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ヴェネツィアの獅子たち

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Reiko Fujiwara Marini

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見どころ

2008/08/22
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カテゴリ:見どころ
「カ・ドーロ」、すなわち「黄金の家」と呼ばれる、15世紀のヴェネツィアンゴシックの宝は、大運河の中でも最も有名な館のひとつです。
 名前の由来は、最初のオーナーが、ファサードを黄金と極彩色で覆わせていたためです。
 
 この左右非対称の、きらびやかな彫刻の窓を持つ館は、1424年から1430年の間に、マリーノ・コンタリーニが注文し、ジョヴァンニとバルトロメオ・ボン父子(兄弟の説もあり)が設計したものです。
 
 その後、孫娘の結婚の持参金として他家のものになり、19世紀には当時のオーナーの趣味で、ひどい変更がほどこされました。
 
 1894年に、ジョルジョ・フランケッティ男爵が、自分の絵画のコレクションを展示し公開するためにこの館を買い取りました。そして、より15世紀のオリジナルの形に近い修復をかさねていきました。
 
 1916年に、男爵は絵画のコレクションごと、この館を国に譲渡し、1927年には、「ジョルジョ・フランケッティ美術館」としてオープンしました。

 ティツィアーノの「ヴィーナス」や、マンテーニャの最後の作品、カルパッチョの「受胎告知」などが見られます。
 
 館の内部はもちろん、テラスから眺める大運河と、対岸のリアルト市場近くからファサードをゆっくりと味わいたいものです。







Last updated  2008/08/22 03:45:47 PM
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2008/05/03
カテゴリ:見どころ
 ドルソドゥーロ地区、アカデミア橋のたもとに、アカデミア美術館があります。
 
 1750年9月24日に、ヴェネツィア評議会の決定で、アカデミア美術学校が創設されました。1807年には美術館が併設されます。学生の作品の展示のためと、1797年に崩壊したこの国の、ヴェネツィア共和国時代の芸術財産、閉鎖された教会の宝物の保護の目的のためです。

 1817年に、美術館は一般に公開されるようになり、現在は国立の美術館として、14-.17世紀を中心に、貴重なヴェネツィア絵画が一挙に見られる場所です。
 
 正確さと人間的な暖かみを併せ持つ画風の、ジェンティーレ、ジョヴァンニ・ベッリーニ(1429頃-1507、1430頃-1516)の兄弟。
 彼らの弟子であるカルパッチョ(1455頃-1526)、大気まで感じさせる風景画、肖像画でも有名なジョルジョーネ(1477頃-1510)。
 
 ルネサンスの巨匠ティツィアーノ(1490-1576)などの他、ヴェロネーゼ(1528-1588)、ティントレット(1518-1594)、ヴェネツィア派最後の大家といわれるダイナミックな構図のティエポロ(1696-1770)。
 そして写真のような精密さと美しさのカナレット(1697-1768)まで、ヴェネツィア絵画の至宝が集められています。
 
 先日は、「最後のティツィアーノ」と題した、彼の晩年の作品の特別展で、多少列ができていましたが、内部は比較的ゆったり見ることができました。
 ひとつひとつの絵の前にたたずんで、色使いや構図に驚いたり、遊び心のある画家のサインを見つけたりという、静寂でゆたかな時間を味わうことができます。
 
 直接、絵の前に立つと、写真集や解説書で見るときにはない、困惑にも似た感動につつまれることがあります。それが本物の醍醐味というものなのでしょう。








Last updated  2008/05/03 04:40:16 PM
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2008/03/29
カテゴリ:見どころ
 この美しく精巧な時計を作り上げた
ジャンカルロ・ライニエーリと、その父ジャンパオロが
制作終了後に「他の場所で、同じ時計を二度と作れないように」と
「ヴェネツィア政府により、目玉をくり抜かれた」という伝説が
あります。

 これがもし本当のことなら、こんな酷い話はありません。
傑作を作ったがゆえに、その腕を疎まれ、職人生命と
人間としての尊厳を奪われるなんて。

 しかしこれは、後々の噂好きの人々が作り上げた、
あくまで「お話」であって、事実ではないでしょう。

 まず、「ライニエーリ父子は、その後家族でこの時計塔
に住み、時計の調節、修理を任された」という記述があります。
 
 傑作といっても、絵画や彫刻と違って、歯車が複雑に
からみあった、しかけのある「機械」です。
 さらに、時計は風雨や雷などにもさらされる外にあるので
メンテナンスは不可欠だったでしょう。
 
 専門の知識と技術が求められる修理を「失明した」状態で
任されたとは、まず考えられません。

 もう一つの理由として、ヴェネツィア共和国は「技術立国」
であったことです。
 魚と塩しか資源のない、この国の豊かさは、様々な分野の
徹底した職人達の技術で成り立っていました。
 
 モザイクやガラス職人、土木建築、造船、印刷技術から
船乗りや商人まで、あらゆる方面の妥協しない高い技術と
発想が、国内外の信用と名声になり、国に富を
もたらしていたのです。

 この伝説のようなことがもし起これば、職人達は直ちに
反発し、優秀な技術を持つ者は、国外に流出し、結果
国の衰退につながることを、政府側は十分承知していた
はずですから。

 彼らも、国の権力が一人の人間や、一家族に集中
しないよう、工夫を重ね技を高めた、政治家という
職人達でした。

 「二つと同じ傑作を作らせないために」失明させる
などという、権力者のとんでもないエゴは、独裁政治の
下では起こっても、ヴェネツィア共和国ではリアリティー
が、ないと思うのです。







Last updated  2008/03/29 05:19:15 PM
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2008/03/22
カテゴリ:見どころ
 ヨーロッパの街角の要所には、必ずといっていいほど
古い大時計があります。
 内部は複雑なしかけの、外側は芸術性の高い装飾を
もつ時計は、15~16世紀には、富と繁栄の象徴だった
からです。
 サンマルコ広場にある、この時計塔も、ヴェネツィアが
国としてもっとも栄華を誇っていた時期に作られました。

 1493年、ヴェネツィア政府は、エミリア地方で
時計職人として名声を得ていた、ライニエーリ家に
時計の制作を依頼します。
 時計塔の場所は、リアルトへと続く道に通じている
サンマルコ広場北側で、海から船でヴェネツィア入り
した際も、正面に見える位置に決定されました。
 このため、それまでこの場所にあったビザンティン
様式のアーケードが取り壊され、1496年、時計塔の
建設が始まりました。

 1499年2月1日、完成した時計の文字盤は、直径
4.5m、金とブルーのエナメルで星と12宮が
散りばめられた大変美しいものでした。
 文字盤の上部は、聖母子像の左右に、ローマ数字で
時間が、アラビア数字で5分毎の時を告げています。
 その上には、ヴェネツィアのシンボル、翼のある
ライオンの像があり、隣には当時の総督
アゴスティーノ・バルバリゴの像もあったそうですが、
1797年のヴェネツィア共和国崩壊時に、破壊された
ということです。

 最上部には、高さ2.6mのムーア人のブロンズ像
が、決まった時刻に鐘を鳴らしています。
(その2に続く)


 






Last updated  2008/03/22 07:00:23 PM
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2008/03/15
カテゴリ:見どころ
 「ダリオ館」悲劇の続きです。
 
 70年代の犠牲者は、ロックグループ「WHO」のマネージャー
クリストファー・ランバートでした。
 「ダリオ館」は、すでに「呪われた館」として有名になって
いましたが、彼はこれまでの出来事を、くだらない迷信として
まったく気にかけませんでした。
 「悪いことは言わないから、あそこは止めた方がいい」という
忠告にも「そんな、前近代的な!」と、一笑に付しました。
 しかし契約直後、ロンドンの家で階段から転落して
亡くなってしまったのです。

 80年代の挑戦者は、ヴェネツィアの実業家で、姉とともに
移り住んだとたん、彼は破産、姉は事故死してしまいます。

 次のイタリア人テノール歌手が、買い取りに向け、
契約のためヴェネツィアに赴こうとしたところ、
交通事故に遭い、命はとりとめますが、契約は白紙となります。

 そして最後のオーナーは、投資家ガルディーニで
彼もまた破産した上、贈収賄容疑のスキャンダルに
巻き込まれ、自殺しています。

 そして15年以上の沈黙の後、この「ダリオ館」を
アメリカ人企業家が購入し、再び光が当てられようとしています。
 15世紀にこの館が計画される以前、この場所は墓地だった
という話があり、そこに建てたのが、第一の過ちである?
とする説などもありますが・・・。

 ゴシックの建築様式で、ファサードはルネサンス風の
少し傾斜しているこの美しい館に、「滞留した負のエネルギー」
のようなものがあるのでしょうか。
 だとしたら、今回の変化で新しい風と光が入り
そうした「負の連鎖」のようなものが、一掃できると
いいのですが。






Last updated  2008/03/15 04:44:55 PM
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2008/03/08
カテゴリ:見どころ
 アカデミア橋を過ぎ、グッゲンハイム美術館近くに
「ダリオ館」(カ・ダリオ)はあります。
 1487年に、ヴェネツィア政府の評議員であった
ジョヴァンニ・ダリオの依頼で、
建築家ピエトロ・ロンバルドが手がけた、
ルネサンス様式のファサードをもつ、色大理石が
とても美しい館です。

 この館は2年ほど前、アメリカ人企業家によって
たったの800万ユーロ(約12億8千万円)で
落札されました。
 大運河に面している上、この建物の歴史的価値を
考えると、市価の、おそらく10分の1程度の値段
だったと言えるでしょう。

 長い間買い手がつかず、素晴らしいルネサンスの宝が
15年以上ホコリだけを住人とし、最近ようやく決まった
取引は、破格の安さであったのには、訳があります。
 「ダリオ館」の、代々の所有者のほとんどが、なぜか
悲惨な死を遂げている、ヴェネツィア一の「呪われた館」
と言われているからです。

 1494年にジョヴァンニ・ダリオが亡くなった後
遺産として、娘夫婦に受け継がれます。
 しかし、夫婦は破産し、夫が刺されて亡くなった後
妻は自殺し、息子はクレタ島で戦死します。

 その後アルメニア人の富豪がこの館を買い取りますが
直後に破産。
 次の持ち主は、不倫スキャンダルを苦にして
愛人とともにこの館で自殺。
 次のアメリカ人の購入者は、ホモセクシャルであると
噂されることに耐えきれず、メキシコに逃避しますが
そこで愛人が自殺。
 次のイタリア人オーナーは、この館で同棲していた
クロアチア人の18歳の若者に、この館で殴殺され
この若者は殺人の後ロンドンに逃亡しますが、
そこで何者かに殺されています。

 悲劇はまだ続きます。(その2に続く)







Last updated  2008/03/08 05:43:08 PM
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2008/02/23
カテゴリ:見どころ
 総督宮殿と後側の建物を結ぶこの「ため息橋」は、
この街を訪れた人が「とりあえず行く」場所のひとつです。
この橋がよく見渡せるパーリア橋では、「ため息橋」の
写真を撮ろうとする人々を必ず見かけます。
 
1589年ヴェネツィア共和国は、新しい牢獄を総督宮殿横に
建てることを決定します。それでこの新しい牢獄と、
総督宮殿内にある裁判所をつなぐ橋が必要になりました。
 構造は、警備上の安全を第一に考慮され、
空中で屋根のある渡り廊下式の橋になっています。
一方外観は、イストリア産の白い大理石の素材で、
優雅な装飾が施されています。
 橋の設計は、この新しい牢獄やリアルト橋の設計などを
任された建築家、アントニオ・ダル・ポンテの孫
(甥の可能性も)である、アントニオ・コンティーノ
によるもので、1600年に完成しています。

 「ため息橋」の名前の由来は、この橋を通るであろう、
刑を宣告された者のため息を空想した地元庶民が、
そう呼んだことからついています。
 19世紀には、多くの文筆家がこの「ため息橋」に
イマジネーションをかきたてられ、ハーレクインロマンス的な
お話がたくさん生み出されたのでした。
『悪名高いヴェネツィアの「十人委員会」(政府の重要決定機関)
により、無実で投獄された善良な若者の、愛しい人との別れ』
の物語が、最後の涙を落とす場所として、
この橋を舞台にまことしやかに書かれました。
 19世紀当時、すでにヴェネツィア共和国はなく、
現実の場所と作り物が物語の中で混ぜられ、
人々の涙を誘い人気を得たため、歴史的根拠のないフィクション
であるにもかかわらず、しっかりと信じられてきたのです。
 
実際のヴェネツィア共和国は、罪人に弁護士をつけた
最初の国のひとつでもある、司法制度の先進国であったのですが、
共和国崩壊後のヴェネツィアは、
反論しようとする気力さえ持ち合わせていなかったのでしょう。






Last updated  2008/02/23 06:16:35 PM
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2008/01/12
カテゴリ:見どころ
 リアルト橋のすぐそばにある「ドイツ人商館」は、元々1228年に建てられたもので、このリアルト地区は当時、すでに国際都市となっていたこの街の、経済活動の拠点でした。地階は倉庫で、大運河から直接舟をつけて商品が出し入れ出来るようになっていました。
 1300年代にはドイツ人(オーストリア、ハンガリー、フランドル人なども含む)のための商館として使われ始めていましたが、火災により消失したため、1505年から1508年のわずか3年間で、5階建て部屋数200以上の建物につくり直されました。
 先日「トルコ人商館」でも書いたように、政府は商取引の多い外国の商人に、倉庫兼営業所であり住居でもある拠点を提供することによって、関税のための取扱高、品目のチェックから、習慣や政治動向までを調査していたのです。
 どこそこで戦争が始まった、エジプトからの船が海賊に襲われた、などの情報はもちろん、ヨーロッパ上流階級の女性の流行まで把握する必要がありました。
 ヴェネツィアは、まだよそに「外交官」の概念さえないときから、各国に大使を派遣して治安や政治動向などの情報収集に当たらせていました。外国を頻繁に行き来するヴェネツィア商人(しばしば貴族階級)にも帰国後の各種の報告を義務づけていたのです。

 こういった外国人用の商館は、今でいう商工会や貿易振興会のような面もあり、彼ら外国の商人にとってもメリットがあったのでした。
 外国人を規制、監視する目的だったとは言え、「トルコ人商館」との決定的な違いは、ヴェネツィアとドイツの関係が非常に良好だったことです。商品だけでなく、文化や芸術、思想の交流がこの界隈を中心におこなわれていました。

 かつて大運河に面したファサードに描かれたジョルジョーネとティツィアーノのフレスコ画は今はなく、中央郵便局としてひっそりと使われている現在の内部からは、昔日の活気に溢れていただろう空気を想像するのは難しいものがあります。






Last updated  2008/01/12 08:06:56 PM
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2008/01/07
カテゴリ:見どころ
 サンタルチア駅から大運河をゆくと、右手側に見えてくるのが「トルコ人商館」と呼ばれている建物です。このヴェネト-ビザンチン建築の館は、1227年ペーザロ家の始祖、ジャコモ・パルミエーリによって建てられたもので、その後1381年ヴェネツィア政府によって買い上げられました。キオッジャ戦争での貢献に対する報償として、フェラーラ候に与えるためでした。その後、何度か持ち主が変わった後、1621年ヴェネツィア政府が、トルコ人のために商用の拠点として指定します。
 そのため、館内部の噴水のある中庭やベンチ、大理石の階段や柱など、貴族の住居であり迎賓の場としての様相は取り払われ、上階はトルコ商人用の宿泊施設、商談用の部屋、地階は倉庫になりました。また、広い部屋はモスク(イスラム教寺院)となり、ローマ時代の遺産でイスラム人達の習慣になっていた熱気浴の風呂、バザール(市場)なども設けられました。
 
 トルコ人達はヴェネツィアに、主に蝋、オイル、羊毛、なめし革、1700年代になるとタバコも持ち込んでいました。ヴェネツィア政府は、それらの商品をすべてヴェネツィアで完売しなくてはならないなど、トルコ商人と商品を規制、管理するために商館を貸与していたのでした。しかし、オリエント方面との交易が次第に衰退し、1838年には誰にも使用されなくなり館は廃墟となりました。
 1858年から1869年に、オーストリア政府の援助により、同じマテリアルで全面修復が行われました。1924年から「自然史博物館」となり、動物の剥製、甲殻類や恐竜の化石の他、鰐の先祖といわれる「オウラノサウルス・ニゲリエンシス」のみごとな骨格(高さ3.6m、長さ7m)が展示されています。






Last updated  2008/01/07 05:38:26 PM
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2007/11/20
カテゴリ:見どころ
 11月21日は、「サルーテの祭り」でヴェネツィアの街は祝日です。この日は写真の「サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会」の近くに特設の橋が架けられ、まわりにはたくさんの露店が並び、さながら縁日のにぎわいとなります。
 「サルーテ」はイタリア語で「健康」という意味で、例えば「乾杯!」という場面でイタリアでは、(あなたの健康を祝して)「サルーテ!」と言います。
 さて、この「サルーテ教会」も、市民の健やかさや無事を願って建てられたものです。

 1575年から1577年にかけて猛威をふるった伝染病のペストで、ヴェネツィアでは5万人が亡くなりました。その終息を願って建てられたのが、ジュデッカ島のレデントーレ教会です。それから50年余り後、再びペストがヴェネツィアを襲います。1630年から1631年にかけての半年間で、ヴェネツィア本島と周辺の島を合わせた死者の数は、9万3千人以上に上りました。1630年の11月だけで、1万4千人のヴェネツィア人が命を落としました。
 そのペストがようやく収まったことを感謝して、健康という意味の他、「無事、救い」の意もある「サルーテ」という名前の教会を造ることが、議会で決定されたのでした。
 1631年に始まった、若き建築家バルダッサーレ・ロンゲーナによる建築は、彼の死から5年経った1687年に完成しています。
 
 ゴシックとルネサンス様式にこそ、ヴェネツィアのヴェネツィアらしさと美しさはありますが、このバロック様式のサルーテ教会は別格でしょう。水辺にどっしりと立つその外観から、八角形の内部、画家ティツィアーノの初期の作品まで、見るべき価値はたくさんあります。

 






Last updated  2007/11/20 04:34:51 PM
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