欲や領土欲、または免罪符を手に入れるという、世俗的なモチベーションに動かされた者も多かったことなどからです。
 
 一方で、純粋な宗教的な正義感から、自腹を切って参加する者も、当然多くいました。これらの人々は、動機が純粋な分、もっとタチが悪いのです。「正義」という美酒に酔いしれると、他に耳を貸すだけでも不純だとでもいうように、脇目もふらず突き進んで行ってしまうからです。たとえ、その「正義」がキリストであれ、天皇であれ、マホメットであっても。
 
 さて、ヴェネツィアが関わったのは、第四回十字軍で、1202年から1204年のことです。当初ヴェネツィアの役割は、遠征に必要な装備(船、馬、食料など)を準備することでした。それが、どういう訳で主力として関わるようになったかを、次回からたどってみましょう。
(その2に続く)







Last updated  2008/11/15 05:18:42 PM
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2008/11/08
カテゴリ:歴 史
 この大きな潮流、つまりローマ教会とフランスの影響の少ないイギリスやアメリカでは、19世紀から現代まで、たくさんのヴェネツィア史の研究がなされ、その政治や経済、ヴェネツィア人の特殊性に関する書物が多く出版されています。
 
 日本では、塩野七生さんが『海の都の物語-ヴェネツィア共和国の一千年』を書いておられ、その取材力の広さと洞察力の深さだけでなく、読み物として素晴しく面白いこの本は、以前のヴェネツィア人の真骨頂と、かつてのこの街の空気を生き生きと伝えてくれます。

 この街に、アルヴィーゼ・ゾルジという歴史家がいます。総督も輩出しているヴェネツィアの古い家系の末裔で、現在のヴェネツィア文化、歴史の重鎮ですが、氏の著書『街、共和国、帝国 ヴェネツィア697-1797』の前書きに、こう書かれてあります。
 
 「いつの日か近い将来、恨みや先入観から解き放たれた新しい歴史家たちが、情熱と鋭い見識をもって、否定され中傷されて来たヴェネツィアの歴史を、きちんと検証する時が来るだろう」と。
 
 しかし、この大きな権威の潮流が変わる気配はないし、まず何よりも、今のヴェネツィア人である、この街の地元住人の多くが、自分たちの歴史について関心がないからです。 
 有名なこの街の出身である事や、名の知れた建築や芸術についての、ネームヴァリューゆえのプライドはあっても、自分たちの祖先が、何故どのようにして繁栄していったのかについて知りたいと欲するような、深く内なる誇りが見受けられないからです。
 
 なので私は、「そんな日」(いつかヴェネツィアの歴史がきちんと検証される日)は、とりわけイタリア人の手によっては、持たらされはしないと、悲観しています。






Last updated  2008/11/08 04:11:37 PM
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