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カテゴリ:歴 史
一方、ザーラの街は抗戦の構えだったので、十字軍の襲撃を受け、再びヴェネツィアの支配下に入ることが約束されたのでした。 しかし、これを知った法王インノケンティウス3世は激怒し、十字軍を破門します。ハンガリー王国もこの沿岸地方もキリスト教徒の民だったからです。 フランスの騎士達はあわてて、法王に「ヴェネツィア人に、さもなければ船を出さない、と脅されやむを得ず」と「状況の説明」をし、なんとか破門は撤回されました。 一方ヴェネツィア人は、破門には慣れていたので、破門されたままでした。 たしかに、異教徒征伐の十字軍が、キリスト教の民を襲撃するのは、矛盾しています。しかしそれなら十字軍は、異教徒と交易することで成り立っている、ヴェネツィア共和国総督の提案は受けてはならなかったし、そもそも矛盾の元は、支払い能力があるかどうかも分らずに、大事業を企てたことにあります。 一方、ヴェネツィアの行動の判断基準は、「国益」にかなうかどうか。短期、中期もしくは長期的な視野から、国のためになるか否かで、首尾一貫しています。 さて1203年、ザーラで春待ちのために停泊中の十字軍に、ある人が面会を求めにやって来ました。 ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の皇太子アレクシウス4世です。彼の父、皇帝イサク2世は兄弟であるアレクシウス3世の謀反にあい、失明させられたうえ投獄されていたのでした。 アレクシウス4世は、父の仇である叔父を追放し、皇帝の座を取り戻す協力をしてほしい、そうすれば代わりに、30万マルク(20万マルクの説もあり)の現金、イスラム教徒との戦いのため1万人の軍隊、全ビザンティン帝国領土で、カトリック教会の権威の承認を約束するというものでした。 アレクシウス4世のこの依頼が結果的に、第四回十字軍の運命を変えることになるのです。 (アレクシウスの肖像 その5に続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008/12/06 06:34:14 PM
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