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ヴェネツィアの獅子たち

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Reiko Fujiwara Marini

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島物語

2008/08/08
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カテゴリ:島物語
 8月の終わりから9月の初めに毎年開催される「ヴェネツィア国際映画祭」は、リド島で行われます。
 リドは、ヴェネツィア本島の東南に位置する長さ12kmの細長い島です。「LIDO」は、砂州、砂浜という意味のイタリア語なので、ヴェネツィア以外でもリドは存在するのですが、一番有名な「リド」は、このヴェネツィアのリドということになるでしょう。
 
 文字通り、ラグーナとアドリア海との間に出来た砂州で、遠浅の場所で波が沖合で砕け砂が堆積してできたものです。
 
 19世紀までは、サン・ニコロ教会とサンタ・マリア・エリザベッタ教会の他は、菜園と松林があるだけで、人はほとんど住んでいませんでした。ただ、ヴェネツィア入りする船の最初の入り口でもあったため、過去には要塞や見張り台などの役目を持っていました。
 
 19世紀になってリゾート地として注目され始め、20世紀の初めには映画祭の開催にもともない、高級リゾート地として定着しました。
 
 現在のリドは、かつてほどの高級感はありませんが、今の時期砂浜では、たくさんの地元ヴェネツィア人たちで賑わっています。ヴェネツィアの人はヴァカンスに、土の感覚と緑を求めて山に行く人が多いのですが、夏は、他のイタリア人同様やはり海も欠かせないようです。
 
 このイタリア人の「ビーチ通い」には、ほとんど「信仰」もしくは、「強迫観念」に近いのではないかと、思う時があります。テレビで皮膚科の専門医の「紫外線の浴び過ぎは危険です」の警告も耳に入らないように、せっせと砂浜に通い、デッキチェアに寝そべり、うわさ話をしたり居眠りをしたりして午後中を過ごさないと、夏は終われないようです。

 これには、戦後以降の二つの観念があると思います。太陽をいっぱいに浴びることは、とにかく健康的という観念。日に焼けた姿は、良いヴァカンスを過ごす経済的なゆとりがある、というイメージ。
 その固定観念も、たいがいもう古いかなとも思うし、猫も杓子もとも思うのですが、その中に、長いヴァカンスを満喫するイタリア人への、一抹の「嫉妬」がないと言えばウソになるでしょう。






Last updated  2008/08/08 03:55:08 PM
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2008/03/01
カテゴリ:島物語
 サンマルコ広場の南からラグーナを望むと、
サン・ジョルジョ・マッジョーレ島があります。
 この島にあるサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の鐘楼は、
遠くから見ると、サンマルコの鐘楼と色合いが似ていて
見間違えることがありますが、サンマルコの鐘楼は角錐で
高さ97m、サンジョルジョのそれは、円錐で高さは63mです。

 987年に、聖ジョルジョに捧げられた教会が建てられます。
1443年には、コジモ・ディ・メディチ(1389-1464)が、
政敵によりフィレンツェから一時追放されていた時、
この教会で逗留しました。
 そのもてなしを感謝して、図書館を建てています。
 その後16世紀から17世紀にかけて、パッラーディオや
ロンゲーナといった当時の一流建築家が、増築や修復を
任されています。

 鐘楼は、1442年の嵐で崩落し、再建されましたが、1774年に
再び倒壊しています。
 現在のは、1791年に建替えられたもので、鐘付き部屋の部分には
イストリア産の白い大理石がつかわれています。

 1951年には、企業家で郵政大臣もつとめたヴィットリオ・チーニ
が、この島に文化財団を設立しました。
 飛行機事故で亡くなった息子を記した、ジョルジョ・チーニ財団は、
文化、歴史、芸術、音楽、演劇、ヴェネツィアの歴史など
多岐にわたる活動を支援する拠点となっています。

 木製の、鉛と銀でメッキされた、鐘楼のてっぺんの天使の
風向計は、1994年の落雷で焼け落ち、その後修復されています。







Last updated  2008/03/01 05:50:41 PM
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2008/02/09
カテゴリ:島物語
 1715年4月、命からがらヴェネツィアへの船旅を終えた12人のアルメニア人修道士たちは、サン・マルコの埠頭で、検疫のための40日間を過ごします。モドーネに残っている人々や修道士たちへの祈り、祖国アルメニア語を忘れないための読書、そして新天地の言葉ヴェネツィア語の勉強に、隔離された不自由な時間も有意義に過ぎてゆきます。
 その中で、メキタルは確信します。『あらゆる観点からも、ヴェネツィアは神の啓示だったのだ。』と。おそらくそれは、もう後がない彼の、ミッションへの覚悟でもあったのでしょう。

 しかしヴェネツィア政府は、新たな修道会の拠点をヴェネツィアの街におくことは禁じていました。にもかかわらず、ヴェネツィア人のアルメニア人への好意的な感情と、とりわけメキタルに対する敬意や賞賛が、たくさんの推薦書や嘆願書となって、政府の「禁止」の解釈をやわらげることになったのでした。
 「島々は例外とする」こうして、メキタルは第一候補のサン・ラザロ島へ下見に行きます。島が放棄されてから時が経ち、かつての教会も朽ちて深い茂みにおおわれていました。しかし、メキタルの目には、未来の信仰と知の、光り輝く場所として映っていたのです。

 1717年9月8日、メキタル以下アルメニア人修道士たちが、小さいけれど(7000平方m、甲子園球場の半分)島全部が永遠に彼らのものであるサン・ラザロ島に入ります。
 1749年4月に黄疸で亡くなるまで30年以上の日々を、メキタルは神と祖国への愛情の二本柱で、伝道とアルメニア文化の維持、発展に尽くします。

 何世紀にもわたって、アルメニア人修道士たちが収集したり、寄贈されたりした工芸美術品が今では博物館として展示され、図書館とともに、アルメニアの文化保存センターとしても機能しています。
 書籍については収集だけでなく、1729年にオランダから購入した印刷機で、出版や編集にも力を入れ、コレクションも合わせた蔵書は15万冊にものぼります。
(写真は、バイロンも過ごした修道院の回廊)







Last updated  2008/02/10 02:52:11 AM
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2008/02/04
カテゴリ:島物語
 ビザンティン帝国時代から、東方の国々へ行き来していたヴェネツィア人と、アルメニア人の関係は古く、1717年にサン・ラザロ島がアルメニア人修道士の拠点になる何世紀も前から、たくさんのアルメニア商人がヴェネツィアに住んでいました。
 その上、15から17世紀にかけてキプロス島やギリシャの一部がヴェネツィア領で、アルメニアの領土ももっと広かったことを思えばヴェネツィアにとって遠い国ではありませんでした。
 
 このアルメニア教会メキタル修道会の創立者、メキタル(ピエトロ・マヌーク)は、裕福な商人だった親の反対をおして、修道僧の道を選びます。1696年20歳で司祭に任命され、伝道者の育成の他、とりわけ祖国アルメニア人の精神と文化的な向上に力を注ぎます。その溢れるような情熱とあたたかい人間性で、人々や他の修道士の心を動かしてゆきます。
 しかし、コンスタンティノープルでは、オスマン帝国下でのカトリック教徒に対する迫害が増しており、メキタルも人々を煽動したとして、ブラックリスト上の一人でした。
 見つかれば即逮捕という中、彼は女装で身を隠し修道院を出、まずカプチン会の修道院でかくまわれます。それからフランス大使館経由で、なんとか当時のヴェネツィア領モドーネ(現ギリシャ、ペロポネソス半島の南西部)へたどり着いたのでした。
 そこで、1701年9月8日25歳のメキタルは、弟子達とともに新たな修道会をたちあげます。修道院と教会の建設、運営のための借金をようやく返済し、貧しい人々へ還元が出来始めた時は、すでに10年以上が過ぎていました。
 さてこれからという時、しかし、この土地も追われることになります。ヴェネツィアとトルコの最後の戦争が勃発したからです。
 1715年39歳のメキタルは、血のにじむような思いで築き上げた修道院で、最後の祈りを捧げます。ヴェネツィアまでの弟子達の船旅に、神のご加護がありますように。(その3に続く)
(地図の青い部分がペロポネソス半島)






Last updated  2008/02/04 04:43:55 PM
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2008/01/29
カテゴリ:島物語
 ヴェネツィア本島南東のラグーナ上、リド島の手前にある「アルメニア人のサン・ラザロ島」は、島全体が、アルメニア教会のメキタル会の修道院です。
 18世紀の初めに、アルメニア人の修道院になる前は、9世紀頃からハンセン病患者や、巡礼者、貧しい人々のための病院がありました。
 ハンセン病の原因となる細菌は、古来から湿度の高いアジアにあり、中東を超えアジアへも行き来していた、ヴェネツィアの商人たちが感染することもあり、他の地域よりもこのための病院が比較的多いのです。
 14世紀半ばには、聖ラザロ(ハンセン病患者や行き倒れた人の守護聖人)に捧げられた現在の修道院が建てられています。
 1601年に、病院がヴェネツィア本島に移転された後は、島は放棄され、難民状態にある修道会の、一時的な避難場所となっていました。
 
 1717年、ヴェネツィア政府は、アルメニア教会メキタル会の創立者である、ピエトロ・マヌーク修道士を中心とする、アルメニア人修道士たちに、この島を提供します。
 それ以前の1701年に、オスマントルコ支配下で宗教的迫害を受けて、当時ヴェネツィア帝国領であった、モドーネ(現ギリシャ、ペロポネソス半島)に逃げて来ていました。そこで、メキタル(ピエトロ・マヌーク)は、現地の監督長官であるヴェネツィア人、アンジェロ・エモや、後に共和国総督となるモチェニーゴなどの有力人物と知り合い、彼らの安住の土地への道が開けたのでした。(その2に続く)







Last updated  2008/02/04 04:48:04 PM
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2007/09/22
カテゴリ:島物語
 「ヴェネツィアングラス」は、 ムラーノ島産の工芸品です。ヴェルサイユ宮殿の有名な「鏡の間」のシャンデリアも、ムラーノ島の職人達が手がけたものでした。
 今では、世界中に名高い「ヴェネツィアングラス」は、ヴェネツィア本島の北に位置する、人口6千人ほどの小さな島が産み出すガラス工芸品で、千年以上の歴史と技術の集約と言えます。
 ヴェネツィアに、ガラス工芸の技術が入ったのは10世紀頃で、当時交易で関係の深かった、ビザンティンより、材料だけでなく職人も呼び寄せて、定着、発展させていきました。
 
 ムラーノ島が、ガラスの島となったのは、1291年頃で、それまで本島にあったガラス工房を全て、ムラーノ島に移したためです。移動の第一の理由として、人口密度の高いヴェネツィア本島では、常に火災の危険が高かったこと。もう一つは、ガラス職人の高い技術を、外国へ漏らさないように規制する政策がとられたためでもありました。こうして、工房同士のライバル意識と切磋琢磨により、繊細で華麗なガラス工芸へと高めてゆき、ムラーノのシャンデリアやグラスセットなどを持つことが、ヨーロッパ王室や貴族のステイタスシンボルにまでなったのです。ヴェネツィア共和国が衰退し始めた17、18世紀も、主要な経済基盤として国を支え続けたのでした。
 ヴェネツィアングラスは、その色彩の鮮やかさ、薄さ、細やかさの他に、レース模様や編み目模様なども特徴の一つです。後に繁栄したボヘミアングラスも、このムラーノの職人が政策を「裏切って」彼の地に移住し広めた、と言われています。
 
 現在、地元と行政を悩ませているのが、中国製のコピー商品です。くれぐれも、お買い求めの前には、少し調べて、ムラーノ産の品質保証を確かめて頂きたいと思います。また、ホテルの従業員が、「ムラーノ島にタダで連れて行ってあげる」と言う誘いにものらない方が賢明です。彼らの指定の店で商品を買わないと、乗せて帰らない、というパターンもあるようですから。






Last updated  2007/09/22 11:41:37 PM
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2007/05/16
カテゴリ:島物語
 ヴェネツィア本島の南側に横たわるジュデッカ島は、以前はその形から、「スピナルンガ」(細い魚の骨)と呼ばれていました。現在の名前の「ジュデッカ」は、ユダヤ人を指す「GIUDEI」から来るのか、判決を受けたものを指す「GIUDICATO」の由来なのか、両方の根拠となりうる事実があるため、はっきりわかっていません。
 目の前におだやかなラグーナが広がり、年中さんさんと日の当たる位置のおかげで、この島は昔から、多くの庭園と菜園、別荘のある保養地でした。
 1529年9月、ミケランジェロもフィレンツェとメディチ家から逃げるように、このジュデッカ島に来て休息した、という資料が残っています。ミケランジェロの、メディチ家の政治体制に対する批判と、当時の政治的混乱が逃避の原因だったようです。
 行政区上は、ドルソドゥーロ地区に属するジュデッカ島ですが、ジュデッカはあくまで島であって、厳密に言えばヴェネツィアではない、というのが否めないヴェネツィア人の感覚でもあります。
 島の東の端には最高級ホテル『チプリアーニ』があり、西端には『Mulino Stucky Hilton』が来月オープンします。1895年に建てられたストゥッキー製粉所を改装したもので、ヴェネツィアの建造物としては破格に大きなその建物も、またひとつヴェネツィアの新しい見どころとなるはずです。(写真は、ジュデッカ島にある、パッラーディオ設計で1592年完成のレデントーレ教会)






Last updated  2007/05/16 06:58:48 PM
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2007/04/30
カテゴリ:島物語
 ヴェネツィア本島と、ガラス工芸で有名なムラ-ノ島との間に、四角い形の壁に囲まれた小さな島があります。これは、「サンミケーレ島」といって、ここの住人は「死者」です。
 ヴェネツィア共和国崩壊後、ナポレオンが、ヴェネツィアの死者をすべてここに埋葬するように、という勅命を出してから、墓地の島になりました。
 それまでは、総督や有力者は教会内部に、一般の人々は、教会隣接の墓地に埋葬されていましたが衛生面やスペース等の問題があり、墓地の移転が決められたようです。
 写真の「S.Michele in Isola」教会は、10世紀に建てられたものを1469年に、マウロ・カドゥッチの設計で再構築されたもので、イストリア産の白い大理石を使った、美しいルネサンス様式の教会で、そばには現在も機能している修道院があります。
 死者の魂が帰ってくるとされる、11月2日の「死者の日」には、菊の花束をかかえてお墓参りに行く人々で、サンミケーレ行きのヴァポレット(水上バス)は、いっぱいになります。

 今では、このサンミケーレ島も死者の「人口」が増えて、死後の埋葬を願う市民の希望が、すべて叶えられるわけではないようです。
 生きている間は、高騰し続ける家賃に追い出されるように、多くのヴェネツィア市民が本土に住まざるを得ず、亡くなってからもなお、ラグーナに「住む」のは簡単ではないようです。

 






Last updated  2007/05/01 12:09:25 AM
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