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カテゴリ:人物伝
この19日間、ヴェネツィア共和国が何をしていたかというと、戦争に備えての、物資の調達をしていたのでした。法王の勅書を無視することは、法王庁に対する宣戦布告も同然であったからです。 さて、このヴェネツィア共和国の理論的な後ろ盾には、もちろんサルピがいました。彼はまず、「神を崇めるのに、法王の許可は不要である」とし、「法王庁の権限は、教会法によって制限されているはずである。しかし、今回のヴェネツィア共和国に対する措置は、その乱用にあたる。これは、あらゆる混乱とスキャンダルの元であり、ひいてはキリスト教精神の危機にもつながる重大な問題であり、明白な教会法違反である」と法王庁を非難しました。 サルピの理論は、支持者からはさらなる賞賛を得、反対に法王庁からは怒りを買いました。ヨーロッパ各国はというと、オランダは、明確にヴェネツィアの支持を表明。狂信的カトリック国スペインは、法王側。ドイツ、フランス、イギリスは、曖昧な態度もしくは、ヴェネツィアよりの姿勢でした。 1606年9月、サルピの仕事に満足したヴェネツィア政府は、年俸を倍の400ドゥカーティに昇給することを決定します。こう書くと、大企業やVIPの利益を守るために、契約で雇われた有能な弁護士のようなイメージになってしまいますが、決してそうではありません。 神学者として、またキリスト教の信仰を持つ者の理想と信念に基づく理論が、ヴェネツィアという国の誇り高い姿勢と一致していたのです。その共通点は「人間の尊厳」と言い換えてもいいかもしれません。 キリスト教の原点である、福音書の教えに戻った上で、教会のあらゆる世俗性(昇進、財産、権力など)を取り払い、霊的な関心だけが唯一最大のモチベーションであるのが彼の理想とする教会の姿でした。その慈悲の中にこそ、宗教の神髄があるのであって、形式を重んじること、法王庁の認可、恩赦をとりつけることは、本質からははずれているとしました。教会が本来の誠実さを取り戻し、本当の意味で人々の心の支えになるような宗教が広がってゆくことを、彼は強く望んでいたのです。 1606年10月20日、サルピは3人の弟子とともに、ローマ法王庁に召喚されますが、サルピは、身の安全が保障されていないとして、これを拒否。年が明けた1607年1月5日、これによりサルピらは破門されます。(その7に続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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サルピの名を知ったのは昔のNHKラジオ講座でした。それはサン・マルコの鐘楼で望遠鏡をガリレーオが披露する労を取ったのがサルピだった、と記憶します。今はサンタ・ソフィーア広場に立つ彼の銅像を仰ぐ度に、ヴェネツィアの今は、一つには彼にあると思ってしまいます。
(2008/06/30 09:58:17 AM)
NHKのイタリア語の講座ですか?サルピについて話されていたとは嬉しいですね。ガリレオの名前は、子供でも知っていますが、サルピはそうではありません。成し遂げた仕事の大きさと、人間性を考えると、ガリレオ以上に知られていてもおかしくないのですが。
ところで、サルピの銅像はサンタ・ソフィア広場ではなくて、サンタ・フォスカ広場ですね。 (2008/06/30 03:17:27 PM) |