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ヴェネツィアの獅子たち

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Reiko Fujiwara Marini

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人物伝

2008/07/25
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カテゴリ:人物伝
 年が明けた1623年1月、七十歳のサルピに最後の時間が近づいていました。
 
 12日になって、容態が悪化した彼は、修道院長を呼びます。自分の持ち物すべてを修道院に寄付することを伝え、臨終の聖体を依頼しました。服を着替えベットの上に座り、修道院の僧たちが集い見守る中、臨終の聖体を受けました。
 
 14日になると、もう起き上がることは出来ませんでした。しかし精神はとてもクリアで、知らせを受けて最後の挨拶に訪れた多くの要人たちに、いつもの明るさで対応したといいます。
 
 サルピのベットを取り囲み、涙を流す修道士たちに『おやおや皆さん、そんな湿った顔をして。私は今まで、あなた方を出来る限り慰めたり、勇気づけたりしてきましたよ。今こそあなた方の番ではないですか、私を励ましてくれるのは』と、冗談まじりに言ったそうです。
 
 医師が診察に訪れ、サルピに残り時間がわずかであることを告げます。すると彼は、微笑みながら医師にこう言いました。『神がお望みになるのなら、この最後の仕事(死ぬこと)を、きちんと成し遂げましょう。』
 
 「信仰」というものは、このためにあるのか。これほどまでに心おだやかに、むしろ喜びさえともなって、人生の幕を引くために、存在しているのかと、信仰というものを持たない私などに思わせるほど、死を前にしたサルピの心は、晴れ晴れとしたもののようでした。
 
 しばらくしてほんの少しの間、サルピは意識を失います。そしてうわ言で『サンマルコへ急ぎましょう。たくさんの処理すべき交渉があるのです。』とつぶやいた後、我に返ります。時計を見るともう夜の12時を過ぎていました。そしてこう言ったのでした。『さあさあ皆さん、もうお休みになって下さい。私は以前いた場所―神のところへ帰りますから。』
 
 誰もその場所を動く者はいません。そしてそれが最後の言葉になりました。僧たちの祈りとすすり泣きの中、サルピは息をひきとりました。1623年、日付は1月15日になっていました。
 
 
 神学者でもあり、サルピの愛弟子であったミカンツィオが、後に『パオロ・サルピ神父の生涯』という伝記の本を出版しています。その後19世紀後半に再評価のブームがあったのか、多くのサルピに関する研究や伝記本が出されました。その中で1894年にロンドンで出版された、ロバートソンの『サルピ神父~The Greatest of The Venetians~』で、「サルピは、最大で最後の偉大なヴェネツィア人であった」と、締めくくっています。
 
 実際、ヴェネツィア共和国がサルピと組んで、法王庁と対決した1606年の出来事は、おそらく最後のヴェネツィアらしいエピソードという気がします。
 
 最後まで、サルピを全面的に信頼しサポートし続けたヴェネツィア。信念と行動で、ヴェネツィアの一番大切なもの―「誇り」を守り通したサルピ。
 パオロ・サルピを失ったヴェネツィアは、まるで誇りまで一緒に無くしてしまったかのように、国としての力を少しずつ後退させてゆき、国際舞台から遠ざかって行きます。
 
 時代はすでに、建築様式から大げさなカツラの流行まで、これでもかと誇張され飾り立てられた、バロックへと移り始めていました。
  
 パオロ・サルピという人は、ヴェネツィアという独特の沼沢地の中に、ずっと昔に蒔かれた種が満を持して咲いた、奇跡の蓮の花ではなかったか、と思うときがあります。
(写真はカンナレージョ地区にあるサンタ・フォスカ広場の、サルピの銅像)






Last updated  2008/07/25 03:49:50 PM
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2008/07/18
カテゴリ:人物伝
 サルピの暗殺に失敗したローマ法王庁は、その後も再三にわたって実行しようとしました。この執念深さは、「ローマ教会」という絶対的な権威が少しずつ失墜しつつある中、ヨーロッパのインテリ達の間ではもはや有名なサルピが、大衆の支持を得れば、第二のマルティン・ルターになり得る、これに対する大きな危惧からでしょう。
 
 サルピの理念は、プロテスタント達の唱えた信仰の解釈等と共通する部分も多いのですが、神学者として、ルターとは違うタイプでしたし、科学者としてもガリレオとは異なっていました。視点が違うというか、あらゆる学問を深めながら、同時にずっと遠くを見据えているとでも言うのでしょうか。
 
 ガリレオが、教授として18年間をパドヴァ大学で過ごし、フィレンツェへ移った後も、サルピとの交流は続いていました。
 地動説だけでなく、空気にも重さがあることを主張したりと、当時の専門家でも理解されない最先端の学問だけに、ローマ教会から圧力を受けることも多く、落ち込むガリレオにサルピが「いつの日か人々が、貴公の偉大さを理解するときが来るはずです」と励ます手紙を送っています。
 
 また、ガリレオが重力や天体についてサルピに書いた手紙は、科学史上もっとも重要な資料の一つだと言われています。
 この専門的な内容の手紙のやりとりからも、サルピの天文学、物理学、数学のレベルは当然ガリレオと同程度であったことは疑う余地はありません。
 
 神学者、歴史家、文筆家として、何冊かの本や学術論文を執筆しています。『パウロ五世による聖務禁止令についての論文』『パウロ五世によるヴェネツィア共和国への懲罰に関する考察』『トレント公会議の歴史』『教会の特権についての論文』などです。これらの本に書かれた文章のスタイルが、またサルピその人を端的に表しています。
 
 というのは、当時の主流の文体というのは、修飾され誇張された、つまりドラマティックで大げさな文章が良いとされ、圧倒的な流行でもありました。一方サルピの書く文章はシンプルで簡潔。物事を、それ以上でもなく以下でもない表現で描写する。直接ズバリと核心を突くにもかかわらず、攻撃的な感じがしない。完璧に研がれた刃物が、その切れ味の良さゆえに軽さの感覚しかない、のと似ているでしょうか。
 
 そのシンプルな文章には、大衆に向けてという彼の思いがありました。そのためには判りやすい文章でないといけない。学問は、知識階級の自己満足や自己陶酔の手段ではなくて、多くの人々の役に立たないと意味がない、ということです。
 学問にしても宗教にしても「実際に使える、人の生活をより豊かにするもの」であることが、サルピにとってより重要なことでした。だからこそ、組織の権力と地獄の恐怖とで、人々をあやつり縛りつけるローマ教会を批判したのでしょう。本来の宗教は、人を解放するものである、と。
 
 もう一つ象徴的な意味が、簡素な文体の中にあったと思います。それは、「外観と中身の一致」です。壮大で華やかな文章ではあるけれど、内容はあまりない、口では立派な理想を語るけれども、実際の生活態度は矛盾している、というようなことは、人がはまりやすい落とし穴ですが、サルピは、極力それから自分をいましめようとしていたのだと思います。
 
 彼は一つのノートを持ち歩いていました。そこには自分の間違いや直すべき欠点が、折にふれて記入され、それらがその日は改善されたかどうか、一日の終わりに自分を検証するためのノートでした。
 
 少年の頃より天才と呼ばれ、あらゆる学問に精通し、各地のVIPに助言を求められ、修道会ではゴボウ抜きで出世、ヴェネツィアでは英雄視されていたサルピ。このような人がこんなノートを持っていた。このような人が慢心することなく、こんな地味な努力を重ねて自分を律していた。
 いや、おそらく自身に厳しい眼差しを向け「慢心する自分」を自覚していたからこそ、常に修正することを続けていたのでしょう。
 
 神学校で教えること、そしてヴェネツィア共和国の法学コンサルタントとしての仕事に献身していたサルピですが、1622年の12月25日、クリスマスの挨拶のため部屋に訪れた弟子のミカンツィオにこう告げます。「これが、私の最後のクリスマスになるでしょう」(その10に続く)







Last updated  2008/07/18 07:51:48 PM
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2008/07/11
カテゴリ:人物伝
 サンタ・フォスカ橋のたもとでサルピが刺客に襲われてから、わずか二日後の1607年10月7日、ヴェネツィア政府は三人の容疑者の氏名を突き止め、その逮捕に懸賞金をかけます。また、犯人をかくまった者や、居場所を知りながら告発しない者は厳罰に処す、と発表しました。
 
 しかし三人の犯人は、その頃すでにローマへ戻っていました。コロンナ枢機卿のもとに身を寄せて、さてどれほどのご祝儀が法王様から頂けるものかと、期待に胸を膨らませていたのです。
 
 ところが、「なんというスキャンダル!サルピ神父襲撃の黒幕は法王庁だった!」「スキャンダルどころか!こんなことは昔から、法王庁には朝飯前さ!」といったデモが展開され、風刺のビラがまかれたのです。
 面目を失った法王パウロ5世は、三人を投獄することに決めます。任務は完全には果たさなかった上に、今となっては邪魔な存在、ということなのでしょう。
 
 実際それまでの歴史で、神の名においてローマ法王庁が直接、もしくは秘密裏に、どれだけの思想家、宗教家、科学者、そして異教徒たちの命を奪い、また、たくさんの女性たちを「魔女」とし殺害してきたことでしょう。(法王庁を激しく批判したプロテスタントやカルヴィニズムの教会でも、自分たちの教義や立場を絶対とし、違う信仰を持つ者を迫害し、魔女狩りも続いていました)
 
 ヴェネツィア市民がサルピ襲撃のニュースを聞いた時、犯人をかくまっているに違いないと、すぐにヴェネツィア駐在の法王庁大使の住居に押し寄せている所を見ても、ローマ法王庁の「やり口」は周知の事実だったのでしょう。
 
 さて一命をとりとめたサルピですが、二度と同じことが起きてはならないと、彼の身の安全に関する提案が、1607年10月27日ヴェネツィア共和国の議会で可決されます。
 その内容は、護衛付き私用ゴンドラの提供、総督宮殿近くに助手とともに住める住居の提供、そして年俸を倍増の800ドゥカーティに引き上げる、というものでした。
 
 しかしサルピは、それらの申し出のすべてを鄭重に辞退します。信念を貫いた結果とはいえ、今自分は、たくさんの修道院の仲間達の献身や、他の多くの人々に支えられて生きている。 この時彼は、五十五歳。 九死に一生を得てなおさら、一人の修道士として純粋に地味に、そして自分の姿勢と知識を通して人の役に立てるように、残っている自分の時間を捧げたいと願ったからではないでしょうか。
 
 あきらめきれないヴェネツィア政府は、「隠し渡り廊下」の建設を提案します。修道院から誰にも見られずに、直接ゴンドラに乗り込むことが出来る、という通路です。(当時のゴンドラは屋根付きでした)
 信念の人サルピも、このヴェネツィア政府の必死の申し出は、有り難く受けたのでした。
(写真は、サンタ・フォスカ橋近く サルピの修道院 その9に続く)






Last updated  2008/07/11 03:41:01 PM
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2008/07/04
カテゴリ:人物伝
 ヴェネツィアに「聖務禁止令」を出し、サルピを破門したローマ法王パウロ5世ですが、ヨーロッパ各国の動きから見ても、本当の戦争に持ち込んでヴェネツィアを叩くには、全く不十分な状況でした。
 1607年4月、ヴェネツィア共和国と法王庁の抗争は、ヨーロッパ各国(フランス=アンリ4世、スペイン=フェリペ3世、イギリス=ジェームス1世、ドイツ=ルドルフ2世、サヴォイア公、マントヴァ公)の取り持つ、和解調停に委ねられることになりました。
 
 しかし、ヴェネツィアは一歩も譲る気はありません。ヴェネツィアの和解の条件は一つ、「法王庁が、我々の司法への口出しをやめること」。
 
 ヴェネツィアは、聖務禁止令の解除、教会財産規制法の撤廃要求の取り下げ、サルピらへの破門の撤回という条件がすべて満たされたのを確認して、ようやく、二人の罪を犯した聖職者だけは、ローマへ引き渡します。つまり和解と言っても、ヴェネツィア側の事実上の勝利でした。
 
 1607年9月、ローマ駐在のヴェネツィア大使コンタリーニが、ヴェネツィア政府にある報告をしていました。それは、サルピの暗殺をたくらむ不穏な動きがある、というものでした。
 ヴェネツィア政府は直ちに、サルピに護衛をつけようとしますが、サルピは断ります。彼にすれば、すべて想定済みというところでしょうか。なので、今になって自分の信念はもちろん、生活スタイルさえも変える気はさらさらなかったのでしょう。
 
 とはいえ、いくら予想はしていたと言っても、実際に自分の命が狙われているとはっきりした中で、護衛を断り、通常の生活を送るというのは、ふつう出来ることではありません。こういったところに、静かで強靭な精神と気骨ある彼の生き方が表れています。
 
 サルピが刺客に襲われたのは、1607年10月5日の夕暮れ時、弟子と供の者とで修道院へ帰る途中の出来事でした。ちょうどサンタ・フォスカ橋のたもと、あと一歩で修道院という場所です。
 短剣で首を二カ所、三カ所目は右耳の後から入った刃が、鼻と右頬の間に突き抜けるというものでした。たまたまそれを見た付近の女たちの悲鳴で、人々が駆けつけるのを見て、刺客達は火縄銃を発砲しながら走り去っていきました。
 
 崩れ落ちるように倒れたサルピを供の弟子が抱え、もはや万事休すかと思いながら、刺さったままの短剣を抜くと、なんと息をしているではありませんか。急いで近所の家に入り応急処置を施した後、舟を呼んだのでした。
 
 サルピ襲撃のニュースは、その夜のうちにヴェネツィア中に広がります。ヴェネツィアを救った英雄サルピの容態を少しでも知ろうと、修道院のまわりには連日人々が取り囲みました。
 ヴェネツィア政府は、パドヴァ大学(医学のレベルは当時世界最高峰)から最高の外科医によるチームを派遣し、毎日詳しく容態の報告をさせました。そして、怒りに燃える市民には、とにかく我々のサルピ修道士は生きていること、犯人逮捕に全力をあげることを伝えます。
(その8に続く。写真はサルピが襲われた場所 サンタ・フォスカ橋。右手に見えるのがサンタ・フォスカ広場に立つサルピの銅像)






Last updated  2008/07/04 05:07:28 PM
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2008/06/28
カテゴリ:人物伝
 法王庁からの戒告が届いた日から、19日後の1606年5月6日ヴェネツィア政府は「神以外の、地上の誰であれ、我が国の尊厳を傷つけることはできない」と宣言し、領土内の聖職者に対し、法王の通達を無視し、宗教行事は通常通り行うこと。通達の張り紙を見た者は、直ちに破り捨てること、を命令しました。
 
 この19日間、ヴェネツィア共和国が何をしていたかというと、戦争に備えての、物資の調達をしていたのでした。法王の勅書を無視することは、法王庁に対する宣戦布告も同然であったからです。
 
 さて、このヴェネツィア共和国の理論的な後ろ盾には、もちろんサルピがいました。彼はまず、「神を崇めるのに、法王の許可は不要である」とし、「法王庁の権限は、教会法によって制限されているはずである。しかし、今回のヴェネツィア共和国に対する措置は、その乱用にあたる。これは、あらゆる混乱とスキャンダルの元であり、ひいてはキリスト教精神の危機にもつながる重大な問題であり、明白な教会法違反である」と法王庁を非難しました。
 
 サルピの理論は、支持者からはさらなる賞賛を得、反対に法王庁からは怒りを買いました。ヨーロッパ各国はというと、オランダは、明確にヴェネツィアの支持を表明。狂信的カトリック国スペインは、法王側。ドイツ、フランス、イギリスは、曖昧な態度もしくは、ヴェネツィアよりの姿勢でした。
 
 1606年9月、サルピの仕事に満足したヴェネツィア政府は、年俸を倍の400ドゥカーティに昇給することを決定します。こう書くと、大企業やVIPの利益を守るために、契約で雇われた有能な弁護士のようなイメージになってしまいますが、決してそうではありません。
 神学者として、またキリスト教の信仰を持つ者の理想と信念に基づく理論が、ヴェネツィアという国の誇り高い姿勢と一致していたのです。その共通点は「人間の尊厳」と言い換えてもいいかもしれません。 
 
 キリスト教の原点である、福音書の教えに戻った上で、教会のあらゆる世俗性(昇進、財産、権力など)を取り払い、霊的な関心だけが唯一最大のモチベーションであるのが彼の理想とする教会の姿でした。その慈悲の中にこそ、宗教の神髄があるのであって、形式を重んじること、法王庁の認可、恩赦をとりつけることは、本質からははずれているとしました。教会が本来の誠実さを取り戻し、本当の意味で人々の心の支えになるような宗教が広がってゆくことを、彼は強く望んでいたのです。
 
 1606年10月20日、サルピは3人の弟子とともに、ローマ法王庁に召喚されますが、サルピは、身の安全が保障されていないとして、これを拒否。年が明けた1607年1月5日、これによりサルピらは破門されます。(その7に続く)







Last updated  2008/06/28 04:52:19 PM
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2008/06/20
カテゴリ:人物伝
 1591年、ヴェネツィアに戻ったサルピは、研究に没頭し、異端裁判についての本を執筆、出版します。しかし、気鋭の神学者としてもはや名の知られた彼は、司教など高位の教会関係者から依頼された、いくつかのややこしい係争を常に抱えてもいました。
 
 その頃ヴェネツィアとローマ法王庁の関係は、二つの事件をめぐって険悪なものになっていました。ヴェネツィアの自国運営の方法と法律に、ローマ法王庁が強い不快感を表していたのです。(以前「ヴェネツィアとイエズス会(その3)(2007/12/12)」の記事で、この二つに事件に触れました)
 それは、教会財産に対する規制法(市民は、ヴェネツィア政府の許可なしに、一定以上の財産を教会に贈与してはいけないという法律)と、重犯罪をおかした聖職者二人を、ローマの宗教裁判所に送らずに、自国の法律で裁いたこと、の二点です。
 
 ローマ法王庁にとってヴェネツィアは、以前からずっと一度叩いておきたい国でした。人文主義、宗教改革、啓蒙思想などという言葉の出回るずっと昔から、ヴェネツィア共和国は、ローマ法王庁の「神の権威」を笠に着た「脅し」が通用しない場所だったからです。
 
 禁書に指定されたはずの本が、ヴェネツィアでは街角の本屋で普通に売られていたし、ガリレオのような「危険な」科学者達も、この街の知識人のサロンで歓迎されていました。「いまいましいヴェネツィア人め。好き勝手なことをしよって!」当時の法王パウロ5世(1552-1621)はそう言ったに違いありません。
 
 1605年頃よりヴェネツィア政府は、サルピにアドヴァイスを求めるようになります。そして、これは早晩大きな政治的衝突になると読んだヴェネツィア政府は、自国の法的、宗教的立場の正当性を、論理的に専門的な見地からかためようと、パオロ・サルピにヴェネツィア政府の法学顧問となることを要請します。
 
 サルピは、承諾の前にある一つの条件を出します。その条件とは、「ヴェネツィア政府は、私を死ぬまで守ること」というものでした。 自分も教会法学者として信念をもって戦うから、 政府も現在の観点を最後まで貫いてくれ、つまり、「腹をくくってくれ」という意味だと思います。
 ヴェネツィア共和国が政治的妥協等で、立場を微妙に変えるようなことなく、一枚岩でのぞむ覚悟の有無を見極める必要があったのでしょう。自分が任されようとしている仕事が、学者、修道士としての生命だけでなく、まさに命そのものを危険にさらす熾烈な戦争であることをサルピはよく自覚していたのです。
 
 法王庁は1605年12月、教会財産規制法の法律を撤廃すること、罪を犯した聖職者を法王庁に引き渡すこと、この二つをただちに実行するようにという、警告にあたる勅書を出します。これを受けたヴェネツィア政府は、さる要求は一国の独立国の土台を揺るがす重大な問題であり、内政干渉であると反発します。
 
 ここで法王庁は、枢機卿会議を開き、ヴェネツィア共和国に「戒告」を出すことを決めます。「24日以内にこの二つの件が解決されない場合は、破門も視野に入れた聖務禁止令に処す」この文書がヴェネツィアに届いたのは、1606年4月17日のことでした。(その6に続く)
(写真は、当時の第90代ヴェネツィア総督レオナルド・ドナ1536-1612)







Last updated  2008/06/20 06:06:19 PM
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2008/06/14
カテゴリ:人物伝
 今回も、知の巨人パオロ・サルピが生きた時代背景を少し書いておきます。
 
 ローマ法王庁の、〈我々が認めないものは、すべて「邪」である〉という、絶対主義的なやり方、「信仰」「善行」の解釈の仕方(特に資金集めのための)に対して、各地の知識人が批判するようになります。
 寄進や寄付、その他の「善行」ではなく、「信仰心」だけで人々は救われるべきなのに、救済が売買されているとして、ルターや他の宗教家、神学者たちが非難していたのです。
 
 科学の分野でも時代は変わりつつありました。万能レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が登場し、コペルニクス(1473-1543)が地動説を発見し、コロンブス(1451-1506)の新大陸発見などもあり、それまでの古典崇拝(ギリシャ、ローマ学説の盲信)ではなく、自然現象を観察することで、新しい事実を発見しようとする姿勢がでてきたのです。
 
 一方、保守カトリックの牙城、ローマ法王庁は、ルターのような、新しい信仰の解釈を危険思想とし、提唱する人間が「過ちだった」と認めない場合は破門に処しました。異端審問を強化し、該当されるとする人物を、投獄や火刑にし、書物は禁書に指定するなど、弾圧を徹底させていきました。
 
 法王やカトリック教義の批判をしたわけではない、科学者たちも「異端視」されていました。コペルニクスは教会からの圧力を恐れ、存命中は地動説の理論を発表しなかったと言われています。ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)も、宗教裁判で地動説を捨てることを誓わされました。(ローマ法王庁が誤りを認め、ガリレオの名誉回復がなされたのは、前法王のヨハネ・パウロ2世時の1992年のことでした)
 
 さて、パオロ・サルピは、カトリックの修道士であり神学者、法学者として、徹底的にローマ法王庁、法王の姿勢、解釈を批判した上に最先端の科学者でもありました。またローマ法王庁にとっての「問題児」であるヴェネツィアを完全に擁護し、法王に「ノー」と言ったのですから、睨まれない訳がありません。(写真の絵は、ガリレオの宗教裁判の様子 クリスティアーノ・バンティ画1824-1904)その5に続く






Last updated  2008/06/14 03:13:21 PM
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2008/06/06
カテゴリ:人物伝
 パオロ・サルピの後半生を書く前に、14-15世紀のヨーロッパの状況に触れておきましょう。 

 14世紀初頭から、ヨーロッパの人口は増加していきますが、食物生産量はそれに伴わず、穀物の価格上昇をまねきます。貧富の差がさらに著しくなり、各地で、貧困層による、暴動や蜂起が頻発しました。それにペスト(黒死病)の蔓延が追い打ちをかけ、大きな社会的不安が広がっていました。
 人間の意志だけではどうにも出来ない、未曾有の疫病や天災を前にした時、いつの時代も、人々が頼りたくなるのが宗教というものです。
 それらの人々の、せめてもの心の平安に一役買うべき教会は、機能不全どころか、背景にある社会不安を利用する形で、堕落、腐敗していたのです。聖職者による賄賂はあたりまえ、窃盗や殺人などの重犯罪も珍しいことではありませんでした。
 全ヨーロッパの教会を統括すべきローマ法王も、権力の座を手にした後は極端な縁者贔屓の人事で、法王の一族が主要なポストを独占し潤う、愛人や子供を設けるのも普通のことになっていました。
 
 そういった時代背景に登場したのが、マルティン・ルター(1483-1546)に代表される宗教改革運動です。プロテスタント誕生の機となったルターの、ローマ法王庁への批判のポイントはいくつもあったのですが、とりわけ徹底的に非難されたのが、サンピエトロ寺院建設費用確保のための、免罪符の大量発行でした。
 
 ローマ教会は、「天国」という場所への予約席を取り扱う、特約代理店と化していました。教会に寄進をするという「善行」を行うことによって、過去の罪が償われ、大小の罪悪感は一掃され、天国行きのビザがもらえる(購入できる)のですから、人々は喜んで寄付や財産の贈与という「善行」を積みました。
 
 「地獄の沙汰も金しだい」とはまさにこのことですが、お客は満足、代理店は大繁盛でこんないい商売はありません。オーバーブッキングやクレームとも無縁です。「ビザ」をもって出発した人は、二度と戻っては来ないからです。
(その4に続く 写真はローマ、サンピエトロ寺院)







Last updated  2008/06/06 10:00:05 PM
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2008/05/31
カテゴリ:人物伝
『今までに出逢った、一番のエンサイクロペディアだ!!』
と、交流のあったナポリの著名な物理学者ジャンバッティスタ・ポルタに評された、パオロ・サルピですが、彼の主な経歴(一部)をまとめてみます。

〈1552年〉 8月14日、父で商人のフランチェスコ・サルピ、母のエリザベッタ・モレッリの間にヴェネツィアで生まれる。父は幼少の頃に死亡。

〈1566年〉 11月24日、14歳で「マリアの下僕会」に入信し、僧衣を着る。そこで、哲学者、神学者、数学者として高名な修道士、ジャンマリア・カペッラに出会い科学の道へ誘われる。ギリシャ語、ヘブライ語から数学、化学などあらゆる学問を吸収。

〈1567-1574年〉 弱冠15~18歳で、数々の哲学論文、神学、科学論文を、成熟した論文で支持、又は反論し注目を集める。彼の広大な知識だけでなく、厳格な品行と信仰心に惚れ込んだマントヴァ公に請われ、20~22歳頃まで、マントヴァ公国の神学アドヴァイザーを勤める。
 
 サルピが14際の時に入信した「マリアの下僕会」は、「イエズス会」や「フランシスコ会」などと同様のカトリック修道会のひとつで、13世紀にフィレンツェで創設されました。
 
 サルピの学問、とりわけ科学への入り口となった、ここの修道士ジャンマリア・カペッラは、ヴェネツィアの街で天才少年の噂を聞きつけて、「スカウト」したのでしょう。優秀な人材を確保することは、修道会の将来のためには不可欠であったからです。
 
 そこで、それほど時間が経たないうちに、『「残念だが、君に教えることはもう何もない」と教授が言ったほど、このかぼそい少年は、凄まじい記憶力と深い思考力を兼ね備えていた』と、のちに弟子のミカンツィオが伝記の中で書いています。

〈1575年〉 23歳。ミラノのカルロ・ボッローメオ大司教にも目をかけられ、ミラノ滞在を懇願される。が、しばらくして彼の所属する修道会上層部から、ヴェネツィアで哲学を教えるよう要請され、ヴェネツィアへ帰る。  

〈1578年〉 26歳。神学の大学講師となる。同年5月15日、パドヴァ大学で神学の学位を取得。

〈1579年〉 4月。わずか27歳で、所属する修道会のヴェネト支部長に選出される。  

〈1582年〉 30歳。修道会の基本理念を見直す、法学者の一人に選ばれる。

〈1585-1590年〉 33歳。6月8日、ボローニャで開かれた、修道会参事総会で、法律長官に任命される。このためローマに滞在し、修道会がかかわるあらゆる訴訟の弁護を担当。この時期、ローマの古文書館、図書館へ通い、古典教義や学説を研究する。
 
 「マリアの下僕会」は当時、13の支部 (フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ヴェネツィア、パドヴァ、マントヴァ、ジェノヴァ、ナポリ、サルデーニャ、バルセロナ、マルセイユ、コルシカ、インスブルック)で構成されていました。 
 
 修道会という細かいヒエラルキー社会で、サルピのキャリアは、会社で例えると、400年近い伝統を持つ、海外にも支店のある会社で、27歳で取締役、30歳で常務、33歳で専務という昇進ぶりのようなものです。
 推察される彼の人柄から、「人の上に立つこと」やりっぱな肩書き等に、興味はなかったと思われますが、明白に他とは抜きん出た能力をもってしては、好むと好まざるとにかかわらず、当然な経緯だったのしょう。(その3に続く。写真は、サルピの伝記の本)






Last updated  2008/05/31 03:50:17 PM
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2008/05/24
カテゴリ:人物伝
 科学者で、歴史家、思想家でもあり、またヴェネツィア共和国の教会法学コンサルタントをつとめ、生涯を修道士として生きた、パオロ・サルピは1552年8月14日ヴェネツィアに生まれました。
 ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)の友人で、彼にして『誇張ではなく、本当にヨーロッパ随一の博識である』と言わしめ、ヴェネツィア共和国とローマ法王庁との「戦争」で、その才気と洞察力でヴェネツィアを救った、知の巨人です。
 
 しかし今では、彼の名は、「パオロ・サルピ通り」や「パオロ・サルピ高等学校」などという名前とともにのみ発音され、イタリアはおろかヴェネツィアでもその人物像を知る人は多くはありません。
 
 科学者といっても、サルピの研究範囲は膨大で、ガリレオと同分野の天文物理学、数学をはじめ、 化学、光学、機械学、植物学、鉱物学、医学などの専門家で、実際に人体の瞳孔の縮小と拡大のメカニズムや、心臓を中心とした血液循環のシステムを発見した人物だと言われています。
 
 ガリレオ自作の望遠鏡を、サンマルコの鐘楼に上って、ヴェネツィアの総督に披露したのも、サルピの橋渡しによるものでした。
 
 また、歴史家、文筆家として彼が記した『トレント公会議の歴史』は、当時のヨーロッパの知識人の間で話題を巻き起こした、注目の書でもありました。
 というのは、この本は、ローマ法王の主催するその宗教会議で、1545年から1563年にかけて北イタリアのトレント(トリエントともいう)で行われた会議のてんまつを、法王に対し、明確に批判的な立場で書き表されたものだったからです。
 
 単なる歴史家からの視点でなく、パドヴァ大学で神学の学位をとった、神学の専門家として、ローマ法王庁と法王の姿勢を真っ正面から論破した、頭脳だけでない、とても肚の据わった人物でした。(その2に続く)







Last updated  2008/05/24 04:12:47 PM
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