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ヴェネツィアの獅子たち

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Reiko Fujiwara Marini

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暮らし

2008/09/05
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カテゴリ:暮らし
 フィレンツェから逃げて来ていた、ロレンツィーノ・デ・メディチ(1514-1548)が、1548年2月26日に叔父と一緒に暗殺された場所として有名な、サン・ポーロ広場は、「カンポ=広場」と名のつく所では、一番大きな広場です。
 
 昔から、ここはその広さから、たくさんの催し物やお祭り、宗教行事などに使われて来ました。牛追い、仮面舞踏会の会場、夜は花火大会、馬上槍試合、色々な展示会や市場などです。
 
 1540年頃、朝日の中を、近くに住むある紳士がこのサン・ポーロ広場を散歩をしていました。するとどこからか、新生児の泣き声が聞こえます。その声の方へ近づいてみると、カゴがネコにひっくり返されて、赤ん坊が地面で泣いていたのでした。
 
 その紳士に引き取られ、 1563年にサン・ポーロ教区の司祭となった、アントニオ・ガットは、夜のサン・ポーロ広場に、生まれてすぐに置き去りにされた捨て子でした。 朝になれば、広く常に人のいるこの場所なら、親切な誰かが拾ってくれると考えたのでしょう。
 「ガット」という名字を付けられたのは、夜のこの広場で、一番最初に彼を見つけたのが、ガット(=ネコ)だったからなのかもしれません。
 
 今も、このサン・ポーロ広場は、色々なイベントに使われています。冬は、仮設の小さなスケートリンクが作られたり、ミニ移動動物園が来たり、カーニヴァルの会場にもなります。今の時期は、映画祭の一環で、野外映画が連日上映されています。
 秋は、掃いても掃いても積もる落ち葉を、ザクザク言わせながら、この広場を横切って、なるべく人通りの少ない路地へと消えるのが、地元の歩き方です。







Last updated  2008/09/05 07:25:00 PM
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2008/08/01
カテゴリ:暮らし
 『水に上に築かれ、水に囲まれた、ヴェネト人の神聖なる街ヴェネツィアでは、城壁の代わりに水によって護られている。よって、これに損害を与える者は、いかなる者も敵とみなし厳罰に処す。この法律は未来永劫にわたり不変である。』
 
 こういう内容のラテン語の碑文が、1505年にヴェネツィア共和国の「水の行政官」庁の壁に刻まれました。人文学者ジャンバッティスタ・チペッリによる文で、現在、この大理石の碑文は、コッレール美術館に保存されています。
 この文章からもわかるように、特殊な沼沢地にある都にとって、「水の扱い」は最重要事項でした。具体的には、淡水と海水の流れの調節と、飲料水と水路の確保です。
 
 この水路の目印となっているのが、写真の「ブリコラ」または「ブリッコラ」と呼ばれる杭です。ヴェネツィアの運河にあるのは、ほとんどが「パーリ」「パリーナ」と呼ばれる、舟を繋ぎ止めるための棒杭ですが、「ブリコラ」は、広いラグーナ上の通行可能な水路があることを示す標識で、島から舟で少し外に出てみると、すぐに目にすることが出来ます。
 
 だいたい三本くらいの太い杭を、金属のベルトで結びつけてあり、先端部分には浸食を防ぐためのタールが塗られています。その中で「ダーマ」(写真右)と呼ばれているのは、三本もしくは四本のうちの一本が、長く突き出ていて、水路の始まりを示しています。
 
 これらの材料には、穴を開け害を与えるフナクイムシに強いことから、カシやクリの木が使われています。 カモメの止まり木にもなっているこのブリコラは、 それでも、バクテリアとフナクイムシが原因で、十年程で朽ち果てるので、新しい物に立て替えられます。舟を係留するための、「パーリ」は、太さにもよりますが、二、三年から七、八年で取り替え時期が来ます。
 
 最近は、運河の中にある「パーリ」の中で、プラスティックのものが出て来ました。表面には木目のような加工もしてあって、よく見ないことには、その材質が木なのかプラスティックなのかはわかりません。材料費は木材より高くつきますが、立て替えがほとんど必要ないので、結果的には経済的だからです。
 
 夕暮れのラグーナで、朽ち果てたブリコラに、カモメがとまっているのはそれなりの風情があるのですが、それは旅人的な感傷というものかもしれません。経済的な上に、新たに木を消費しなくて済むという「エコ商品」となれば、反対する理由もなくなるでしょう。
 
 まだ今は、正式には認可されていないプラスティックのパーリは、その材質ゆえにちょっと見下されている感じですが、そのうち「エコ-パーリ」「エコ-ブリコラ」などという名前がついて、少しずつ、木にとって替わって行くのではないかと思います。







Last updated  2008/08/01 03:58:01 PM
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2008/02/16
カテゴリ:暮らし
 ヴェネツィアの道と広場につかわれている地面の材質は、そのほとんどが粗面岩(trachite)という石です。ここから30キロほどのところにある、エウガネオの岩山で採石されるアルカリ火山岩で、ローマ時代から建築材料として使われてきました。
 ヴェネツィアの街づくりの中で、最初、道は土を打ち固めたものでした。雨のたびにぬかるんで、女たちは服を汚さないために、高下駄のような高さ30センチもある木靴を使っていましたが、15世紀の初めには禁止されています。

 13世紀には主要な道が、土からレンガを埋めて舗装されるようになった、と資料にあります。
サンマルコ広場周辺が、レンガで舗装されたのが1267年という記録があり、どうもこれ以前の舗装の記録がないのですが、これ以前のデータが残っていないことが、それより前に舗装された道や広場がなかった、という意味にはならないでしょう。
 13世紀前半、すでに国際的な物流と市の拠点であったリアルト周辺が、泥でぬかるむ道だったとは考えにくいものがあるからです。
 実利主義のヴェネツィア人のこと。儀式や式典などで使うサンマルコ広場より、商業の中心のリアルト地区を先に整備した可能性も十分にあると思うのです。
 広場の中心にある井戸の周りにしても、雨水を貯めてろ過させるためには、地面に緩やかな傾斜をつける必要があったので、なんらかのマテリアルで舗装していたと思います。

 その後16世紀になって、レンガから、より耐久性の高い今の材質であるこの粗面岩という石に置き換えられるようになったようです。
 ほとんどの部分がグレーで、たまにうす茶色のものがあり、縁石や橋の縁などには白い大理石が使われています。
 






Last updated  2008/02/16 06:02:03 PM
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2008/01/02
カテゴリ:暮らし
 元旦の昨日、ヴェネツィア本島の北側のラグーナに出て初日の出を待ちました。7時50分、サン・ミケーレ島とヴェネツィアとの間に、2008年の太陽が昇り始めました。光の迫力とその昇る勢いに、出てくるのは「すごい」か「きれい」とかの平凡な言葉だけです。自分の表現の貧しさもさりながら、言葉で分析する余裕さえ与えない、圧倒的な存在感がそこにあるからでしょう。
 こちらでは、初日の出がどうだった、今年は曇ってて残念だった、などと話題になることはありません。イタリア人も、山好きのヴェネツィア人も自然の美しさは十分感じているのですが、彼等にとって太陽は、あくまで太陽であり日光です。「お日様」や「お月さん」などと、「様」や「さん」付けで呼んだりする、擬人法的な日本人の愛着を、欧米では「こどもじみた」とか「幼稚な」感じ方として受け取られがちです。
 
 イタリア人の知人が、ぼやきながら話してくれました。彼はある日バスで帰路につく途中、車窓からとても美しい夕日を見たそうです。まわりの雲を、オレンジから赤紫のグラデーションに変えながら沈んでゆく夕日に釘付けになっていました。バスがカーブした後も、首をひねって見ていると、隣の婦人は、何をそんなに見ているのだろうと気になったのでしょう。同じ方を見て、ただの夕日だと知り、すぐに向きを戻し、逆にその「ただの夕日」をひたすら見ていた知人をいぶかし気に見たそうです。
『バスに乗ってる誰もが、信じられないくらい無関心だったんだ。でもきっと乗客が日本人なら、多くがあの夕日に心を動かされたと思うよ。』と。そうかもしれません。少なくとも、朝日や夕日、月や花を愛でる心は「こどもっぽい」のではなく、それ自体が感受性という文化であるからだと思います。






Last updated  2008/01/03 12:47:57 AM
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2007/12/28
カテゴリ:暮らし
 ナポレオンが「世界一のサロン」と讃え、詩人ミュッセ(1810-1857)が、「世界の大広間」と表現した、サンマルコ広場ですが、連日ゴミとの格闘の場でもあります。この街を訪れるほとんどすべての人が目指す場所であるため、人の数に比例して当然ゴミの量も増えていきます。
 このサンマルコ広場では、歩きながらの飲食、地面や石段に座っての飲食は禁止されています。そのたびに落とされる、ペットボトルや食べ物の残りかすが、広場を汚すのを避けるためで、特にパンやクラッカーなどの食べ残しは、ハトのかっこうのエサになり、ハトのフンの被害を広げることになるからです。広場のハトのエサ売り業の人達も、いずれ廃業することが決まっています。
 物価の高いこの街の、まして観光客向けのレストランに「危険をおかして」入るより、サンマルコ広場でパニーノでも、という気持ちはわかるのですが、サンマルコ広場では食べられません。(広場をラグーナに向かって抜けると、見晴らしの良い場所がたくさん見つかります。)
 しかしこの「サンマルコ広場での飲食禁止」もようやく自治体が腰を上げたばかりで、まだまだ浸透したとは言えません。観光客の中でも一番マナーが悪いのが、イタリア人です。実際に広場で飲食をしている人へ注意をするために、自治体から派遣されているパトロール員に、『えー、なんでダメなの?ローマではいいのに!』などと文句をつけるのはたいていこの国の人間なのです。

 イタリアには、世界遺産の60%があると言われています。日本より小さなこの国に、世界の6割があるというのはものすごい量です。イタリア中歴史的価値の高い遺産だらけで、掘ればまだまだローマ時代のものがわんさか出土するでしょう。その絶対的な豊富さのため、歴史的価値は当たり前となってしまい、セメントの電柱と大理石の円柱の差別も出来ない人も多いのです。
 国立公園でも歴史的地区でも、観光客がマナーを守るのはもちろん必要ですが、まず第一にその土地の人間が、遺産を大切にする、街をきれいにする、意識なくしてどう外部の人間に要求出来るでしょう。ヴェネツィア人も御多分にもれず、豊かさ故の無神経で自分の街を扱っています。石畳の至る所にある、放置された犬のフンを見るだけでそれはわかります。

 ちなみに、観光客で一番マナーが良いのは、もちろん日本人です。






Last updated  2007/12/28 08:18:41 PM
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2007/12/22
カテゴリ:暮らし
 古代ローマで用いられた、「?,?、?」などのローマ数字は、現在でもこの街で頻繁に見かけるもので、それはヴェネツィアという島全体が、「歴史的保護地区」であるためでもあります。でもこの街に限らず、イタリアやヨーロッパの他の都市でも、教会内部のモニュメントに彫られたものや、彫刻や絵画の作品のすみにサインとともに記されている、ローマ数字を目にする機会はよくあります。
 それは、ローマカトリック教会の公用語というだけでなく、学術上も文学用語としても、長い間ラテン語がつかわれていて、それとともに公式文書や記念碑などの数字には、ローマ数字が用いられてきたからです。
 日本でローマ数字を見るのは、時計の文字盤くらいで、大きな数のローマ数字をつかうことはあまりないと思います。が、ヴェネツィアはもちろん、ヨーロッパ旅行で古いものを見て歩く時、ローマ数字の簡単なルールを知っておくと便利です。
 
 写真の記念碑に記された年は、「MDCCXLI」で、1741年ということになります。「M=1000」+「D=500」+「(C=100)×2」+「XL=40」+「I=1」となるからです。「L=50」で、「XL=40」であるのは、「IV=4」や「IX=9」のように、左側にある数を右側から引くためです。たとえば1492年なら「MCDXCII」となり、1945年では「MCMXLV」と表記され、来年2008年は「MMVIII」とあらわされます。
 このようにローマ数字は、数字としてはとても原始的で、アラビア数字の方がずっと合理的なのですが、アラビア数字がヨーロッパに入ってからも使い続けていたところを見ると、ラテン語とともにローマ数字が、オフィシャルであることを意味する以上に、彼らがそこに威厳を感じていたからでしょう。日本の戸籍等の数字が、「壱」や「弐」になっているのと少し似ているでしょうか。
 次回のヨーロッパ旅行の時には、活用してみて下さい。過去を覗くちょっとした入り口になるかもしれません。







Last updated  2007/12/22 07:51:18 PM
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2007/11/25
カテゴリ:暮らし
 世界で最初のカジノは、ヴェネツィアで、1638年にオープンしました。
ラスベガスやモンテカルロなどと規模ではまったく比較になりませんが、今でもカンナレージョ地区の大運河に面した由緒ある館で、クリスマス時期を除くオールシーズンで開いています。
 このカジノがある、写真の「ヴェンドラミン=カレルジ館」は、1481年にアンドレア・ロレダンの注文により建てられた、ヴェネツィアルネサンス様式の建築です。ロレダン家の財政が傾いたため、100年後の1581年に、5万ドゥカートで売った、という記録が残っています。
 
 その後18世紀にヴェンドラミン家の所有となり、1946年にヴェネツィア市のものとなった後、1959年から市営のカジノになりました。
 1882年には作曲家のリヒャルト・ワーグナーが、家族とともにこの館に住み始めています。これ以前に彼がヴェネツィアに滞在したときに、「この街は、馬車の音がしなくてイライラせずに作曲に専念出来る」というような内容の手紙を、義父のフランツ・リスト(妻コジマの父親)にあてて送っています。
 
 ワーグナーが、大運河に面した館で作曲していた頃のヴェネツィアは、共和国が崩壊して100年近く経った頃です。かつての海運王国ヴェネツィアが、ナポレオンとオーストリアの間で、まるでオモチャかお土産のように、取ったり取られたりした後、イタリア統一でサヴォイア家の支配下にあった時期でした。貴族も、代々の由緒ある館を安値で外国人に売り払い、それもない普通の人々は、その多くがヴェネツィアやその周辺の土地を捨てて、移民を余儀なくされた時期で、ヴェネツィアの歴史の中で、一番辛く屈辱的な時代だったと言えるでしょう。
 1883年、2月13日ワーグナーは心臓発作のため、この館で亡くなっています。その遺体は、ゴンドラで駅まで運ばれ、バイロイトに埋葬されたということです。

 






Last updated  2007/11/25 10:07:49 PM
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2007/10/30
カテゴリ:暮らし
 ヴェネツィア独特のスタイルの居酒屋に、BACARO(バーカロ)というのがあります。「バーカロ」は基本的には立ち飲みで、昼食や夕食の前に、ちょっとしたおつまみで軽くワインを飲む、というようなカジュアルな場所です。おしゃべりをしながら飲む社交場、という意味からもイギリスのパブと感覚的には似ているでしょう。
 元々は飲むだけで、種類を豊富に揃えているワインの立ち飲み処だったのが、ちょっとした食べ物もあればなおいい、ということでおつまみも増えていったようです。
 
 ヴェネツィアでは、一杯のワインを「オンブラ」(日陰のこと)と呼びます。これはその昔、サンマルコ広場の鐘楼の日陰で、ワイン樽からの小売りがされていて、日陰が移動するたびにワイン樽もそれに合わせて動いていたので、「オンブラに行く」とは、「ちょっとワインをひっかけにいく」と言う意味になったのでした。
 おつまみは「チケッティ」と呼ばれ、本来は「ほんの少し」という意味で、だいたい一口サイズの食べ物がほとんどです。典型的なものとしては、バカラマンテカート(干しタラのペースト)をフランスパンにたっぷりのせたのや、魚介のフリット、イイダコのオーブン焼き、茄子のマリネ、干しトマトのオイル漬け、オリーブ、肉団子などなど。
 写真のように、「バーカロ」は小さなスペースで入ってすぐの所にガラスケースがあり、上記のようなおつまみが並べられています。アドリア海でとれる魚介類が多いのが「バーカロ」の特色でもあります。
 以前は「バーカロ」と言えば、地元の庶民とともに、アルコール依存症もしくは一歩手前の人達なども出入りする、いわゆる大衆酒場でした。観光客の増加とともに、洗練されていったぶんだけ値段も上がり、自動的に締め出されたかっこうのかつての常連客が、運河沿いをフラフラ歩くのを、時々見かけることがあります。(写真はドルソドゥーロ地区サントロヴァーゾ付近の典型的なバーカロ)
 






Last updated  2007/10/30 06:02:09 PM
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2007/10/07
カテゴリ:暮らし
 先日、サンマルコ広場奥、総督宮殿近くの銀行に強盗が押し入り、一万ユーロ(160万円ほど)が奪われるという事件がありました。野球帽にサングラスの強盗は、客の一人にカッターナイフを向け、「言うことを聞けばケガはさせない」と言って行員に現金を出させ、逃走しました。犯人が発したいくつかの言葉は、精一杯の標準語だったようですが、強いヴェネツィア訛りは隠しきれなかったようで、すぐに地元の人間であること以上に、防犯カメラの映像から犯人のおよその目星がついたようです。
 実際、ヴェネツィアで強盗事件というのは、他の街に比べると、かなり少ないと思います。車やバイク、自転車も存在しない街ですから、強盗の立場に立ってみると、強奪した後の逃げる手段が、「徒歩」というのはやはりやりにくいでしょう。ボートで逃げるにしても、徒歩にしても、迷路のような道や運河を知り尽くしてないと無理なので、結局地元の人間しか不可能な条件が揃っているからです。
 しかし、他のタイプの泥棒、つまり空き巣狙いだとか、スリなどは他の街同様、もしくはそれ以上かもしれません。第二、第三の家として、常時住まれていない高級アパート等が多くあることも理由の一つでしょう。また、ローマやミラノの中央駅付近で悪名高いジプシーの子供のスリ団が、最近ではヴェネツィアにも上陸しています。彼らの「腕」は、地元の人間でも被害に遭うほど、本当にすばやく巧妙ですし、ヴェネツィアの空の玄関、マルコ・ポーロ国際空港でも、手荷物を狙った置き引きが頻発しています。
 殺人事件などの重犯罪は、比較的少ないこと、交通事故が存在しないことを考えると、全体的には安全な街であると思っています。それでも、旅行される際はバックも持ち方等を工夫して、観光を楽しんで頂きたいものです。(写真は、多くの人でにぎわうリアルト橋)






Last updated  2007/10/07 07:14:53 PM
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2007/04/20
カテゴリ:暮らし
 人で混み合った、迷路のようなヴェネツィアの道に疲れたら、ドルソドゥーロ地区の南側に横たわるザッテレの河岸で一休みしましょう。ジュデッカ島を見渡すこの広い河岸は、ヴェネツィアの島の南側に位置しているため、冬でも一日中光にあふれています。フォンダメンタ(運河沿いの道)としても、かなり幅が広くまっすぐで見晴らしもよいため、朝6時から7時頃はジョギングする人たちも多く見かけます。このところのように晴れて日中の気温が20度以上になると、肌をさらして寝そべる人もたくさんでてきて、初夏の到来を感じさせます。
 
 「ザッテレ」とは「いかだ」という意味で、16世紀にこの街に必要な木材、とりわけ建物の土台部分に大量に使用する木材を、この河岸で荷揚げしていました。大量の木材は、ヴェネト州北部のカドーレ地方の森林から切り出して、ピアーヴェ川をいかだにして運んだことから、この名前がついたようです。
 アカデミア美術館から南に五分ほど歩けば、このザッテレの河岸に出ます。ルネサンス絵画とゴシック建築を見るのに疲れたら、Ponte Longo(ロンゴ橋)のそばにある、「NICO」でジェラートを買って食べましょう。まばゆい光が、ジュデッカ運河に反射するラグーナを眺めながらほおばるイタリアンジェラートは絶品です。






Last updated  2007/04/20 11:49:41 PM
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