ヴェネツィアと十字軍(その8)
略奪と破壊のあと、十字軍側、ヴェネツィア側からそれぞれ六人ずつの代表者が選出されました。その中から、ラテン帝国の初代の皇帝と総司教を決めるためです。 この地域を知り尽くした海の男として、ヴェネツィアのリーダーとして、この十字軍の実質上の総司令官であった総督エンリコ・ダンドロは、12人の候補者の中でも最も有力な初代皇帝候補でしたが、高齢を理由に候補者にされることも辞退します。 投票の結果、初代皇帝にはフランドル伯のボードワンが就くことになりました。そしてビザンティン帝国の広大な領地が、フランスの主な騎士とヴェネツィアとで分割されました。小アジアのニカイア地方を、ブロワ伯。ペロポネソス半島のアカイア地方を、ヴィラルドゥアン家(シャンパーニュ伯の家老職の家柄)。テッサリア、マケドニア地方を、モンフェラート候など。 ヴェネツィアの総督には、この度の分割で「東ローマ帝国の8分の3の統治者」という称号が付け加えられました。 その結果、アドリア海東部にとどまらず、イオニア海とエーゲ海のほとんどの島を所有することになり、ヴェネツィアからコンスタンティノープルの金角湾まで、一直線で結ばれるようになったのでした。 これにより、ヴェネツィアの海の支配権と交易上の優位性は圧倒的に増大し、ヨーロッパの強国の仲間入りを果たします。 しかし、近代から現在の、第四回十字軍のヴェネツィアに対する評価は「理想も思想も持たないヴェネツィア商人が、巧みに十字軍を利用して私利私欲を満たした詐欺的行為」というものです。 ヴェネツィアはただ、手持ちのカードと配られたカードで、自国の繁栄につながるよう臨機応変に行動しただけなのです。 また戦争も、ヴェネツィアが仕掛けたように言われていますが実は反対で、 最終的な攻撃に入る前に、万が一戦争が回避できるならと、アレクシウス5世との交渉を最後まで提案したのも、ダンドロ総督でした。 それに本当に私利私欲なら、ダンドロ総督が高齢であっても、皇帝の座に就いたでしょう。すぐに息子か孫にでも譲ればよいのですから。 もちろんダンドロは、歴代の総督の中でも特に優れた人物ですが、彼が特別なのではなく、そういう動きをしないための制度と気風が、ヴェネツィアにはすでに確立されていたのです。 一つの国も一個人も、まったく「私利私欲」無しの行動は有り得ないと思いますが、敢えて言うなら、この言葉から一番遠くに位置していたのが、ヴェネツィアであったと思います。 現代では、ネガティヴな響きの十字軍の、ましてキリスト教徒を攻撃し大義すら失った第四回十字軍を、すべて「ヴェネツィア商人」のせいにして、「罪悪感」を洗い流そうとする「心理」から来る、西欧の歴史の「検証」を感じでしまうのです。 ラテン帝国は、建設から50年ほどしか保たず、それから200年してトルコがコンスタンティノープルに侵入します。聖ソフィア寺院はモスクとして使われ、コンスタンティノープルは、千年以上呼ばれたその名を、イスタンブール(ISLAM-BOL=イスラムの豊かさ)と変えます。 ヴェネツィア総督エンリコ・ダンドロは、1205年6月1日コンスタンティノープルでその98歳の生涯を閉じました。聖ソフィア寺院に葬られ、名を刻んだ墓石は今でも残っています。(ラテン文字で書かれたエンリコ・ダンドロの名)