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ヴェネツィアの獅子たち

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Reiko Fujiwara Marini

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2008/07/04
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カテゴリ:人物伝
 ヴェネツィアに「聖務禁止令」を出し、サルピを破門したローマ法王パウロ5世ですが、ヨーロッパ各国の動きから見ても、本当の戦争に持ち込んでヴェネツィアを叩くには、全く不十分な状況でした。
 1607年4月、ヴェネツィア共和国と法王庁の抗争は、ヨーロッパ各国(フランス=アンリ4世、スペイン=フェリペ3世、イギリス=ジェームス1世、ドイツ=ルドルフ2世、サヴォイア公、マントヴァ公)の取り持つ、和解調停に委ねられることになりました。
 
 しかし、ヴェネツィアは一歩も譲る気はありません。ヴェネツィアの和解の条件は一つ、「法王庁が、我々の司法への口出しをやめること」。
 
 ヴェネツィアは、聖務禁止令の解除、教会財産規制法の撤廃要求の取り下げ、サルピらへの破門の撤回という条件がすべて満たされたのを確認して、ようやく、二人の罪を犯した聖職者だけは、ローマへ引き渡します。つまり和解と言っても、ヴェネツィア側の事実上の勝利でした。
 
 1607年9月、ローマ駐在のヴェネツィア大使コンタリーニが、ヴェネツィア政府にある報告をしていました。それは、サルピの暗殺をたくらむ不穏な動きがある、というものでした。
 ヴェネツィア政府は直ちに、サルピに護衛をつけようとしますが、サルピは断ります。彼にすれば、すべて想定済みというところでしょうか。なので、今になって自分の信念はもちろん、生活スタイルさえも変える気はさらさらなかったのでしょう。
 
 とはいえ、いくら予想はしていたと言っても、実際に自分の命が狙われているとはっきりした中で、護衛を断り、通常の生活を送るというのは、ふつう出来ることではありません。こういったところに、静かで強靭な精神と気骨ある彼の生き方が表れています。
 
 サルピが刺客に襲われたのは、1607年10月5日の夕暮れ時、弟子と供の者とで修道院へ帰る途中の出来事でした。ちょうどサンタ・フォスカ橋のたもと、あと一歩で修道院という場所です。
 短剣で首を二カ所、三カ所目は右耳の後から入った刃が、鼻と右頬の間に突き抜けるというものでした。たまたまそれを見た付近の女たちの悲鳴で、人々が駆けつけるのを見て、刺客達は火縄銃を発砲しながら走り去っていきました。
 
 崩れ落ちるように倒れたサルピを供の弟子が抱え、もはや万事休すかと思いながら、刺さったままの短剣を抜くと、なんと息をしているではありませんか。急いで近所の家に入り応急処置を施した後、舟を呼んだのでした。
 
 サルピ襲撃のニュースは、その夜のうちにヴェネツィア中に広がります。ヴェネツィアを救った英雄サルピの容態を少しでも知ろうと、修道院のまわりには連日人々が取り囲みました。
 ヴェネツィア政府は、パドヴァ大学(医学のレベルは当時世界最高峰)から最高の外科医によるチームを派遣し、毎日詳しく容態の報告をさせました。そして、怒りに燃える市民には、とにかく我々のサルピ修道士は生きていること、犯人逮捕に全力をあげることを伝えます。
(その8に続く。写真はサルピが襲われた場所 サンタ・フォスカ橋。右手に見えるのがサンタ・フォスカ広場に立つサルピの銅像)






Last updated  2008/07/04 05:07:28 PM
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