2009/07/28(火)18:52
金銀花は夜に咲く(55)「限られた彷徨」その3
穏やかな一日だった。
嵐の前の静けさである。
柚木は、自分の行動が引き金となり、村が急速に崩壊していく気配を、肌で感じ取っていた。村人の感情を直接に”痛み”と感じる幸彦と真彦に比べれば、微細であったとしても。憂鬱な気持ちでありながらも、柚木は百合枝とお茶を飲んだり、幼い紫苑の相手をしたりして、表面上は何事もなく時間を過ごしていた。
風が吹いた。
風は上の階から吹いていた。
柚木は三階への階段を上がっていった。廊下の先に朔也の部屋があった。扉が少し開いていた。柚木は中を覗いてみた。敷物の上に朔也は腹ばいになっていた。上半身は黒い袖なしで、下は柔らかい木綿の生成りのズボンだった。足を交互に天井に蹴上げている。素足の指先が仄かに薔薇色を帯びている。美しい者はこんな所まで美しいのかと、柚木は思った。
思い切って扉を開け、柚木は声を掛けた。
「朔也さん、何をしてるの?」
「・・運動」
朔也は少し顔を上げ、柚木を見て微笑んだ。その微笑が、柚木の胸に甘い痛みを呼び起こした。記憶の中の微笑に酷似している。だがそれよりも無垢で無邪気な笑みだった。
「身体と、話してる・・どこを、どう鍛えたら良いか」
(忍野はそういう事が得意だった)
柚木は朱雀の言葉を思い出した。
「柚木・・やってみる?」
「うん」
「上を脱いで・・その方が、いい」
柚木は素直に従った。朔也のしなやかで均整の取れた身体に比べ、ひょろんとして貧弱な自分の身体が恥ずかしかった。育ち盛りの身体は急速に背が伸び、クラスの中でも三本の指に入る長身になっていた。それでも朔也の方が背が高かった。朔也は柚木の身体をじっと見た。何故か柚木から羞恥が消えた。暖かい目が柚木を見ていた。その目を柚木は知っている気がした。
朔也が頷いた。
「・・このへん」
朔也の指先が柚木の背中をなぞった。くすぐったくて柚木は身をよじった。
「・・ごめん」
「ううん」
朔也の指先は優しく柚木の身体の上を移動していった。朔也がぽつりとつぶやいた。
「大きくなったな、柚木」
それはいつものおっとりとした口調ではなかった。柚木を慈しんでくれたあの人の言葉だった。柚木はたまらなくなり、朔也にしがみついた。
「お父さん、やっぱりお父さんなんだね?」
朔也は茫然として柚木を見た。
「分からない・・」
「お父さんだよね?」
朔也は怯えた目をした。柚木を震える手で押しやった。
「・・私は、竹生様の人形で・・私は・・」
朔也は両手で頭を抱え、がっくりと床に膝をついた。朔也は叫んだ。
「分からない、分からない!!私は・・!!」
朔也は泣き出した。
「私は、わたしは・・・・・誰?」
風が吹いた。
荒々しく扉が開いた。影がすべり込ん来た。
竹生だった。竹生は朔也を抱き起こした。
「朔也、落ち着け。お前は朔也、私のものだ」
「ああ・・竹生様・・」
朔也は泣きながら竹生にすがりついた。柚木は動く事も出来ず、目を見張ったまま、その様子を見ていた。
「柚木」
無慈悲な夜の声がした。柚木の全身が恐怖に凍りついた。
「朔也に、二度と近づくな」
(つづく)