貴方の仮面を身に着けて

[紅き涙は朝に消ゆ（完結）] カテゴリの記事

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• （終）紅き涙は朝に消ゆ(15) 宴と祈りと紅き瞳と その3

  「殲滅に五分とかからぬとは」「一騎当千とはこの事だな」「さすが三峰様の御子」「風の家もこれで安泰」現地の”盾”達の驚愕と賞賛を背に、鵲達三人はホテルへの道を歩いていた。鳥船が言った。「鵲様、さっそく評判になってますよ」鵲は傍らを行く鳥船をちらりと見た。その流し目の色香に、鳥船ですら胸がときめかずにはいられなかった。この美貌、剣術の冴え、風の家の嫡子、羨望の的となって当然である身でありながら、鵲は謙虚であった。「私が思い切り戦えるのは、お前達が共にいるからだ。この賞賛の半分はお前達の物だ」鳥船は一歩下がって歩く高望を振り返り、にやりとした。「だそうだ」「身に余る光栄」愛想でもねぎらいでもなく、鵲が本当に思う事しか口に出さぬのを二人は知っていた。それゆえに一層うれしく思う二人であった。「おかえりなさいませ」「寝ていても良かったのだぞ」「そうは参りません」出迎えた桜子に、鵲は言った。「お前の寝顔を見てみたかったのに」桜子は頬を染めた。「これからは、いつでも見られるぞ、鵲」桜子には聞こえぬ声が言った。「さて、ワシは何か美味い物でも探しに行くか」（異界の者でも、気を使ってくれるのだな）鵲は思い、微笑した。竹生の居間で、美しき”人でない”兄弟が琥珀色の酒を酌み交わしていた。室内には珍しく灯りがあった。手にした極上のカットグラスが、光を照り返し虹色に輝く様を楽しむ為である。「鵲の奴、さっそく花嫁を放り出してお役目に参加したそうですよ」三峰は父親らしく、一応ため息などついて見せた。ゆったりと安楽椅子で寛いだ竹生は、空のグラスを宙に差し出した。見えない手が二人の間の卓上にあった瓶を掴み、琥珀色の美酒が竹生の杯を満たした。天井から野太い声が響いた。「”盾”達は、鵲様の勇姿に感嘆するばかりであったと、干瀬が伝えて来ました」竹生は微笑した。「やはり付いていったのか。好奇心の強い奴だな」野太い声が応じた。「あれは、鵲様と桜子様の御子の守護もする心積もりであるからに」三峰も杯を差し出した。杯はたちまち美酒で満たされた。「我が孫か、気の早い話だな」「我らにとっては、一瞬にも満たぬ時なれば」竹生は杯を干した。そして弟を見た。「我らもまた、見守ろうぞ。我らが血の行く末を」今度は三峰の手が瓶を掴んだ。「まずは、我が息子の行く末の幸いを祈り、もう一杯」三峰は天を仰いで言葉を続けた。「斤量（きんりょう）、今宵はお前も共に飲もうぞ」「承知」空だった肘掛椅子のひとつに、灰色の髪の童子の姿が現れた。「たまには、人の姿も良きものなれば」柚木は机に向かって宿題を片付けていた。真彦は傍らに寝転んで本を読んでいた。真彦が不意に言った。「僕らも、結婚するのかな」柚木はノートから目を離さずに言った。「お前はしないとな。跡継ぎとかいるんだろうし」真彦は口を尖らせた。「何だか、面倒な気がする」「鵲さんが帰って来たら、聞いてみたら？」「それも面倒だな」「お前、贅沢だよ」「だって、当主様だもの」二人は目を合わせると笑った。若い笑い声が、やがて来る明るい朝の予感を漂わせ、屋敷の夜は更けていった。（終）

  2011/11/18

• 紅き涙は朝に消ゆ(15) 宴と祈りと紅き瞳と その2

  林の向こうに廃屋の影が黒く見えた。窓に灯りはない。三人は物影に身を隠した。高望が鳥船に言った。「偵察へ行って来い」「また俺か？」高望は両手を広げ、自分の巨大な体躯を示した。「俺の身体は、偵察には向き過ぎる」二人のやりとりに、鵲（かささぎ）は口元に笑みを浮かべた。そして言った。「鳥船、行って来い」鳥船は、わざと丁重にお辞儀をしてみせた。「貴方のご命令とあらば、鵲様」鳥船は足音もなく、敷地の奥へと消えた。鳥船と高望がこっそりとホテルから出て行こうとした時、二人は月下に白く立つ姿を認めた。満月の銀の粉が散る中、その若者はすっきりとした長身に美しい笑みを浮かべて立っていた。夜の清涼を含んだ声が聞こえた。「長を置いていくとは何事だ」二人は肩をすくめ、素早く駆け寄ってその前に膝をついた。鳥船が言った。「鵲様は、新婚旅行にて当地へおいでです。お役目の為ではありませぬ」「そこに『奴等』の影あらば、私はいつでも戦う覚悟は出来ている」鳥船は苦笑して顔を上げた。「新婚早々、花嫁を置き去りにして一生恨まれたりしないように、気を使ったのに」「そんな事はない。桜子は”盾”の妻として、十分に心得のある女だ」高望がぼそりとつぶやいた。「さっそく惚気を聞かされてしまったな」それを機に二人は立ち上がった。鵲達の宿泊先の近くに、”異人”達のアジトがあるとの知らせが入ったのは、旅立つ直前だった。白神（しらかみ）から敵殲滅の命令が鳥船と高望に下った。鳥船が白神に尋ねた。「鵲様には？」「お知らせせずとも、現地の”盾”と共になら、お前達だけで仕損じる事はあるまい」「桜子様が、ご旅行をとても楽しみにしておられますからね」桜子の亡き父・高遠と長きの同僚であり、今は桜子の父代わりと自認する白神は、若き二人の”盾”に言った。「お前達は、表向きは新婚旅行の護衛という事にしておく。何があるかは分からぬ、心しておけ」鳥船はすぐに戻って来た。「屋敷の中には、報告通りの人数がいる気配。味方は位置に付いております」鵲は頷いた。「手早く済ませる」鵲は部下をちらりと見て言った。「我が花嫁の忍耐にも、限度があるのでな」鳥船は口を尖らせた。「しばらくはご馳走様の連続だな」高望は口元だけ笑い、愛刀を抜いた。最上階の窓辺で潮騒を聞きながら、桜子は夫の帰りを待っていた。案ずるは夫の身の事ばかりであった。百合枝の贈り物である桜色のナイトガウンは絹とレースの豪華な作りだが、桜子の美貌はそれに負けておらず、極上の特別室にあっても、女主人たる品格を醸し出していた。すでに桜子は、未来の風の家の長の奥方として、十分な資質を感じさせていた。そんな桜子を満足げに眺める姿が室内にあった。干瀬がソファに伸び々々と寝そべっていた。干瀬が着いて来た事は、鵲は知っていた。むしろ自分が桜子の側を離れた時の守護に好都合と思ったし、干瀬もそのつもりなのは解っていた。なので、部屋に到着した際、果物や菓子を盛った皿をサービスに注文しておいた。干瀬は自由にそれらを貪り食い、上機嫌でいた。「お前達の息子も、そのまた息子も、ワシはずっと見てやる。今日はその始まりの目出度き日、後は酒でもあればな」桜子に、その声は聞こえなかった。自分に気づかぬ桜子に、それでも干瀬は語りかけた。「そのうちだ、そのうちお前もワシの声を聞くようになる。息子が生まれる頃にはな」（つづく）

  2011/10/18

• 紅き涙は朝に消ゆ(15) 宴と祈りと紅き瞳と その1

  最上階のスイートルームに新婚の二人を送り届けると、鳥船（とりふね）と高望（たかもち）は、自分達の部屋となった場所に荷を解いた。鵲と桜子のスイートには及ばないが、寝台の二つ並んだ寝室だけで、屋敷の自室の三倍はあった。豪華なソファの置かれた居間とキッチンもある。大きな窓の向こうには、プライベートビーチと銀の波頭を見せる海が広がっていた。開け放った窓辺に腰を下ろし、鳥船は愉快そうに言った。「ダブルベッドの方が良かったか？」「その時は、ベッドを真っ二つにしてツインにしてやる」高望がむっつりとして答えた。さっそく愛刀の手入れを始めた所だった。「仕事熱心だな」「遊びに来たわけではないからな」「鵲（かささぎ）様には仕事はさせない。するのは俺達だ」「そういう事だ」鵲と桜子の結婚が決まると、竹生の屋敷は俄かに慌しくなった。二階の改築工事が始まった。二部屋を繋げて夫婦の住まいとする為である。鵲の部屋はそのまま彼と部下の執務室として使用される事になった。「しばらく煩いと存じますが、ご辛抱の程を」桐原は竹生に進行状況を報告した。”人でない”竹生の行動時間は屋敷の他の住人と異なる。彼は昼間は眠り、夜に活動するのだ。黒い絹のシャツとゆったりとまとい、安楽椅子に寛いだ竹生は機嫌が良かった。表情は変わらないが、長年仕えて来た桐原には解った。「斤量（きんりょう）が来ている。工事が幾ら煩くても、ここまで音も気配も届かない」斤量は異界の者である。彼の”手”に覆われた場所には、外部から一切の干渉が出来なくなる。「ワシが斤量に頼んでやった」桐原の足元から声がした。青いひょろりとした影が、床から伸び上がった。それはみるみる人の形になった。肌の色の青さを除けば、その姿は朔也に瓜二つであった。この干瀬（ひせ）も異界の者である。今の桐原には彼の姿を見る事が出来た。津代も干瀬を見られるようになり、楽になったと喜んだ。洗い物でも片付けでも、干瀬はまたたく間にやってのけた。干瀬も津代と話せるお蔭で多くの美味い物にありつけるようになった。今も干瀬の両手には、蒸かしたての饅頭があった。屋敷の警備の”盾”達への差し入れに、津代が作ったのだろう。美味そうに食いながら、干瀬は言った。「すぐに家族が増えるぞ、風の家の跡取りだ。竹生、お前に似た美しい子だぞ」竹生はちらりと干瀬を見た。そして美しい目を流し、桐原を見た。魔性の美に桐原ですら抗う事は不可能であった。桐原の頬に赤味が差した。桐原は取り繕うように頭を下げた。「鵲様のお部屋の件、変更の手配を致します」「頼む」桐原が出て行くと、竹生は干瀬に問いかけた。「何故、未来の話を？」干瀬は床に座り込んで、饅頭の最後の一欠片を飲み込むと答えた。「祝言の前祝いだ」干瀬は天井を仰いだ。「怒るなよ、斤量」野太い声が上から降って来た。「目出度い事であるならば」干瀬は安心してにっこりと笑った。（つづく）

  2011/09/14

• 紅き涙は朝に消ゆ(14) 花護る翼は刃となりて その3

  次の朝、古本屋の地下の道場に集合し、白神からの命令を受けていた盾達の前に、驚くべき人物が現われた。人々は目を疑った。目を疑いながらも、それが誰であるか、疑う者は誰一人としていなかった。竹生であった。白神ですら、信じられぬといった顔をして、その姿を見た。屋敷に住まうようになってから、竹生がここを訪れた事は、白神の知る限り一度たりともなかった。どんなご用件でと白神に聞く間も与えず、竹生は一同の前に立っていた。自然と盾達は膝をついていた。白神も一歩下がり、竹生の背後に控えた。地下室であるのに、黒衣の裾がゆるやかな風になびいていた。白く長い髪が宙に不思議な跡を描いていた。竹生の薄赤い唇が開いた。心地良き眠りの物憂さと夜風の清涼を含んだ声が言った。「我が甥、鵲（かささぎ）は、桜子を妻と選んだ。これより桜子は我が姪、我が身内となる。桜子に害なす者は、我が敵と見なす。何人たりとも、我が剣から逃れる事は出来ぬ。心に刻んでおくが良い」それだけ言うと、竹生は出て行った。竹生が去った後も、しばらく誰も口を聞く事はおろか、身動きひとつする者もなかった。ただ入って来て、ただ出て行っただけであるのに、猛者揃いの”盾”達が、竹生に骨の髄まで圧倒されてしまったのである。やっと息を吐き出し、立ち上がった時、彼らは己の全身に立つ鳥肌に気付いた。そして己の強さを過信していたと思い知った。己の未熟さに打ちのめされ、誰もが言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。（私が百の苦言を並べるより、竹生様がお姿を一瞬お見せになった方が、何と効果がある事か。さすが”最高の盾”と呼ばれた御方だ）白神は、胸の内で思った。二階の廊下で、桜子は、向こうから来る竹生と行き合った。桜子はその場で立ち止まり、軽く頭を下げたまま、竹生が過ぎるのを待とうとした。普段の竹生なら、そのまま桜子の事など眼中にないかの如く、過ぎるだけであるのに、その時は違っていた。不意に、桜子は白く長い髪の帳の中に閉じ込められた。桜子は竹生に抱きしめられていた。驚いた桜子の頭上から、天の音楽の如き声が響いた。更に驚いた事に、その声には優しさがあった。「桜子よ、我が甥の妻、我が姪よ。お前は我が家族、お前に我が剣の庇護を与えよう」青く甘い香りが桜子を包み込んだ。その香りの中で、桜子は陶然とその声を聞いていた。「保名（やすな）が屋敷に着いたら、お前達の婚礼をしよう。呼べるだけの者を呼び、一番良い酒も料理も振舞おう。お前にも綺麗な衣装を・・お前の名と同じ桜色がいい。下に行って桐原に伝えよ、お前達の婚礼の用意を、私が命じたと」桜子が我に返った時、廊下には只一人、彼女だけが佇んでいた。だが、今のが夢でなかった証拠に、その場には微かに青く甘い香りが漂っていた。鵲の胸に感じたのと良く似た香りが。（竹生様が、私をお認めになって下さった）感謝と喜びを胸に、竹生の言葉を桐原に伝えるべく、桜子は急いで階下へと向かった。（つづく）

  2011/06/23

• 紅き涙は朝に消ゆ(14) 花護る翼は刃となりて その2

  桜子の部屋は、屋敷の二階へと移された。桐原の計らいであった。一階の台所の奥の部分には、桐原や津代達の部屋、使用人用の湯殿、”盾”の詰所などがある。今までは、桜子の部屋もその一隅にあった。不心得な輩と又何かあってはと案じた桐原は、桜子の部屋を移動する事にしたのである。桐原から、その話をされた時、桜子は蒼白となった。自らの境遇の悪化と受け取ったからである。桜子の誤解を解く為に、桐原は丁寧に説明した。「鵲様は、貴方を許婚とおっしゃった。ならば桜子様は竹生様の姪も同然。それ相応の扱いを受けるのが、筋というもの」桜子は躊躇った。「でも、私は」桐原は重ねて言った。「桜子様は、未来の風の家の長の妻。遠慮など不要です」鵲が三峰の配下となっても、竹生の訓練は続いていた。竹生は鵲にとって最高の教師であった。鵲の相手として不足のない者は、もはや”盾”の中にはいなかった。柚木も鵲との手合わせで、急速に成長していった。その夜、二人は中庭で竹生の指導を受けていた。期末試験を控えた柚木が先に上がった。二人の相手をしても、竹生は汗ひとつかいておらず、木刀にも指先にも汚れひとつなかった。つい今しがた庭に降り立ったかの如き姿を、満ちた月が照らしていた。今は風はなく、純白の髪は、竹生の肩に背に、ゆるやかに流れ落ちていた。鵲は竹生の前に跪いた。「何の真似だ」竹生を見上げた途端、鵲は言うべき言葉を失った。そこにある神の美貌に、魅入られずにはいられなかった。無表情の下にあらゆる表情を隠した顔は、極上の陶器の滑らかさと真珠色の艶を帯び、青く澄んだ瞳が底知れぬ光を湛え、鵲を見下ろしていた。形の良い薄紅い唇が開き、夜の底に潜む物憂さを秘めた声が再度尋ねた。「何の真似だ」鵲は全身に力をこめて、竹生の呪縛から自分を解き放った。鵲は一振りの刀を差し出した。風の家の宝、名刀雪白（ゆきしろ）であった。「私がこの刀に相応しいかどうか、竹生様に見極めていただきたく」「良かろう」ふわりと竹生の身体が宙に舞い、中庭の隅の楡の大木の根元に降りた。「お前の最高で最上の一撃を、私に。遠慮はいらぬ、否、する事は許さぬ」それは、一瞬であった。純白の刃の閃光を見た者は、天上の月のみであった。そこに立つ二人以外には。鵲の手に雪白はその名の通りの一点の穢れもなき光を月に照り返し、その月をも凌駕する美が、鵲の前方で微笑した。優雅な手が宙に伸び、その手の上に、細き絹糸の如きものがゆっくりと落ちた。それは雪白の刃にも似た純白の一筋の毛髪であった。「お前の剣、我が身に届いた。見よ、これがその証し」竹生は鵲を見た。「雪白はお前に答え、お前の刃となった。我が甥よ、お前はいずれ、父をも、私をも、越えるやも知れぬ。精進せよ」「ありがとうございます」鵲は雪白に目を落とした。何度も見たはずの刀身であるのに、今初めて見たような思いがした。鵲は丁重に刀を拭うと鞘に戻した。（つづく）

  2011/06/21

• 紅き涙は朝に消ゆ(14) 花護る翼は刃となりて その1

  廊下へ出ると、鵲は桜子に囁いた。「あれを、私に」何の事か、桜子にはすぐに解った。二人は桜子の部屋へ行った。桜子は自室に鵲を入れたのは初めてだった。鵲は扉を閉めると、その場に佇んだ。年頃の女性の部屋へ入るのは、鵲も初めてであった。寝台の覆いは可憐な花の柄で、棚の上の人形や置物にも乙女らしい趣味があった。甘い香りがした。鵲は少し照れた顔をした。「可愛い部屋だな」淡い羞恥と喜びが、桜子の胸に湧き上がり、先程までの痛みを癒してくれた。和箪笥の引き出しのひとつから、桜子は刀袋を取り出した。かつて鵲に預かった名刀雪白（ゆきしろ）だった。鵲へ差し出そうとすると、鵲はそれを遮った。「話しておかねばならぬ」「何でしょうか」「お前の父の死は、私のせいかも知れぬ」撫子から母と自分が受けた仕打ち、そしてそれを三峰に打ち明けた事を、鵲は語った。村から連れ出された母の保名（やすな）が、この屋敷へ来る手はずとなっている事も。桜子は黙って聞いていた。「お前は、私を憎んでも良いのだ」桜子はひたむきな目で、鵲を見た。「鵲様こそ、私を憎んではおられないのですか。母の撫子の非道なふるまいに」「お前は撫子ではない。何故、憎む必要がある」「ならば、私も同じ事です。父には父の決意あっての事」桜子は床に目を落とした。「父の遺書に、私宛の物がありました。桐原様が渡して下さいました。村の長としていたらなかった後悔と、何よりも私の行く末を案じておりました」桜子は再び鵲の目を真っ直ぐに見た。「貴方のせいではありません。父は自身のけじめとして、死を選んだのですから」不意に、もう父も母もおらず、この世にたった一人だという思いが、桜子を捕らえた。桜子の目から涙があふれた。「私・・私は、ひとりだわ。お父様も、お母様も・・」桜子はその場に崩れ、刀袋を抱きしめたまま泣き出した。気丈に振舞おうとしても、桜子はまだ若すぎた。大人びてはいても、柚木と変わらぬ歳なのだと、鵲は思い出した。鵲は床に膝を付き、泣きじゃくる桜子を抱き寄せた。「一人ではない」桜子は鵲の温かい胸に頬を押し当てた。「私の許婚、私の妻となる女ならば、我が父三峰はお前の父だ。竹生様も、お前を家族と思って下さるだろう」鵲の腕に力がこもった。「何よりも私が、お前と共にいる」

  2011/05/19

• 紅き涙は朝に消ゆ(13) 愛しき子の為に その3

  「もう、お嬢様じゃないんだよ」幾つもの含み笑いが聞こえた。桜子は凍りついた。誰が言ったのかは解らなかった。顔から血の気が引いていくのが解った。何か言おうと思ったが、唇が震えて言葉にならなかった。父の高遠の死と名誉剥奪、母の撫子の断罪が公表された後も、竹生の屋敷の人々の態度は変わらなかった。両親を失った桜子へのいたわりもあった。だが今日やって来た”盾”達にはそれがなかった。当番の盾の控え室に茶を運び、出ようとした時に、その言葉が浴びせられた。屈辱よりも寂しさが桜子の身体を締め付けた。もはや庇護する者はいないのだ。投げつけられた手拭を、桜子は拾おうと身をかがめた。不意に桜子の視界が遮られた。目の前に白いシャツの広い背中があった。「私の許婚への暴言、先輩の盾の方々と言えども、聞き捨てには出来ませぬ」鵲（かささぎ）であった。（許婚、私をそう呼んで下さった）桜子は目の前の背中にすがりつきたい思いがした。「罪人の子同士、お似合いだな」嘲る声がした。鵲は静かに言った。「桜子に、どんな罪があると言うのです。昨日と今日と、桜子には何も変わりはない。相手の立場で掌を返すなど、それが誇りある盾のする事でしょうか」誰も答えなかった。鵲は静かに彼らを見ていた。その瞳は澄んだ光に満たされていた。桐原が部屋に入って来た。部屋の様子に頓着する様子もなく、いつもと同じ慇懃な口調で桐原は言った。「鵲様、真彦様がお呼びで御座います」「ありがとう、直ちにお伺い致します」鵲は盾達に一礼すると、桜子の肩を抱き、共に出て行った。桐原は一同をぐるりと見渡した。きまり悪げに顔をそむける者、そ知らぬ顔をする者もいた。厳しい声で、桐原は言った。「竹生様がこの場にいらしたら、お前達は即座に斬り捨てられていたぞ」桐原は部屋に居る者達の名前を次々に呼んだ。「以上の者は、この屋敷への出入りを禁ずる」一人の盾がいきり立って吼えた。「そんな権限は、貴方にはない」穏やかな顔で、桐原はその盾を見た。「卑しき心持つ者は、すぐに『奴等』の餌食になる。この屋敷の平穏を守るのが私の役目、お前達の方にこそ、逆らう権利などはない」盾が言い返そうと口を開きかけた時、風が吹いた。部屋中の窓が大きな音を立てた。彼等の背筋に冷たいものが走った。恐怖だった。屋敷のあるじの怒りが、風となって窓を鳴らしたのだと誰もが感じた。今にも美しき黒衣の死神がこの場に現われそうな気がした。誰かが廊下を歩いて来る足音がした。桐原以外の者の顔面が蒼白になった。入って来たのは、屋敷のあるじではなかった。だが、同じ位に盾達には衝撃的だった。入ってきたのは、”外”の盾のまとめ役の白神（しらかみ）であった。白神は鹿沼とその部下を従えていた。今までの会話を聞いていたように、白神は彼等を見て言った。「人の心守るが我ら”盾”。それが人の心を傷つけるとは。心無い仕打ちとは、良く言ったものよ。お前達は、心奪われた者と同じ行いをしたも同然」白神は振り返り、鹿沼に言った。「この者達を”地下”へ連れて行け」鹿沼は頷いた。盾達は慌てた。「待って下さい！誤解です！」鹿沼が一喝した。「見苦しいぞ！」普段は寡黙なこの男の声は、胸にずしりと重く響く大音響であった。盾達は沈黙した。鹿沼に促され、盾達はうなだれて出て行った。鹿沼の部下達が前後に付き、彼等を連れて行った。白神は桐原に深々と頭を下げた。「部下達の不始末、まことに申し訳御座いませぬ」この時ばかりは、昔の鬼教官の口調で、桐原は言った。「今風になるのも良いが、このままではすべてが終わるぞ」「面目御座いませぬ」「朱雀様の元で、再編が進んでいると聞いてはいる」「はい、あの様な者達は、二度とお屋敷には」桐原は声を落として言った。「これも再編の一環か」「お見通しで」桐原は、いつもの穏やかな顔を取り戻した。「真彦様のお茶の用意をせねば。では、失礼致します」

  2011/05/06

• 紅き涙は朝に消ゆ(13) 愛しき子の為に その2

  高遠の死が”外”の関係者に公開された。撫子の断罪の件も、高遠の栄誉剥奪の件も、本人の遺言として伝えられた。桜子には桐原が伝えた。高遠の希望であった。竹生の屋敷に身を寄せている以上、桜子の処遇に直接関与するのは桐原であり、高遠は桐原の人柄を信頼していた。桜子宛の遺書も桐原が渡した。桜子は、けなげにもその場で泣く事はしなかった。仕事を休むように言っても聞き入れなかった。普段通りに竹生の屋敷での勤めをこなしていた。桐原は遺書と共に、桜子への遺産も託されていた。相当な額であった。残される娘への高遠の精一杯の心尽くしであった。桜子の意向を聞き、桐原は竹生の許しを得て、桜子の持参金として預かる事にした。三峰の直属となった鵲だが、住まいは竹生の屋敷のままであった。真彦は自分の信頼する者以外は側に寄せ付けなかった。その為、鵲は真彦の警護の任を解かれる事はなく、鵲の部下の鳥船と高望は、引き続き真彦の側に付いていた。帰宅すると、鵲は真彦の部屋に顔を見せに行った。三隅は、須永と自分の配下の者を上手く回し、鳥船がマサトの研究の手伝いをしたり、高望が鹿沼の訓練に参加出来る様に気を配った。鵲への周囲の気遣いに、三峰は感謝とねぎらいを忘れなかった。高望が白神への定期報告を終え、古本屋のビルの廊下に出ると、三峰がいた。高望は立ち止まると、深く頭を下げた。歩き出そうとした高望を、三峰は呼び止めた。高望は背筋を伸ばした。鵲の部下であっても、三峰と顔を合わせる事は稀であった。個人的に言葉を交わした事はほとんどなかった。「寒露から、預かって来た」三峰が差し出したのは、一枚の写真であった。背景は佐原の村の盾の宿舎であった。今と寸分違わぬ三峰の隣に、屈強な男が立っていた。「お前の父、火高だ」突然の事に、高望は驚きを隠しきれなかった。「あの時代、盾の写真を撮る事は、禁じられていたはずでは」「白露の遺品から出て来たそうだ。白露がこっそり撮ったのだろう」初めて見る父の姿は、己と良く似ていた。三峰と鵲も良く似ていた。この写真と今との間の数十年が、ほんの一瞬に思えた。「これはお前が持っていた方がいい。遠慮はするなよ」「ありがとうございます」高望は写真を受け取った。「竹生様と私が戦えたのも、火高が後ろにいるという安心と信頼があっての事だ。お前も父と同じようになるだろう」「精進致します」高望は心の中で寒露にも深く頭を下げた。

  2011/05/01

• 紅き涙は朝に消ゆ(13) 愛しき子の為に その1

  「父上、お辛いのでは」「いつもの事だ」白々と明けた朝の光が、鵲（かささぎ）の部屋にも満ちていた。普段であるなら、三峰は寝所にいる時間である。”人でない”身体は、昼の間は激痛に見舞われる。それを少しでも和らげる為に、彼等は定めた寝所で身を横たえるのである。「話は、もう終わる」鵲は寝台の上で身をすらし、隙間を作った。「父上、こちらへ」三峰は椅子から鵲の傍らへ身を横たえた。鵲は父の身体をしっかりと抱きしめた。幼き子供の頃、たまにしか戻らぬ父の布団にもぐりこんだ時以来の事であった。「人の身に触れると、痛みが楽になると、聞いた事があります」三峰も我が子を抱いた。「そうだな」互いの鼓動を感じながら、三峰は話し、鵲は聞いた。明日には高遠の死と事の顛末が”外”の盾達にも伝えられる事、滋野の件は伏せられたままである事を聞いた。「桜子も、知るのですね」「桐原から伝えてもらう」「桜子は、一気に両親を失ってしまった」「お前も力になってやるが良い。それともまだ恨んでいるのか」父の腕の中で、鵲はかぶりを振った。「いえ、恨みなど。今は」「そうか」「桜子を、どう思われますか？」「良い娘だと思う」「私は、桜子を幸せに出来るでしょうか」三峰は微笑した。「お前は、努力を惜しまぬ性分だからな」「私はまだ、若輩者です」「あせらずとも良い、何事も。桜子に気を配ってやれ。高遠の事が知れれば、良からぬ輩も出て来るやも知れぬ」「はい」次の日から、鵲はお役目に復帰した。白き守護者の傍らに、鵲の姿が見られるようになった。紅の瞳の若き盾は、白き守護者の側にあっても霞む事は無かった。次代の盾を統べるに足る優れた資質を、盾達は彼の内に感じた。昨今は、村にも”外”にも暗い話題が多かった。人々は、黒い詰襟に似た盾の制服の背が真っ直ぐに伸びた鵲の立ち姿に、未来への希望を見出していた。

  2011/04/27

• 紅き涙は朝に消ゆ(12) 刻まれた策略 その3

  「これが、その茶で御座います」白い作務衣に身を包んだ薬師が、白い茶碗を載せた黒い盆を恭しく差し出した。昨夜の内に命じて作らせた『奴等』の嫌う薬を混ぜた茶である。布団の上に座していた霜月が手を伸ばし、茶碗を掴んだ。そしていきなりぐいっと飲み干した。薬師が慌てた。「霜月様、お体にさわっては」霜月はじろりと薬師を見た。「この身が『奴等』に侵されていたら、どうする。まずは、それを確かめねばな」「ご尤も」霜月の返した湯飲みを盆に受け取り、薬師は尋ねた。「お加減は？」「何とも無い」「それは何より」「味も、普通の茶だった」薬師が得意そうな顔をした。「それが、我らの苦心した所でして」「良い仕事をしてくれた」薬師は一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに顔を引き締めた。「して、これをどのように村人に」今度は霜月が嬉しそうな顔をした。「寒露が、何やら策を思いついたらしい」佐原の屋敷の執務室の隣に、その部屋は設けられた。村人達は家族ごとに呼び入れられた。寒露は村中に触れ回った。「三峰様が、直にお話を聞いて下さる。皆の不安も不満も、遠慮なく伝えるが良い」久遠と配下の者が、屋敷に集まった村人達を手早く捌き、順々に部屋へと招き入れた。部屋には、黒檀の美しい細工の卓子を囲んで、座り心地の良い絹張りの椅子が置かれていた。中央の席に、三峰が座していた。稀なる美貌のかんばせに暖かい笑みが漂い、何かを言う度に、白くさらさらと流れる髪が揺れた。村人達は、その姿を眺めているだけで、高遠を失った不安も、封じ込められた生活への不満も、たちまちの内に忘れ去り、ただただ恍惚として時を過ごした。三峰は、必ず村人達に茶を勧めた。人々は素直に茶碗を口に運んだ。衝立の陰に控えた薬師達が、茶を口にした者達の様子を仔細に観察していた。すべての村人の確認が終わった時には、夕刻となっていた。「お疲れ様でした」寒露は三峰の前で、深く頭を下げた。「お前は、いつも突飛な事を考え付くな」「せっかく三峰様がお戻りになったのです。村人もお顔を拝見したいと思いまして」「体よく、私を利用したな」「それだけ、貴方には価値も人望もおありになるという事です」寒露は悪びれる様子もなく述べた。三峰は苦笑した。長老と主な者達は、再び霜月の枕頭に車座に集まった。滋野以外には『奴等』の痕跡はなしと、薬師から報告があった。露の家の調べでは、村を取り巻く結界にも漏れはなかった。三峰は尋ねた。「滋野には、何と言ってある」寒露が答えた。「高遠の葬儀の仕度と後始末に専念する様にと。久遠に、滋野から目を離さぬ様に言ってある」「今はそれで良かろう。高遠の件は？」霜月が言った。「高遠の意志は尊重すべきじゃ。遺言であるしな」「”外”には、私が戻った折に顛末を伝えよう」霧の家の門を出た三峰を、劉生が追って来た。「三峰様」「どうされた、劉生殿」「息子の件、感謝致します」「私は何もしておらぬ。竹生様のご厚意だ」「竹生様に、くれぐれも」「息子を思う気持ち、私も解る。私にも息子がいる」「もし、あれが正気に戻り、我らを許してくれるなら」三峰は老人に微笑んだ。「あれは、誰も恨んではおらぬ」（つづく）

  2011/04/23

• 紅き涙は朝に消ゆ(12) 刻まれた策略 その2

  二人の老人は、あらためて向き合った。「長く生きていると、様々な事に出会いますな、劉生殿」「悪い出来事も多いのですが、吉報も御座いますな」霜月は襖絵に目をやった。薄墨の親子鷹の図であった。劉生の目もそれを追った。霜月がぽつりと言った。「儂にもう一人、息子がおりました。寒露の奴めが、教えてくれました」劉生は驚いた。「何と、それは」「志願して”外”に出た鍬見（くわみ）、あれが女中の和可に出来た子で」「そうでしたか」「老いぼれの命、惜しくはないと思いましたが、孫の顔を見るまでは、知らずに不憫な思いをさせた息子の顔を見るまではと、老骨に鞭打ってでも、生き延びる気になりましてな」「それは、良いお心掛け」劉生と霜月は目を合わせた。劉生が目を落とした。「私の息子も・・生きておりました」今度は霜月が驚く番だった。「忍野が」「竹生様に救われ、庇護されているそうです。ですが、身体も弱り、記憶も定かではなく、自分が誰かも解らぬと。竹生様の許しを得て、三峰様がお教え下さいました」「無事だっただけでも」「ええ、我らの罪が少しは軽くなったような。私はともかく、桐生（きりゅう）に父親に逢わせてやりたいと」「劉生殿、遠慮はいらぬ。忍野に逢いたいと、父親の貴方が思って、何がいけないというのでしょう」霜月はがっしりとした大きな手を伸ばして、劉生の手を握り締めた。「共に生き長らえましょう。再びこの地と”外”に道が出来る時まで」劉生もその手を握り返した。「お互いに」

  2011/03/31

• 紅き涙は朝に消ゆ(12) 刻まれた策略 その1

  人目に付かぬ様に、三峰と劉生は寒露の案内で、霧の家の屋敷の裏手から入った。霜月の寝所には灯があった。霜月は布団の上に半身を起こしていた。珊瑚が舅の肩に厚手の綿入れをかける所だった。入って来た三人に深く頭を下げ、珊瑚は静かに出て行った。霜月は三人を促した。「お座り下され。挨拶は抜きじゃ」腰を落ち着けると、寒露が手短に事情を説明した。霜月の顔が険しくなった。「『奴等』に、心を奪われていたと？」「あまりにも微かで、本人も周囲も気付かぬ程に」「何故、そんな真似を」「僅かであっても、滋野の思考に刺激を与えるのは、可能だと思う」三峰が言った。「問題は、滋野だけではないやも知れぬ、という事だ」三人が三峰を見た。「残された村人の、悪鬼への変化が早すぎると、朱雀は感じたそうだ」『奴等』に心を奪われた者は”異人”となる。そして時を経て悪鬼となる。その間、数年はかかると言われている。だが取り残された村人達のほとんどは、一晩で悪鬼と化していた。変化しなかった者は、悪鬼となった仲間に食い殺されていた。霜月は呻いた。「『奴等』の手のかかった者が、かなり前から大勢いたと？」三峰は頷いた。「その可能性はある」「村人の誰がそうなのか、見極めないと」封印の成功で安堵した所に、高遠の死、今度は『奴等』の策略。四人は憮然たる面持ちとなっていた。寒露は持ち前の陽気な口調で言った。「病気に感染している患者を、見つけるようなものだな。三峰様に村人全部に噛み付いてもらうのが、一番手っ取り早いが、それは無理だな。喜ぶ連中もいるかも知れないが」三峰は苦笑した。「誰が喜ぶものか」「貴方に憧れている者は、今でも多いのですよ。三峰様」ずっと黙っていた劉生が口を開いた。「薬はどうだろうか、霜月殿。『奴等』の嫌う佐原の秘薬、あれが使えぬだろうか」「成程、我が家の薬師と図ってみよう」寒露は真面目な口調に戻った。「劉生殿、親父殿。もし『奴等』の息がかかっていると判明した者の処置はどうする。夢の力で癒せる程度のものなら良いが。癒せるとしても、今は当主様はここにはいない」三峰はその後の事も考えていた。「家族に心奪われた者がいると解った者達は、動揺するだろう。その方の対策もいる」劉生が言った。「霜月殿、すぐに薬師にご指示を。我ら露の家では、今の結界の中まで『奴等』の力が及ぶかどうか調べてみよう。明朝また、話の続きを。三峰様も寒露殿もお疲れのようだ」”人でない”身であっても、封印された村と”外”との行き来は、極端に体力を削ぎ落とされる。三峰も寒露も、口には出さぬが、数日は己の体調が元に戻らぬ事を知っていた。今ここに座している事さえ、億劫になっていた。三峰は劉生の心遣いをうれしく思った。寒露も同様であった。「三峰様、今宵は俺の離れの別室をご用意する。そちらでお休みを」「そうさせてもらおう」二人が出て行くと、霜月は下男の力弥を呼んだ。力弥に薬師への用件を伝えると、力弥はすぐに出て行った。

  2011/03/29

• 紅き涙は朝に消ゆ(11) 二重の記憶 その4

  夕刻の佐原の屋敷の奥座敷に、三峰と寒露はいた。”人でない”二人にとって、昼間の激痛から解放されるこれからの時間が、真の活動時間となる。寛ぐ二人の前に、酒の用意がされていた。三峰のすんなりと形の良い指が口元に杯を運んだ。薄く玉虫色を帯びた杯は、美しい唇に触れられた喜びに煌いた。白い喉が微かに動いた。思わず、寒露は見惚れてしまった。まだ人であった頃から、双子の兄の白露と長年仕えて来た三峰だが、その美に慣れる事はなかった。寒露の視線を気にする風もなく、三峰は久方ぶりの故郷の酒を楽しんでいた。「良く樽が無事だったな」「樽の家・・いや、杉の家の長は、蔵に何かあったら首でも吊りそうな勢いでしたから」「樽の家、今でもそう呼ばれているのか」「口の悪い連中は、そう呼んでいますよ」三峰は微笑した。「今も昔も、変わらぬな」「坂の家の久瀬（くぜ）は、大の酒好きですから、杉の家の長の頼みで、酒用の米を特別に作っているそうですよ」「良い事だな」「久瀬は、間人（はしひと）の墓参りを毎日してくれています」「そうか」二人は黙った。若くして逝った佐原の当主に思いをはせる為に。”特別な子”と三峰は間人を呼んだ。寒露は間人を守る為に、人である事を捨てた。なのに間人は、あっけなく世を去ってしまった。「失礼致します」白い障子に大小二つの影が映っていた。二人は回想から解き放たれた。「入れ」三峰が声をかけた。入って来たのは、滋野を伴った間宮であった。間宮は疲れの滲んだ声で言った。「無謀なお願いを聞き入れて下さり、感謝の言葉も御座いませぬ」額を畳に擦り付けんばかりの間宮と滋野に、三峰は優しく言った。「顔を上げて、楽にせよ」三峰は間宮に微笑みかけた。「故郷に帰るのは、いつの時でも心休まる。気にするな」三峰の美しい微笑に、間宮の中の疲れが一気に癒された気がした。「ありがとうございます」「大事なのは、これから。今日は十分に休まれよ」「今日の事を茶番とせぬ様に、やれるだけの事はやるつもりです」三峰と寒露はちらりと目を合わせた。寒露が言った。「間宮殿、お疲れであろう。帰って休まれよ。俺は滋野と今後の話をしたい」間宮は二人の好意に感謝しつつ出て行った。三峰は、滋野に目を向けた。「滋野」「はい」かつての村の長であり、すべての”盾”の憧れであった人物に声をかけられ、滋野は身体を硬くした。滋野の様子を見て、三峰は言った。「高遠が目をかけていたお前だ。自分を必要以上に卑下するな。今まで通りやれば良い」「はい」「無理はするな、一人で抱え込むな」三峰は滋野の側に寄った。滋野は更に身体を硬くした。滋野の耳元で柔らかな声がした。「私も、お前の力となろう。その為に、お前を・・少し分けてくれぬか」滋野は咄嗟には、その意味が理解出来なかった。耳元に感じた熱い息が首筋に降りて来た。次の瞬間、滋野はその意味を悟った。瞠目した後、滋野は意識を失った。恐怖にではなく恍惚のあまりに。蒼く魔性に輝く瞳で、畳に横たわる滋野を見下ろしながら、三峰は、熟した木苺よりも赤い、形の良い唇を、白い指先で拭った。「絶望の味がした」「さもありなん」「滋野の記憶、何故にこれほどに曖昧なのだ？」「では、今回の事は」「本人は気付いておらぬが」「親父殿と劉生殿と、相談せねば」「私も行こう」（つづく）

  2011/03/25

• 紅き涙は朝に消ゆ(11) 二重の記憶 その3

  本家の大広間に、風の家の者達が集まっていた。正面には間宮が座していた。やや離れた右隣に、露の家の長である劉生、霧の家の長の代理として寒露がいた。緊張した面持ちの滋野も、寒露の隣に居た。ずらりと並んだ村人達の背中を守る様に、盾の長の久遠が立っていた。正面にいる間宮と目が合うと、久遠は励ます様に頷いた。間宮は胸を張り、話し始めた。「本日は、風の家及び村の大事の為、お集まり頂きました」間宮は言葉を切り、息を整えた。そして言った。「高遠が、死にました」広間中にどよめきが広がった。人々は口々に何か言いかけたが、寒露の声がそれを制した。「まずは、間宮殿の話を聞け！」村の守護者の言葉に、人々は口をつぐんだ。言葉と共にひやりとした何かが、首筋にあてられた気がした。”人でない”寒露の本気を、誰もが感じ取ったのだ。間宮は寒露に一礼して、話を続けた。人々は、高遠の自決の経緯、撫子への処罰、高遠が名誉の剥奪を望んだ事を知った。「今我らがすべきは、鵲（かささぎ）様が長としてお戻りになるまで、風の家を守る事。どうか、この通り」両手を畳について、間宮は深々と頭を下げた。人々は戸惑いと不安の中にいた。「間宮様、どうか顔をお上げ下さい」最前列にいた刈屋であった。「高遠様は、出来るだけの事はして下さった。その上で、ご自身のけじめとして自決なされた。私には責める事は出来ませぬ。間宮様と共に、風の家の誇りを守る事が、残された我らのお役目と心得ます」間宮は顔をあげた。「ありがとう、刈屋」人々から声があがった。「私も、間宮様と共に」「鵲様のお戻りになる日まで」風が吹いた。清涼なる風が広間を吹きぬけた。「我が息子に代わり、礼をいう」柔らかく豊かな声がした。人々は風の来た方をいっせいに見た。風に翻る白き衣、肩でふっつりと切り揃えられた純白の髪、そこだけ光の微粒子が漂う如き姿は、白き守護者であった。「三峰様！」「三峰様がお戻りに！」「お帰りなさいまし、三峰様！」「三峰様！三峰様！」人々の顔に、希望の光がともった。「鵲の帰還を望む皆の心、本人にも伝えよう」昼には、村全体の集まりが開かれ、高遠の死を公表すると共に、滋野を当面の村の長の代理とする事、引き続き、村の復興の指揮は久遠が執る事が申し合わさせた。三峰もその場に同席した。三峰の優雅な姿がそこにある事が、高遠の死に落胆する人々の気持ちを和らげた。（つづく）

  2011/03/23

• 紅き涙は朝に消ゆ(11) 二重の記憶 その2

  「ご苦労様でした」床の間を背に正座した間宮（まみや）は、伝令の言葉を聞いた後、落ち着いた口ぶりで彼をねぎらった。深夜にもかかわらず、老女はきちんと羽織まで着けていた。「急ぎ参りますと、老先生にお伝え下さいまし」「はい」伝令の若い男は、畳に手をついて頭を下げた。そして静かに襖を開けると出て行った。再び襖がぴたりと閉まると、間宮は大きく息を吐いた。息子の死の知らせに嘆く暇はなかった。霜月と劉生とのかねてからの申し合わせ通り、行動する時が来たのだ。間宮は立ち上がった。奥への襖を開くと、半白の頭の老年の男が座していた。風の家の顔役の中で唯一人、高遠の理解者であった刈屋（かりや）である。「聞こえましたか」「はい」「これで、あの子は重責から解放されたのです。後は、私達が引き受けねば」「朝一番で、主な者達を、本家の大広間に集めましょう」「頼みましたよ」滋野は、寝台に横たわる高遠の顔を見ていた。美しいと思った。二度と開かぬまぶたに睫毛の濃い影が侘しげだった。若き日の高遠は、乙女達の憧れの的だった。その際立つ容姿ゆえに軽く見られたが、内面は真面目で情の厚い男だった。見習いから正式の盾となった時、滋野は高遠の部下となった。”盾”は単独では行動しない。”組”と呼ばれる三人一組で行動する。その後、もう一人の盾は次々と入れ替わったが、滋野だけはずっと高遠に仕えていた。歳はひとつしか違わないのに、滋野にとって、高遠は遙か先にいる人物だった。他家の者が父親だった為、風の家の中での扱いは低かったが、高遠は強い風の力を持っていた。それはかつての英雄・疾風の臥雲（がうん）の孫たる証でもあった。遺書は村全体に宛てた物、母の間宮宛の物、娘の桜子宛の物、そして滋野に宛てた物、全部で四通あった。寒露から渡された滋野宛の遺書には、当面の村の長の代行を頼む旨と実務への助言、滋野の忠誠と友情への感謝が書かれていた。しっかりとした文章であった。（以前から、覚悟を決めておられたのだ）滋野は高遠の決意に気付けなかった己が疎ましかった。そんな滋野の気持ちを見通していたのか、自分を責めるなと、高遠は書き添えていた。（いつも白露様には至らないとおっしゃったが、高遠様はご立派に村の長を務めておられた）「家に戻って休まれよ、滋野殿」背後から声がした。老医師であった。「明日は早くから、集会がある」「私は・・」老医師が叱責した。「与えられた役目を果たすのが、何よりの供養と思わぬか」滋野は背筋を伸ばした。「そうですね。では、後はよろしくお願い致します」滋野の去った後、間宮がやって来た。老女は老医師に頭を下げた。「この度は、ご面倒をおかけ致しました。数々のお心遣い、どうお返ししたら・・」間宮の肩に優しく手をかけ、老医師は挨拶を遮った。「私はお役目を果たしただけ、余計な気遣いは無用。息子の顔を見てあげなさい」「ありがとうございます」間宮は白い布に覆われた息子の方へと進んだ。息子の体にすがり、今までの気丈さが一気に崩れた間宮が、泣き出した。背中に嗚咽を聞きながら、老医師は部屋を出て行った。（つづく）

  2011/03/22

• 紅き涙は朝に消ゆ(11) 二重の記憶 その1

  滋野（しげの）は執務室で一人、仕事に励んでいた。長年高遠の下にいた為、仕事の内容に戸惑う事はなかった。迷った時は（高遠様なら、こうなさるだろう）と思った方を選んだ。時折、盾の長の久遠（くおん）が尋ねて来たが、事務的な用件以外の話はしなかった。久遠は勿論今回の件を知っている。「誇り高き高遠様らしい」と漏らしただけで、それ以上は何も言わなかった。言わずとも、久遠には理解出来る成り行きであったのだろう。久遠は変わらずに、村の復興の指揮を執っていた。高遠は本家の屋敷の整理を続けている事になっていた。風の家の屋敷の門前には、見張りが立っていた。表向きは「誰にも邪魔されたくない」高遠の意向という事になっていた。見張りの盾達は、久遠の直属の者達であった。高遠は医療の建物の奥に横たわっていた。帰宅する前に、中庭を抜けて医療の建物へ行き、高遠の部屋を訪ねるのが、滋野の日課となっていた。意識のない高遠に、かつてと同じ様に一日の報告をする。その時間が滋野の折れそうになる心を支えていた。少なくともまだ、村の長は生きている、自分は一時的に代理をしているに過ぎないと思う事が出来る。人目に立たぬ様に、部屋の前にはあえて見張りは置いていなかった。部屋の鍵を持っているのは、老医師と滋野だけであった。硬く目を閉ざした高遠の蒼褪めた顔を見ながら、滋野は同じく閉ざされた村の将来を思っていた。村が二分していた頃の殺伐さに比べれば、今の村は明るい活気に満ちていた。誰もが壊れた家を直し、道を整備し、田畑を耕し、互いにいたわりあっていた。盾の家も坂の家もその他の家も、垣根を越えて、村の復興に精を出していた。寒露が村に戻り、長老の霜月の体調が良くなった事も、村人には明るい材料となっていた。劉生も元気で、指揮を執る久遠の補佐役として、現場に顔を見せる事が多かった。何もかもが良い方に変わる、村人達はそう信じて、日々を過ごしていた。それだけに、今は高遠の事を公にする事は出来なかった。撫子の遺体は、高遠の手紙の指示通りに禁忌の山に葬った。高遠は夫婦二人を罪人として扱う事を希望していた。それには公式の文書から高遠の経歴を抹消する事も含まれていた。滋野はまだ高遠の息がある内は、その作業に取り掛かるつもりはなかった。（万が一）と滋野は考えていた。（万が一、高遠様の意識が戻られ、お元気になられたら、寒露様が説得して下さるやも知れぬ）滋野は老医師の診断に誤りを見た事がなかったが、それでも奇跡を信じたかった。村を見回っていた寒露は、気がついた。（桃の蕾が、膨らんでいる）封印の際に、時間がずれたのだろうか。寒露には自覚はなかった。すでに寒露の時は止まって久しい。父の霜月は、孫の存在を知った途端に気力を取り戻し、嫁の珊瑚の世話を受けて、めきめきと良くなっていた。まだお披露目はしていないものの、珊瑚の扱いは霧の家の嫁となっていた。霧の家の中でも、口は聞けなくても気立ての良い珊瑚を嫌う者はいなかった。何よりも珊瑚の腹の中に、霧の家の跡取りがいる事が「これで霧の家も安泰」と明るい気持ちを作り出していた。露の家も忍野（おしの）の忘れ形見の桐生（きりゅう）がすくすくと育ち、気難しい劉生も、桐生の前だけでは笑み崩れた好々爺となっていた。風の家だけは、何処か暗い空気に支配されていた。霜月と劉生に励まされた間宮が、何もかも取り仕切っていた。間宮は息子の高遠の手紙をいつも懐に入れていた。母への謝罪と娘の桜子への想いが書かれていた。間宮はあえて医療の建物には近づかなかった。間宮が頻繁に通えば人の噂になる。今は風の家の建て直しが急務だった。かつての英雄の娘、村の長の母として、間宮は元来の気丈さで、采配をふるった。淡く色づいた枝先を、風が揺らしていた。（この村の風は、まだ止まない。これは吉兆だ。そうだ、そう思うのだ）寒露は樹に語りかけた。「少し、もらうぞ」手を伸ばし、蕾の付いた小枝を折り取った。珊瑚に見せてやりたくて。（つづく）

  2011/03/08

• 紅き涙は朝に消ゆ(10) もうひとつの断罪II その3

  寒露は立ち止まった。夜風の中に血の匂いがした。寒露の”人でない”感覚が、それが人の血であると告げていた。寒露は匂いの来た方向へと走った。月は高く天空にあり、畦道をひた走る寒露の足元に、漆黒の影を作った。大木の根元に、二つの身体が横たわっていた。ひとつは浅黄色の着物の女だった。寒露の目には、女の着物に大きく広がる真紅の染みまで、はっきりと見えた。女はすでに死んでいた。もうひとつは、黒い盾の制服の男であった。その手には血まみれの刀があった。男の方はまだ息があった。男が低く呻いた。寒露は驚きと共に男に駆け寄り、抱き起こした。「高遠、何があった」高遠は自らの腹を割いていた。「・・我ら、夫婦の罪・・お・・許しを・・」「すぐに、医療の建物に」高遠は首を微かに左右に振った。「どうかこのまま・・」「馬鹿を言え。見殺しになぞ出来るものか」高遠の体を抱き上げ、寒露は立ち上がった「俺は白露に何と言えばいい」寒露は走った。高遠の重さは”人でない”寒露には苦ではない。森を走りながら、寒露は叫んだ。「更紗、更紗！」それは奥座敷の番人の名であった。さわさわと羽根が鳴る音と共に、細い女の声がした。「何か」「更紗、撫子を何処かへ。村人に知れぬように」「承知」羽根音は遠ざかっていった。滋野（しげの）は、寝台に横たわる高遠を呆然として見た。（何故、こんな事に）高遠は目を閉じていた。その身体には細い管が何本も繋がれていた。傍らに置かれた機械から、しゅうしゅうと音が漏れていた。夜更けの病室に、その音がやたら大きく響くように思えた。滋野は高遠の直属の部下である。高遠が寒露の兄の白露の部下だった頃から長年仕えて来た男であった。歳も近い。寒露からの知らせを受け、身支度もそこそこにやって来た滋野は、何よりも高遠の命を心配していた。医療の建物の奥の部屋に匿われる様に、高遠は寝かされていた。老医師の計らいであった。老医師は寝台を挟んで滋野の向かい側に立っていた。その表情からは何も読み取れなかった。滋野は小声で聞いた。「高遠様は、助かるのでしょうか」老医師はじっと高遠を見たまま答えた。「長くはない」錆付いた扉がようやく開いたような声だった。絶望がひたひたと滋野の足元から全身を駆け上った。「そんな・・この大事な時に」滋野の背後から声がした。「高遠がこうなった今、お前が村の長の代理だ」振り向くと、寒露がいた。「私には、そのような大役は」「今、親父様と劉生様と話して来た」「この夜更けに、ご老体にご負担を」「お二人とも百戦錬磨の”盾”だぞ、滋野。こういう時だからこそ、頼りになる」寒露の手に、一通の封書が握られていた。「高遠の机の上にあった。お前にも読む権利がある」（つづく）

  2011/03/01

• 紅き涙は朝に消ゆ(10) もうひとつの断罪II その2

  撫子は美しい浅黄色の着物を着ていた。村中が復興に追われ、誰もが粗末ななりで働いていた。高遠自身も着古した厚手の木綿の衣服を纏っていた。「そんな恰好では、動けまい」「別に良いじゃありませんか。やる事もないのだし」撫子は、ほつれ毛を指先で直しながら言った。「私の仲の良かった人は、皆”外”ですもの。厨に行っても話相手もいないのよ」撫子の取り巻きの女達は、ほとんどが顔役の妻や娘だった。撫子も”外”に残りたかったのだ。撫子の不機嫌の理由はそれだと、高遠にも見当はついていた。撫子は”外”で起きた惨劇をまだ知らない。残った村人達が自由に暮していると思っている。（もしも撫子が”外”に残ったとしても、顔役達が権力を握れば、撫子の立場などないも同然。撫子は気付いておらぬが、村の長の妻であるから、誰もが撫子に媚びへつらっていたのだ）妻の悪い噂を耳にしても、多忙にかまけて聞かぬふりをした。狭い村で馬鹿な真似はすまいと、何処かで妻を信じていた。いや、信じているふりをした。村が少しずつひび割れていった原因のひとつは、妻への自分の態度にもあったのではないかと、高遠は何処かで思っていた。（己の罪は、己で償わねばならぬ）「お前に、ふさわしいものをやろう」撫子の顔がぱっと明るくなった。「まあ、何ですの？」高遠はわざと窓の外を見やった。「今は人目につく。夜になったらな」高遠はどんどんと歩いて行った。灰色に流れる雲に時折隠れながら、月は煌々と夜更けの道を照らし出していた。高遠は黒い盾の制服姿で、腰には刀を帯びていた。後ろから女が転びそうになりながら追っていた。女は浅黄色の着物の上に厚手のショールを幾重にも巻きつけていた。「貴方、何処まで行くのですか」撫子は夫に呼びかけたが、答えは返って来なかった。禁忌の山へ向かう道と、当然撫子も知っていた。山の麓には風の家の墓所がある。（宝は、墓に隠してあるのかしら）墓所の手前で、高遠は立ち止まった。大きな木の傍らであった。撫子が自分以外に少しでも興味を持っていたなら、忍野が事切れた場所と気がついたであろう。高遠は妻が側に来るのを待って尋ねた。「その着物、保名の物ではないのか？」「三峰様のご母堂様のお着物よ」高遠は重ねて聞いた。「保名の物ではないのか？」「元々風の家の財産なのですもの。長の妻の私が、自由にして何が悪いの？」高遠は刀を抜いた。月は欠けつつも白く凍てついた光を刀身に投げかけた。ギラリと光った刃を、撫子は興味なさげにちらりと見た。高遠の顔が険しくなった。「お前は盗みを働き、三峰様の妻子を苦しめた」撫子はそれがどうしたという顔をした。「誰が貴方にそんな事を吹き込んだの。鵲かしら、卑しい罪人の子は、やっぱり性根まで卑しいのね」高遠が怒鳴った。「それ以上、鵲様を貶めるな！」撫子は不貞腐れた。「何も、怒鳴らなくても良いでしょう」高遠は刀を握り直した。「お前に、ふさわしいものをくれてやる」（つづく）

  2011/02/24

• 紅き涙は朝に消ゆ(10) もうひとつの断罪II その1

  風の家の屋敷で、高遠は一人、後始末をしていた。高遠は屋敷に他の者が立ち入るのを禁じていた。他家の人間の目には触れさせたくない物もあったからである。盾の長の久遠が、村の再建の舵取りを申し出た。「高遠様は、高遠様にしか出来ない事をなさって下さい」久遠の端正な顔には、高遠への敬意と親しみがあった。そして気遣いも。「すまない」久遠のおかげで、高遠は風の家の長としての役割を優先する事が出来た。（あのような実直で盾らしい盾も、少なくなったな）手を動かしつつ、高遠は思っていた。納戸の中身の点検も終わった。蔵の中は空っぽにした。書斎の棚も今日で終わるだろう。書物の間から、ひらりと落ちた紙切れを、高遠は拾い上げた。書きかけの手紙であった。黒々と墨で書かれた達筆は、祖父臥雲（がうん）の筆跡であった。宛先は曾孫の鵲（かささぎ）となっていた。将来良き盾となるようにとの説教めいた内容だが、文章の端々に可愛い曾孫への愛情があふれていた。何故に書きかけのままで出されずに、書物の間にあったのか。文字を目で追いながら、高遠は娘の桜子を思っていた。今は竹生様のお屋敷で、鵲と共に暮しているはずであった。高遠は桜子の鵲への思いを知っていた。鵲が一人前となったら家の長を譲るというのが、高遠が長となる際に出した条件でもあった。鵲と桜子が夫婦となれば、風の家にも娘の為にも良いだろうと、それとなく桜子に言った事もあった。祖父の曾孫への思いは、そのまま高遠が娘を案ずる心でもあった。ふと人の気配を感じて、高遠は顔を上げた。開け放した書斎の入り口に、妻の撫子が立っていた。高遠はさりげなく手紙を書物の間にしまった。何故か妻には見せたくない気がした。不機嫌な顔で、高遠は妻に言った。「ここには、誰も入るなと言ったはずだ」「風の家の長の妻が、風の家の屋敷に入れないなんて、可笑しいじゃありませんか」撫子はいつもこれだ、高遠は思った。自分は特別なのだと信じている。その思い上がりを若き日には可愛いと思った。愛しいと思ったから妻にした。名家の令嬢で美貌を謳われた彼女には、怖いものは何もなかった。誰もがちやほやしてくれた。そして村の長の妻となり、彼女は村に君臨した。撫子は高遠の機嫌には頓着しなかった。「保名（やすな）が、村を出たそうですね」高遠は書斎机の書類を紙縒りで束ね始めた。「保名ではなく、私を連れて行って欲しかったですわ」高遠は眉をひそめた。「何故だ」「桜子も”外”にいるのですよ」「桜子の将来の為だ。お前は”ゆりかご”の方が忙しいだろう」撫子は口の端に薄ら笑いを浮かべた。「お姑様が張り切っておられますもの。私は居なくても良いでしょう？」歪んだ妻の唇を、高遠は初めて醜いと思った。（つづく）

  2011/02/14

• 紅き涙は朝に消ゆ(9) もうひとつの断罪 その3

  大通りの混沌の向こうにあった村の半分が還って来た。風の家の屋敷が戻って来た。外観は変わらないのに廃墟然としていた。左右に大理石の高い門柱がある。同じ高さの両開きの木製の門は青味を帯びた灰色だった。使用人用のくぐり戸も同じ色に塗られていた。門から入ると、玉砂利の道が玄関まで続き、左右には薔薇の茂みが揺れていた。季節はずれのはずなのに、どれもが思い切り咲き誇っていた。どれもが真紅の花ばかりであった。門から一歩入ったまま、高遠は立ち尽くしていた。真紅の薔薇の群れが、亡くなった村人達の血潮に見えた。高遠は罪の意識と無念さで一杯になっていた。己の至らなさが、村をこんなにしてしまった。劉生も霜月も寒露も、高遠を責めなかった。時代の流れには逆らえぬと誰もが言った。久遠も白神も”盾”達も高遠を支えてくれた。だが高遠の胸の内にはいつも同じ思いがあった。（もし白露様が、篠牟（しのむ）様が、ご存命であったら）激動のこの時期の直前に、村は次々と優秀な人材を失ってしまった。（忍野（おしの）がいてくれたら・・）思っても詮無い事と知りながら、高遠は思わずにはいられなかった。風の家の末の末にいた自分が、風の家の英雄・臥雲（がうん）の孫というだけで、風の家の長となり、村の長になってしまった。自分には荷が重過ぎる。せめてもの救いは、村の凋落を見る事なく、祖父の臥雲が逝った事であった。真紅の薔薇が揺れる中、複雑な思いを胸に、高遠は歩き始めた。分断された村の再建が始まった。残された村人達は精力的だった。瞬く間に村は日常を取り戻した。盾の長の久遠が男達を率い、村の補修にあたっていた。その間も盾達は鍛錬を欠かさなかった。結界が強化されたといっても『奴等』が攻めて来ないという確証はない。孤立した以上、村に万が一の事があっても応援は何処からも来ない。危機感が彼らを奮起させていた。風の家、霧の家、露の家の三名家は、有形無形の財産の整理に追われていた。伝承の技や術に関する文書もあらためて書き写す作業も始められていた。門外不出のものも多い。各家の長は、配下の者に指示を与えるのに忙しかった。風の家の長の高遠は、大通りのこちらの別宅を本拠地として、風の家の屋敷の整理にあたっていた。顔役達が持ち出した為に、金品の類はほとんど残っていなかった。高遠は心通じる数名の者に命じ、封印前に密かに別宅に真に大事な物は運ばせておいた。代々伝わる名刀の類もそれに含まれていた。あるじを失った佐原の屋敷にも手が入れられた。ここは村の守護者である寒露に全権がゆだねられた。寒露は奥座敷に更紗がいる事を知った。”奥座敷の守護者”たる異界の者は、奥座敷と運命を共にする道を選んだのだ。寒露は奥座敷を彼女の領分として、自分はそこに住まわず、実家の霧の家の離れにそのまま住む事にした。敷地内の盾の寮も厨（くりや）も、医療の家も、残った村人達の手で再開された。坂の家の者達は、田畑が無事であった事を喜んだ。最初に元の生活を取り戻したのは彼等であった。坂の家の長の久瀬（くぜ）は、混沌に飲み込まれて家を失った者達に屋敷を解放した。炊き出しの指示もした。坂の家の田畑を手伝いながら、人々は新しい家が建つまでを待つ事が出来た。陽気な巨漢の久瀬は、冗談を飛ばして周囲を笑わせつつ、田畑や山の仕事に精を出していた。「次の桃の花が咲くまでには」久瀬は良くそう言った。「次の桃の花が咲くまでには、すべて元通りになってるさ」（つづく）

  2011/02/13

• 紅き涙は朝に消ゆ(9) もうひとつの断罪 その2

  寒露が霧の家の屋敷へ着く頃には、人々の目覚めは始まっていた。大通りで分断された村の様子に、事の顛末を知らされていなかった村人達は驚いた。だが、勢力争いで二分された村の中で、村の長の高遠の側についた村人は、村にかつての平穏な日々が戻る事を願う者が多かった。十数年の間は”外”との往来は一切不可能と教えられても、不自由と感じる者も少なかった。寒露は村の中を見て回った。ほとんどの家で、いつも通りに朝餉の支度を始める女達の気配がした。男達の方が動揺を隠し切れない者が多かった。（こういう時に強いのは、女の方だな）霧の家の屋敷に戻ると、力弥が待っていた。力弥は霧の家の長の霜月の身の回りの世話をする男であった。まだ若いが気がきくので、霜月に気に入られていた。門前で力弥は寒露に丁重に頭を下げた。「霜月様がお呼びで御座います」「離れに寄ったらすぐに行くと、親父様に伝えてくれ」力弥は再び頭を下げた。離れの自室に行くと、珊瑚がちんまりと座っていた。寒露の姿を見ると立ち上がってにっこりと笑った。寒露は珊瑚を軽く抱きしめた。白と薄緑の着物の衿から、砂糖菓子のような甘い香りがした。「親父様にお茶を差し上げてくれたか」珊瑚は頷いた。「今日は色々ある。親父様のお体の具合に気を配っていてくれ」珊瑚は再び頷いた。霜月は寝床にはいなかった。着物をあらため、脇息にもたれかかっていた。村の大事の日に、病身であっても何か役に立ちたいと思っての事であった。室内には、露の家の長である劉生もいた。寒露は畳に膝をつくと、二人に頭を下げた。村の守護者となっても、実の父と村の長老たる劉生には、礼儀を忘れたくはなかった。劉生は胡坐をかいて寛いでいた。「お気を使われるな、寒露様」劉生はそう言いながらも、自分への礼を尽くしてくれた寒露に好感を覚えていた。二人の前には焙じ茶の入った茶碗があった。霜月はうれしそうに言った。「起きたら、珊瑚がすぐに用意してくれた」「良い嫁ですな、霜月殿」おっとりと話しながら、二人は寒露が足を崩して寛ぐのを待った。話はすぐに本題に入った。「お前に外の様子を見て来て欲しい」霜月は息子に言った。今や”外”との往来が可能なのは、寒露一人であった。「高遠も情報が欲しいのだ。今後の為にな」寒露は頷いた。「俺もそのつもりだ。三峰様からの内々の頼まれ事もある」劉生が訝った。「三峰様が、珍しい」「保名を”外”に連れて行く」「高遠も知っているのか？」「伝えた」「どうすると？」「村の事が落ち着いたら、けりをつけると」寒露は立ち上がった。「では行って来る。善は急げだ」（つづく）

  2011/02/10

• 紅き涙は朝に消ゆ(9) もうひとつの断罪 その1

  村の再度の封印の日時は、極秘とされていた。朱雀は、最大の危惧は計画の露見と見なしていた。村の長の高遠、盾の長の久遠、”外”の盾のまとめ役の白神（しらかみ）、そして”人でない”者達以外、朱雀と配下の限られた者達のみが、計画を把握していた。「再度の封印に備えて」と古本屋のビルや警備部の内外が慌しくなった頃には、実は封印の儀式は終了していたのである。竹生の屋敷が襲撃を受け、真彦が誘拐された件も秘された。警備部の部長の磐境（いわさか）が速やかに処理をした。その夜の警備担当の盾は全員死亡していた為、警備部から外部に漏れる懸念はなかった。幸彦は、柚木と真彦の記憶の一部を消した。真彦の精神を守る為であった。若い柚木には嘘を突き通す事は出来ないとの判断もあった。真彦と過ごす時間の長い柚木が動揺すれば、真彦にはたちどころに知れてしまう。そして自分の不在中に真彦が殺されかけた事に、柚木が責任を感じてしまう事への回避の意味もあった。「真彦様の不安定なご様子は、そのせいもあったのですね」「知らされていなかった事が不服か？」「それが私の今の立場です。貴方の子であっても、一介の盾に過ぎない」鵲（かささぎ）は背筋を伸ばし、父に言った。「何時か、父上とすべてを分かち合える立場となれるよう、精進するつもりです」三峰は微笑した。「楽しみにしているぞ」三峰はしばらく黙っていた。鵲はあせりを感じ始めていた。父の話が高遠の死にたどり着く前に、夜が明けてしまいそうだった。”人でない”者の活動時間は、常人とは逆なのである。封印された村は再建に向けて動いていたはずであり、村の長の高遠は、その為にはなくてはならぬ人物である。鵲は、母の保名（やすな）が、村から群青の家に移された事を思い出した。「母上は、どうやって村から外へ？」「術が定着する前なら”人でない”寒露と一緒であれば、出る事は可能だったのだ」「寒露様が、母上を」「朱雀と図ってくれた。今は誰も出る事はかなわぬ」鵲は予感がしていた。高遠の死の原因について。「私が、父上に話したせいですか？」三峰は息子を見た。魔性の青い目は深く澄んでいた。「高遠を、その程度の男と思うか？」思わず、鵲は声を荒げた。「何があったのか、私は知りたいのです」夜明け前の張り詰めた空気の中に、その声は大きく響いた。鵲は自分の声に驚き、恥じた。「申し訳ありません。朝が近いもので、父上が」「朝になったからと言って、私が消えてしまうわけではない」「ですが」「話がすむまではここに居る。安心せよ」三峰は、閉ざされた村での出来事を語り始めた。（つづく）

  2011/02/07

• 紅き涙は朝に消ゆ(8) 罪人の子 その3

  次に目覚めた時は夜だった。夜のしじまの冷えた薄青い空気が部屋を満たしていた。カーテンを通して月明かりが仄かに射し込む中に、鵲は白く浮かぶ父の姿を見出した。眠る前と同じ様に、三峰は枕元の椅子に優雅に寛いでいた。肩でふっつりと切り揃えられた純白の髪が、さらさらと流れて端正な顔にかかる様子は、息子が見ても美しかった。「父上」息だけで鵲は呼びかけた。「幸彦様のお側を離れていて、大丈夫なのですか」「幸彦様も、この屋敷にいらっしゃる」村の封印後に備えて”外”では様々な対処が講じられていた。『火消し』と”盾”の本拠地であるビルの改装もその一つであった。幸彦の住居部分も例外ではない。その間、幸彦は竹生の屋敷への滞在を希望した。精神的にも肉体的にも不安定な息子の真彦の側にいてやりたかったのである。古本屋のビルは白神に任せ、三峰も屋敷へ伴う事を決めたのも幸彦であった。「私も、早くお役目に復帰せねば」「あせるな。私が良いと思うまで、お役目には戻さぬ」「しかし」「お前は、二月も意識がなかったのだぞ」鵲は驚いた。それほどの長い時間が経ったという自覚はなかった。反逆の術師達の住処から意識不明のまま助け出された鵲は、病院に運ばれた。術の影響から回復し目覚めも近いとの判断で、屋敷の自室に戻されたのは三日前の事であった。それも幸彦の計らいのひとつであった。自分も息子との関係に心を痛めていた幸彦は、三峰と鵲の不和の解消を願っていたのである。三峰は幸彦の心遣いに感謝していた。「私のいない間に、何があったのですか？私の部下達は？」半ば身体を起こしかけた鵲を、三峰は優しく制した。「あせるなと言っておろう。鳥船も高望も、抜かりなく真彦様をお守りしている。お前の意識が戻った事は伝えてある。二人とも喜んでいたぞ」安堵して鵲は再び身体を横たえた。「まずは話を聞け。真彦様のお側に戻る前に、注意すべき事がある」鵲は父の顔を見た。薄明かりに仄白く光る顔は、今は父ではなく白き守護者の顔となっていた。「真彦様には、春日根にさらわれた記憶がない。柚木にもだ」佐原の村の土地とのつながりの深い柚木は、村の封印の際に影響を受けて再び風の力を暴走させる事を危惧され、封印の日の前後は眠らされていたのである。柚木が春日根の件を知らぬのは当然の事ではあった。「何故、真彦様が？」「幸彦様の処置だ。今の真彦様では耐え切れぬからだ」三峰の視線が、部屋の隅の箪笥に当てられた。「雪白（ゆきしろ）はどうした」三峰の”人でない”感覚が、名刀がそこにない事を感じとったのである。「桜子に預けました」「何だと」「風の家の長としてふさわしい男が現われたら渡せと。私にその資格はないと思って」妻のある身の三峰は、鵲の思い違いにすぐに気付いた。「桜子は、そうは思っておらぬ。おそらく、お前との将来の約束の印と受け取ったに違いない」「そんな」「お前は、女心を知らぬ」鵲の頬が赤くなった。「私にそんな暇はありませんでした」三峰は軽く首を振った。「これから話す事は、桜子にも関係があるのだ」三峰がぽつりと言った。「高遠が、自ら命を絶った」高遠は佐原の村の長であり、桜子の父親である。鵲は起き上がった。これ以上は寝ていられなかった。「一体、何があったのですか？」（つづく）

  2011/02/05

• 紅き涙は朝に消ゆ(8) 罪人の子 その2

  「かすてら、美味いな」干瀬は床に座り込み、ふっくらと焼けたカステラの一片を、嬉しそうに食っていた。三峰は湯のみを手にしていた。焙じたばかりの茶の香ばしさがあたりに漂っていた。鵲（かささぎ）は横になったままであった。鵲の胃は、まだ何も受け付けそうになかった。「津代殿が、鵲には後で粥を持って来ると言っていたぞ」「津代は、干瀬殿が見えるのか？」「殿などいらん、お前でいい。ワシとお前は友達だ、言い直せ」「津代は、お前が見えるのか？」干瀬は鵲を見てにっこりと笑った。「うむ、見える」鵲は尋ねた。「お前の姿が見える者は、多いのか？」干瀬は自分の分を食べ終えて、三峰の前の小卓にある皿に見ていた。三峰が頷くとうれしそうに手を伸ばした。青い腕が伸びて、三峰の前の皿のカステラを掴み、元の長さに戻った。カステラを確保すると、安心したように、干瀬は鵲の問いに答えた。「”人でない”者には見える。奥座敷で生まれた者は、斤量がワシらを見る目を与えるから見える。柚木のようにな。百合枝も見える。ワシらの存在を信じる者は、やがて見えるようになる」「私は、どれにも当てはまらない」干瀬はカステラを掲げて透かすように見ていた。無心に遊ぶ子供の様な顔をしていた。「お前の心が、ワシを呼んだ」「私の？」「心が紅い血を流して叫んでた。ワシは可愛そうでならなかった。守ってやりたくなった」眩暈を感じ、鵲は目を閉じた。「私の心が・・何を・・・」三峰は息子を複雑なまなざしで見ていた。干瀬はカステラの端を齧り取って飲み込んだ。「生まれた時から、罪人の子と呼ばれた。お前に罪はないのに傷つけられた。誰にも言えぬ痛みに心が叫んでた。ワシには聞こえた。お前は守ってやりたくて、お前にいつも呼びかけた、いつかお前にワシの声が届くと」干瀬は三峰を見た。「三峰、自分を責めるな。お前は保名（やすな）を愛し鵲が生まれた。それは悪くない。お前は多くを背負い、多くを果たさねばならなかった」三峰は何も言わなかった。干瀬の声は深い水の底から聞こえて来る様であった。耳元でにじみ広がり、ゆるやかに語り掛けてくる。「鵲よ、ワシから見れば、お前が生まれて今日までは、ほんの一時（いっとき）の事、これから先の方が長いのだ。お前の痛み、これからは癒してやれるぞ。お前は一人ではない。何よりお前の父がお前の側にいるしな。お前を慕う者も多い」鵲は深く息をした。目を閉じて横たわっていると、風凪ぐ海原を漂う船になった様な気がした。ゆったりと身体が解放され、どこまでも水とひとつになっていき、暖かい大きな広がりの一部に、自分がなった気がしていた。干瀬の声が遠くから聞こえていた。「お前に罪はない。悲しみは置いて行け。これから来る苦しみもあるが、喜びもある。忘れるな、お前には差し伸べられる手がある」鵲の安らかな寝息の聞きながら、三峰は言った。「礼をいう、干瀬」「ワシがしたくてした事。術に痛めつけられた身体だ、まだ癒えてはおらぬ」「いや、そうではない。父として至らぬ私を助けてくれた」干瀬は微笑した。その顔の元の持ち主と同じ無垢な笑みだった。「さっきも言ったぞ、自分を責めるな。これから与えてやれ、注いでやれ、父の情を」「そうするつもりだ」「大事にしてくれ、ワシの”友達”だ」（つづく）

  2011/02/04

• 紅き涙は朝に消ゆ(8) 罪人の子 その1

  息子の鵲（かささぎ）を、三峰は優しいまなざしで見た。「疲れたのではないか」「いえ、どうかその先をお聞かせ下さい」鵲は寝台の上に起こした半身を壁と枕で支えていた。声に変わりはなかったが、顔色が少し蒼ざめていた。三峰が気付かぬはずはない。「横になるが良い。お前は、まだ本調子ではない」「ですが、父上の前で、これ以上の無作法は」三峰は微笑した。いつもよりも、悪戯っぽい笑みだった。三峰は、おどけた口調で言った。「少しは私に、父親らしい楽しみを与えてくれないか。息子にいう事をきかせる父親のな」めったに見た事のない父の人間臭い顔や言葉が、鵲の胸を打った。自分を息子として愛すると言った父の言葉に嘘がない事を、鵲はあらためて感じた。「では、お言葉通りに」「よしよし」子供をあやす様に言いながら、三峰は鵲が横になるのに手を貸した。毛布も具合良く直してやった。鵲は再び自室の天井を見た。先程とは比べ物にならぬ程に、晴れやかな心地となっていた。（”外”に出て、初めてやも知れぬ。父上のお側にお仕え出来ると知ったからか）若い鵲の羞恥は、彼を素直にしなかった。だが鵲はすぐに無理はやめた。（父上が、ずっとお側にいて下さるせいだ）三峰は部屋の片隅の流しの方へ歩いて行った。「喉が乾いたな」「上の棚に、煎茶なら」突如、鵲の耳元で声がした。「ワシが、何か台所で貰って来ようか？」驚いた鵲を、青い顔が覗き込んでいた。青い肌でなければ朔也そっくりの顔に、満面の笑みが浮かんだ。「やあ、とうとうワシの声が、お前にも届いたか」干瀬（ひせ）はぴょんぴょんと飛び跳ねた。まだ目を丸くしたまま、鵲は問いかけた。「貴方は、干瀬・・様？」「干瀬でいい、柚木もそう呼ぶぞ」「しかし、異界の守護者たる方に」干瀬は、ひょいと鵲の上に飛び上がった。腹の上に座り込まれても、鵲はまったく重さは感じなかった。「ワシはずっと側にいたぞ。ずっとお前を守ってやりたくてな。これでお前を守れる」干瀬は、鵲の腹の上でぽんぽんと跳ねた。「干瀬と呼べ。”様”など付けるなよ。人の言葉で何といったかな・・そうだ、”他人行儀”は止せ」三峰が笑って声をかけた。「本当に、お前は妙な言葉ばかり覚えるな」干瀬は三峰を見てにやりとすると、宙で一回転して鵲の腹の上に着地した。勿論鵲は何の衝撃も受けなかった。「お前は、柚木と真彦の兄として、懸命だった。何なら、ワシがお前の兄になっても良いぞ。兄とは年上の者の事であろう？ワシは、ここの誰よりも年上だ。佐原の村が出来る前の前から、生きとるからな」干瀬は鵲の顔を覗き込んだ。「どうだ」鵲は何と答えて良いか解らなかった。干瀬は、鵲が黙っていても、あまり気にする様子はなかった。ぽんぽんと布団の端を叩いて、干瀬は言った。「まずは友達から、と言うらしいな。人の慣わしでは」何か違うと思いながら、鵲は頷いた。「では、ワシらは”友達”だ。これから仲良くやろう、時間はたんとあるからな」干瀬は床に飛び降りると、三峰の方へと跳ねて行った。「茶菓子を取って来る、ワシの分も」「よろしく頼む」干瀬の姿は煙の如く消え去った。困惑気味の息子を見ながら、三峰は言った。「良かったな、新しい”友達”が増えて」（つづく）

  2011/02/02

• 紅き涙は朝に消ゆ(7) 黄昏に願う者 その3

  竹生は二人の枕元に立っていた。動かぬ身体、声にならぬ声で、二人はあるじに己の無様さを必死で詫びた。閉ざされた部屋に、天の楽器もかくやと思う声が響いた。「嘆くな、お前達が力尽くした事は解っている」二人の乱れた息遣いの中に、安堵の気配がした。「だが、これは二度とあってはならぬ事。私はお前達に償いを求めねばならぬ」屋敷の執事たる痩身の男、桐原の口から掠れた声がした。「我が命・・あなたに・・・」庭師の伴野も、動かぬ口で必死に訴えた。「わたくしも・・とわに・・」竹生は無表情のままであった。竹生は形の良い薄赤い唇を開き、己が中指を近づけた。唇の間に白き牙が閃き、中指の先に鮮血が朱のしたたりをみせた。竹生はその指先で、まずは桐原の唇に触れた。竹生の血が桐原の乾いた唇を濡らした。桐原は舌先で赤きしたたりを舐めとった。甘露とはこの事かと桐原は思った。桐原は恍惚と目を閉じた。たちまちに彼の身体に力が漲る気がした。竹生は伴野の唇にも同じ事をした。伴野にも同じ事が起きた。竹生は二人に尋ねた。「昼の苦痛、夜の渇き、永久に繰り返される。それでもと？」桐原も伴野も、今度ははっきりとした声で言った。「我が忠誠を永遠に竹生様に、お屋敷を守るを我が永遠の使命として」「私も永遠の忠誠を竹生様に、お屋敷の庭を守る番人として」「良かろう」竹生は頷いた。墨よりも黒く深い真の闇が、病室を覆い尽くした。病室の監視のモニターには何も映ってはいなかった。入り口で見張っていたはずの者達の、その間の記憶も消えていた。何が起きたのか知っているのは、闇だけであった。次の日には、桐原も伴野も屋敷へと戻った。驚異的な快復の裏に何があったのか、誰も問いただす事はしなかった。誰もが聞かずとも感じていたからである。彼等二人もまた、自分達と異なる道を歩み始めてしまった事を。津代は、大喜びで二人を迎えた。「お加減はよろしいのですか、桐原さん。あんなに血を流しておられたのに」桐原はいつもの穏やかな様子で答えた。「思ったより傷が浅くて、命拾い致しました」伴野はさっさと自分の小屋へと引き上げて行った。二人の身体を昼間の激痛が蝕んでいたが、彼等の矜持に付けられた傷の痛みに比べれば、我慢出来ぬものではなかった。（二度と、同じ事は）二人はすぐに対策に着手した。「干瀬様、斤量様、今日もお供えしておきますね」津代はそこに干瀬がいるとは知らず、毎日の習慣となったお供え用に、大きな徳利に入れた酒と山盛りの握り飯の皿を、台所の片隅の戸棚の上に注意深く置いた。干瀬はさっそく握り飯に手を伸ばした。「柚木（ゆずき）が戻って来たら、他の美味い物も供えてくれるように頼んでみるか」干瀬は両手に持った握り飯を満足げに頬張った。戸棚に背を向けて、流しで洗い物を始めた津代が、それに気付く事はなかった。（つづく）

  2011/02/01

• 紅き涙は朝に消ゆ(7) 黄昏に願う者 その2

  竹生（たけお）の屋敷の三階に、窓のない部屋があった。四方を部屋に囲まれていた。竹生の寝所である。灯火がなくとも部屋の主には問題はなかった。竹生の目は闇の中でもすべてを見る事が出来た。部屋の中央に大きな寝台がある。枕も敷布も布団も天蓋の房さえも、すべて闇の如く黒く染められた極上の絹から成っていた。寝台には一人の青年が安らかに眠りについていた。すでに半月も目覚めていない。竹生は長身をかがめ、朔也の顔を覗き込んだ。さらさらと白い髪が青年の頬に触れた。天井から野太い声がした。「誰も、ここには気付かぬままに」斤量の声であった。竹生は朔也の顔を見たまま問いかけた。「まだそれほどに、これの眠りは深いのか？」「深い」「”仕掛け”の不調はこのせいか？」「いや、術の力を感じた」「佐原の術師が、『奴等』に寝返ったというのか？」「寝返ったか操られたか、定かではない」竹生が面をあげると清冽な風が吹いた。竹生の白い髪がゆらめき宙に流れた。「出かけて来る」「津代殿が、酒と握り飯を用意してくれた。干瀬と二人で屋敷を守ろう」「津代が？」「見えずとも、信じる者には我らの力が及ぶ」「成程。津代が無事であったのは、そのせいか」「干瀬のつまみ食いが功を奏したとは、皮肉なれど」竹生は眠る朔也と瓜二つの青い顔を思い浮かべた。微かな笑みが口元をよぎった。美しき黒衣の影は、夜の空を翔けて行った。「今宵の事、二度はない」”盾”の息のかかった病院の特別病棟は、以前にも増して厳重な警戒がなされていた。だがこの長身の黒衣の者を引き止める者はいなかった。目の前を過ぎ行くのは”伝説”であると、警備に当たる者達は皆知っていた。”盾”始まって以来の最高の盾、そして最初の”人でない”者。その歩みを止めようと思うはずはなく、何よりも神の美貌を見た者は、すべての思考を奪われてしまう。白く端正な横顔に純白の髪が背に流れ、黒衣に包まれたすらりと伸びた長身が優雅に過ぎて行く。我に返った時には、その姿はそこになく、ただ青く甘い香りだけが微かに、遠い面影の記憶の如く残っているだけであった。特別病棟の奥に、その部屋はあった。常夜灯のみが室内を照らしていた。白い寝台が狭い部屋に並んで置かれ、様々な太さの管や線に繋がれた男が二人、横たわっていた。どちらも初老の男であった。どちらも重傷であった。一人は痩身に包帯を巻かれていても人品卑しからぬ風情がしていた。もう一人は頑強な身体付きが肉体を駆使する者のあかしと見えた。竹生が入って来ると、二人は同時に目を開けた。彼らはあるじの到来を、肌で感じたのである。（つづく）

  2011/01/31

• 紅き涙は朝に消ゆ(7) 黄昏に願う者 その1

  竹生の唇は、赤く染まっていた。食事が済むと”獲物”はすぐに飛散した。『奴等』はこの世界に痕跡を残すのを嫌う。”異人”の遺体は残らない。最期の命を竹生に捧げ、すべては消え去るのだ。竹生は夜空を見上げた。欠けた月が、白き美貌を照らし、風になびく長い髪に真珠色の鱗粉を散らした。左手の愛刀「神星」には微塵の曇りも無く、黒い外套の裾が軽やかに翻った。「何を観ている」空を見上げたまま、夜の物憂さを秘めた声が言った。物陰の闇の中で人らしき影が縮み上がった。「ご報告を」「何だ」「真彦様はご無事です」「私が、知らぬと思うか？」物憂げなその声に何も変化はなかった。だが影は更に縮み上がった。「いえ」竹生はゆっくりと声のする方を見た。青き魔性の瞳が闇の中の影に当てられた。「屋敷に戻る」答えたはずの言葉は声にならず、全身の震えを抑え切れぬままに、影はひれ伏した。春日根（かすがね）の身体は、”盾”の息のかかった病院に保管されていたはずであった。どのように運び出され、”異人”照柿（てるがき）に使われたのか、今はそれは問題ではなかった。自分の留守中に屋敷を荒らされた事、それが竹生には不愉快であった。（『奴等』も、我らを良く々々見ているという事だな）風と共に、ふわりと己の屋敷の庭先に降り立った竹生は、静まり返った屋敷の気配に眉をひそめた。『奴等』を足止めするはずの”仕掛け”が止まっていた。だがその中で唯一、百合枝の部屋の緑の窓だけが『奴等』を寄せつけぬ力を保っていた。竹生は屋根に翔んだ。上から周囲の気配を探った。屋敷にも庭にも、悪しき気配はなかった。屋敷の中には人がいた。裏庭へ降りると、台所に続く戸口から、竹生は中に入った。台所には津代がいた。放心したかの如く、厚い木製の食卓の椅子のひとつに座り込んでいた。傍らに青い異界の者がいた。干瀬（ひせ）である。入って来た竹生の艶やかな美影が、老女を恐怖と心細さから解放した。津代は慌てて椅子から立ち上がった。「竹生様、お帰りなさいまし」干瀬がいたわるように津代の肩に手を置いた。だが津代は気付いていなかった。青い異界の者は言った。「上には斤量（きんりょう）がいる、ここにはワシがいる。今は誰も入れない」その声も津代には聞こえていない。竹生は干瀬に頷き、津代に言った。「怖かったであろう、お前が無事で良かった」普段の竹生なら口にせぬ、暖かいねぎらいの言葉に、津代の目から涙が溢れ出した。「そんな、もったいない」エプロンで顔を覆い、津代は泣き出した。津代は泣きながら訴えた。「桐原さんが、伴野さんが・・み、皆さんが・・・」「桐原と伴野は、”びょういん”だ」干瀬が言った。「津代、安心するが良い。お前はゆっくり休め」そう言い置くと、竹生は屋敷の奥へと歩み去って行った。津代は顔をエプロンで覆ったまま、何度も頭を下げた。（つづく）

  2011/01/30

• 紅き涙は朝に消ゆ(6) 謝罪と贖罪と断罪と その3

  封印の術の決行は、予定通りに行われた。だが起きてはならない事が起きた。真彦が誘拐されたのである。それも消えたはずの春日根に。知らせを受けた朱雀は、すぐに動いた。柚木は摩天楼に居て無事だった。竹生の屋敷の護衛の任に着いていた”盾”達は全滅したが、執事の桐原と庭師の伴野は命を取り留めた。「竹生様のご不在の時と狙うとはな」朱雀には、真彦を誘拐した者達の行き先の見当がついていた。封印の阻止が目的ならば、必ず『奴等』は村へと向かう。群青の家には手出しは出来ない。『奴等』には”壁”は越えられない。儀式の為に、群青の家では普段よりも念入りに、周囲に”壁”を廻らしている。狙うとすれば、封印の儀式が完成する前の結界の破れそうな場所である。朱雀と警備部の者達は佐原の村へと向かった。そして激闘の後に真彦を取り戻し、地獄と化した元の村であった場所の後始末に奔走した。封印の術が行われているのとは別の場所で、百合枝の治療も行われていた。それは長く、数日の内が瞬く間には過ぎ去り、百合枝の意識が戻るまでには、更に長い時間を要した。その間に村の内外では多くの事が起き、多くの悲劇が過ぎていった。赤子の紫苑は母の不在が長くなっても、良く眠り食欲もあり、機嫌も安定していた。「さすが、あのお二方の御子。度胸がおありになる」群青の家の者達は、早くも大器の片鱗を見せている赤子に驚嘆した。百合枝は、誰かに呼ばれた気がした。深く豊かな声であった。父に呼ばれたのかと思った。父はいつも優しい声で百合枝を呼んだ。父が声を荒げたのを、百合枝は一度も聞いた事がなかった。母も優しい人だった。二人揃って事故で亡くなったと聞かされた時、百合枝は真っ先に父の優しい声を思い出していた。そしていつもその傍らで微笑んでいた母の姿を。（百合枝・・）父であるはずはなかった。あれから祖父と共に、緑の窓のある屋敷で暮らし、祖父亡き後は一人で暮らした。（そして・・私は、朱雀と出会った）赤い髪と魅惑の笑顔の大会社の社長。どんな事でも思い通りになりそうなのに、寂しい横顔を持つ人。朱雀はいつも百合枝を助けてくれた。『奴等』に襲われた時でも、どんな時でも。すれ違いや諍いもあった。けれども最後には、二人の心は通い合い・・・（私は・・朱雀と結ばれて、紫苑を授かった）深い豊かな声がした。百合枝の名を呼んでいた。今度こそ百合枝は確信した。その声が、誰であるか。愛しいその名を百合枝は呼んだ。呼びながら、彼の方へと手を伸ばした。「すざく・・・」目を開けると、朱雀の顔がそこにあった。いつもの微笑がそこにあった。朱雀は百合枝の伸ばした手を掴み、温かく大きな手で握り返してくれた。「気がついたかね」百合枝も微笑み、頷いた。そして気がついた。「・・・私、手が？」百合枝と朱雀は、互いの右手と左手を握り合っていた。「そうだ、キミの手と腕は戻って来た」朱雀は隠さなかった。「足までは、無理だった」枕の上で、百合枝は首を振った。「いいの。こうして又、貴方と手を取り合えただけでも」朱雀はもう一度、手を力強く握ると言った。「起き上がれそうかね？」「やってみるわ」朱雀は百合枝の身体に手を回し、ゆっくりと半身を起こさせた。「気分はどうかね」「大丈夫」背後の壁に枕を添えて、朱雀は百合枝を寄りかからせた。みのりが紫苑を抱いて側に来た。紫苑は大人しかった。母を見て嬉しそうに笑った。紫苑はみのりの手から母の手に渡された。紫苑は母の胸に甘えた。「紫苑」百合枝はしっかりと我が子を抱きしめた。百合枝の目から涙があふれた。「紫苑、紫苑・・」我が子の名を何度も呼びながら、百合枝は泣き続けた。それは喜びの涙であった。（つづく）

  2011/01/28

• 紅き涙は朝に消ゆ(6) 謝罪と贖罪と断罪と その2

  畳の上に臙脂色の絨毯を敷き詰め、洋間の作りにしてある奥の間は、詰物をした表面の刺繍の金糸が色褪せたのが良い風情になった長椅子と肘掛椅子と黒檀の低いテーブルがあった。襖の金具や欄間の細工の見事さにも昔の職人の技が偲ばれた。「キミのような貴婦人に、ふさわしい部屋だ。雪火様に感謝せねば」朱雀はそっと百合枝を長椅子に下ろし、自分も傍らに腰を下ろした。そして百合枝の肩を抱き寄せた。百合枝は朱雀の胸にもたれ掛かった。「キミへの説明が遅れた事は、済まないと思っている」「必要な時には話してくれると、思っていたわ」朱雀の指が、百合枝の肩先に触れた。そこには本来あるはずの腕はなかった。「ここへ連れて来たのは、キミの治療の為なのだよ」朱雀の腕の中で、百合枝の身体が大きく動いた。百合枝は朱雀の顔を見上げた。朱雀の目は穏やかで何もかも受け止める深い色のままであった。「私の・・治療？」「そうだ、キミの失われた両腕、動かなくなくなった両足。何処まで元通りになるか、それは解らない。だが今回の計画で生じる特殊な空間の中でなら、可能な治療法がある」「今回の？」「村の再度の封印だ。我らの敵から、我らのかけがえのない村を守る為に」計画には、村の機能の正常化も含まれていた。一部の村人の不満は鬱積されて、取り返しのつかない所まで来ていた。大鉈を振るう決断が必要であった。それも秘密裏に。限られた者以外にはその計画は明かされなかった。最小限の人数で、事は運ばれた。計画の露見を防ぐ為に、朱雀は百合枝にも何も告げられなかった。百合枝の治療が計画の中心ではなく、副産物である事もあった。聡い百合枝は朱雀の心情を理解出来た。彼の背負っている重荷をいつも感じていたからでもある。百合枝は、わざと明るく言った。「紫苑を抱きしめてあげられる様になるのね」朱雀の顔は、真剣なままだった。「危険かどうかは、聞かないのかね？」「危険でも、可能性があるなら」「キミは時々、驚くほどに勇敢だな」「それに、私を治したいという想いを感じたから」朱雀はあえて誰のかとは聞かなかった。純也の想いを感じたのか、それとも自分を含めた周囲の人々の想いなのか。今はあえて自分が知る必要はないと思った。今は百合枝の意志が治療に前向きである事が何よりも重要であった。「あくまでも、可能性だという事は、言っておく」「何もないよりは、良いわ」朱雀は、百合枝の気掛かりのひとつに先回りした。「もし、キミがすべてを取り戻したとしても、千条にはキミの側にいてもらう」朱雀の”人でない”感覚が、千条の乱れた息遣いを感じ取った。「キミは今でも、我らの敵に狙われている。そして紫苑も私の子だ。恰好な『奴等』の標的となる。千条が二人を守ってくれないと、私は安心して仕事が出来ないからね」「貴方は、これからもずっと忙しいのね」「良い夫でなくて済まない」「いいえ、貴方ほど良い夫はいないわ」「ありがとう」夫婦は互いに微笑み合った。朱雀は、もうひとつの気掛かりについても語った。「紫苑は、私の血を継いでいる。これからどう成長するか、誰にも解らない。前例がないからね」”人でない”者の子供。すでに紫苑の身体能力は、同時期の赤子の数値を遙かに超えていた。この先、普通の子守では紫苑の世話が務まらないのは、目に見えていた。「千条には、居てもらわないと困るのだよ」百合枝は微笑した。「私も、心強いわ」朱雀は、母屋に居る千条の、安堵の溜息を感じた。（つづく）

  2011/01/27

• 紅き涙は朝に消ゆ(6) 謝罪と贖罪と断罪と その1

  群青の家は、広大な敷地に点在する建物を、渡り廊下が繋ぐ造りとなっていた。歴史と格式を感じさせる純和風の屋敷と庭の景観は、洋館で生まれ育った百合枝を喜ばせた。幾つかの部屋のある離れのひとつが、百合枝の滞在場所になっていた。外見は古くとも、最新式に手を入れられた設備は快適で、百合枝は何ひとつ不自由する事なく過ごしていた。元より千条は常に側につき従い、息子の紫苑の世話係としてみのりもいる。群青の家の当主の孫である蘭火も赤子の紫苑を可愛がり、百合枝にも尽くしてくれる。佐原の村の長の桜子も、家事見習いとして竹生の屋敷へ行く事が決まっており、まずは百合枝の側で”外”のやり方を学ぶ為にと、群青の家に滞在していた。広い縁側に置かれた籐椅子に寛ぎ、百合枝が手入れの行き届いた庭を眺めていると、朱雀が部屋に入って来た。鄙びた田舎にあっても、いつも通り一部の隙もない洒落た背広姿である。朱雀は百合枝の傍らに跪いた。「愛する妻の顔を見に来たよ」百合枝は微笑した。「愛する息子の顔もでしょう？」「見るだけは、つまらん」「それは、私の事？紫苑の事？」「両方だ」朱雀は百合枝の頬に軽く口付けした。朱雀は部屋を見渡した。白く透ける紗の覆いをかけた籐の揺り篭は空だった。「私達の王子は、何処へ行ったのかね？」「みのりが、庭に。少しはお日様にあててあげないとね。蘭火さんが案内を」「千条はどうした。キミを一人にしておくとは、困った奴だな」百合枝は、朱雀が冗談で言っているのを知っていた。”人でない”千条は、この屋敷の何処に居ても、百合枝に何かあれば察知出来る。今の朱雀の言葉も聴こえているはずである。それに込められた自分への信頼と親しみも。朱雀もそれを解っていて、あえて言っているのだ。「ここの暮らしはどうかね？」「老舗の旅館にいるみたい。お風呂も温泉なのね」「正真正銘のかけ流しだ。雪火（せっか）様のおっしゃるには、数百年前に沸いた頃から湯量は変わらぬそうだ」「雪火様なら、本当に知っていそうね」朱雀は片方の眉を上げた。「少なくとも、この付近の誰よりも、お歳を召しておられるからね」百合枝は真面目な顔になり、朱雀に向き合った。薄紅色の厚手の肩掛けに覆われた身体の中に、ある決意を朱雀は感じた。「ねえ、貴方」「何だね」「私をここへ連れて来た本当の理由を、そろそろ教えて下さらない？」朱雀は庭を見やった。「日が翳って来たな」朱雀は逞しい腕で百合枝を籐椅子から抱き上げた。「奥で話そう」（つづく）

  2011/01/25

• 紅き涙は朝に消ゆ(5) 落日の村 その3

  すべては、一晩の出来事であった。結界に覆われた村の中で、意識を保っていたのは、”人でない”寒露只一人であった。後の者達は事が終わるまで目覚める事がない。時のはざまのこの場所に、すべてが固定し終わるまで。寒露は村の中を見て回っていた。境界となった村の大通りより先には、無限の空間が白く濁った霧状にうごめき、所々が虹色に変化していた。寒露の感覚を持ってしても、今はその先にある物は感知する事は不可能だった。解っているのは、今の所、術が正常に進行している事だけであった。霧の家の長の息子である寒露には、術師達の手順を正確に把握する事が出来た。（大通りの向こうの半分は、別の結界で覆われているはずだ。露の家の者達に抜かりがなければ、村を売ろうとした奴らの意識は、まだ昨日で止まったままのはず）風の家の顔役達の傲慢と横暴ぶりに、霧の家と露の家の顔役達が心から従うはずはなかった。彼ら二つの家の顔役の数名が重要な役柄を演じる事となった。かつて”異人”が村人に仕掛けた罠で忍野を抹殺した、その方法を応用したのである。朱雀の命を受けた”風穴”が村の混乱の要因を探り出し、到達したのが今回の方法であった。村の未来を守りたい者と、私利私欲のみに動く者の仕分けには、綿密な計画が必要であった。『奴等』との今後の戦いの為に、村の伝統を絶やす事を良しとしなかった者達は、高遠の側に着いた。彼等は今、寒露の後ろで眠っている。村の財産を”外”での金儲けに役立てようとした者達は、風の家の顔役の側に着いた。彼等は今、大通りの霧の向こう側に居るはずであった。不意に、異様な気配が、寒露の”人でない”感覚を刺激した。（・・・これは？）”外”との境界を完全に失った村の半分に何が起きたのか、寒露は察知した。厚き次元の壁を越えても伝わる程の殺意と狂気と血の匂いが、寒露の全身に悪寒を走らせた。寒露は集中した。多くの気配の殆どが、『奴等』に心を奪われた村人が変化した悪鬼の物であった。欲に取り付かれた心は、それだけ『奴等』に付け込まれ易かったのだろう。その中でひとつだけ、ゆるぎなき大きな意志を感じた。（朱雀殿、貴方か）『奴等』の手先に成り下がった元の村人達に蹂躙された村で、朱雀は一人戦っている。手助けに行きたいが、今の寒露の役目は、すべてが終わるまで、こちら側の村を守る事である。寒露は朱雀の戦いの意味を知っていた。元は家族であり血族であり、共に学んだ友であった者達が、身を堕とした悪鬼を斬るのは、如何に訓練を受けた”盾”であっても辛い事である。他の盾にその辛さを味わわせない為に、朱雀は只一人、修羅の道を進んでいるのだ。その事が、朱雀という人物を知る寒露には解った。寒露は心の中で、朱雀の健闘を祈った。周囲が明るくなった。空が水色を取り戻し、山々の木々の緑が冴え冴えとした色を浮かび上がらせていた。寒露は術の成功を確信した。（そろそろ、人々の意識も戻って来るだろう）寒露は大通りの向こう側の霧の中にも、光が増して来たのを見届けた。（浄化が済めば、この向こうもこちら側に引き寄せられる。村はまたひとつになる。そして再び閉ざされた営みの中で、長い年月を送るのだ。昔と同じように・・いや、昔通りにはとても無理だろう。我らは多くを失ってしまった。俺が白露を、俺の双子の兄、俺の半身を失ったように）寒露は背後に気配を感じた。まだ遠いが、目覚めた村人らしき影を寒露は認めた。その小さな影が誰か、寒露にはすぐに解った。寒露はその”速さ”で走った。小さな影は女だった。寒露は女の前で立ち止まると、その肩に優しく手をかけた。「俺を探しに来たのか、珊瑚」口の聞けぬ珊瑚は、寒露を見上げると微笑して頷いた。「他の者は、まだ眠っているのか？」再び珊瑚は頷いた。そして自分の腹に手を当てた。そこには寒露の子が宿っていた。「どうやら俺の子は早起きで、お前も起こしてしまった様だな」寒露は珊瑚を抱き上げた。「戻ろう、そろそろ親父様もお目覚めになる。熱い茶でも焙じてやってくれ」珊瑚は寒露の首に腕を巻きつけると、寒露の胸に頬を擦り付けた。珊瑚の身体の温かく柔らかい感触が、寒露の胸に明るい火を点した。（悪い事ばかりとも限らない。きっと・・そうだろ？白露）珊瑚を抱いたまま、寒露は大通りをその”速さ”で駆け抜け、我が家たる霧の家の屋敷へと戻って行った。（つづく）

  2011/01/24

• 紅き涙は朝に消ゆ(5) 落日の村 その2

  『奴等』に心奪われて”異人”鞍人となった純也（じゅんや）が、幸彦の浄化で正気に戻った後に願ったのは、かつて己が両腕を切り落とし、両足の自由さえも奪った百合枝の治療であった。それは村の封印の儀式の際に生じる空間でのみ可能な術式であった。封印の儀式の人柱となる条件として、彼はその治療の実行を懇願した。父親の杵人（きねと）も共に人柱に願い出た。杵人も不幸な男であった。露の家の秀才として将来を嘱望されていたにもかかわらず、その秀でた資質ゆえに当主の妹の相手にと選ばれて、佐原の家の血を絶やさぬ為と、種馬同様の扱いを受けた。跡継ぎのさゆら子（幸彦の母親）を得た後は、用済みとして村から放逐された。放浪の果てに得た二人の子供、純也と舞矢（まいや）もまた佐原の村の宿命から逃れられず、『奴等』の餌食となった。子供二人が”異人”となり、村に多大な損害を与えた。杵人の知らぬ間の事とはいえ、我が子達が故郷を蹂躙した事に対する杵人の傷心は深かった。佐原の家の仕打ちを恨みこそすれ、故郷の村そのものへの恨みはなかったのである。老いた身を竹生の慈悲に救われ、竹生の屋敷で過ごした日々が、ようやく訪れた杵人の平穏であった。そして、再度の封印の儀式の話が持ち上がった。術の力の源となるのは人の命である。それゆえに禁術であった。前回は、土地の力が術の力の源として機能した。だが土地の力から見放された今の佐原の村には、その選択肢はなかった。人柱となる申し出を純也がしなければ、再度の村の封印の話自体が進まなかったであろう。純也の本心はむしろその副産物である百合枝の治療の方にあったが、それは当事者だけの問題であった。杵人は元は術師である。人柱が純也一人だけでは危うい事を知っていた。子の罪を父の罪として、共に逝く道を選んだ。これまでの温情に感謝しつつ、竹生にその決意を告げると、竹生はただ「当人の意思を尊重する」とだけ答えた。竹生はすべて見通していた。純也は、百合枝への直接の対面は望まなかった。優しい百合枝が人の命を犠牲にする行いに同意するはずはない。朱雀にもそれは解っていた。もはや口を開く事もかなわぬ重傷の身を、術の行われる地下室に横たえたまま、純也は幸彦の夢の力を通して、朱雀に語りかけた。（貴方にも、辛い思いを・・）「いや、良いのだ。すべては『奴等』の仕組んだ事だ」朱雀は純也の褥の傍らに立ち、白い布で覆われた純也を見下ろしていた。純也と並んで、杵人も同じ様に横たわっていた。すでに眠りの術がかけられ、杵人は安らかな寝顔を見せていた。「キミこそ、恨んでも良いはずだ。妹を手にかけた私を」（狂った愛や執着が・・妹を滅ぼした。そう思ってます）「そう思ってくれるのか」（人の気持ちは、そんなに簡単には操れないと・・今なら解ります。貴方のような強靭な心を持つ人なら、尚更。妹は間違っていた）「私は、そんなに強くはないよ」（百合枝さんには、幾ら謝っても足りない・・今度も、完全に元に戻る保証はない。それでも・・・わた・・・）純也の意識が途切れた。術用の白衣に身を包んだ一人の術師が、朱雀の側にやって来て頭を下げた。「お時間で御座います」朱雀は頷くと、部屋を出て行った。（つづく）

  2011/01/14

• 紅き涙は朝に消ゆ(5) 落日の村 その1

  再度の封印は以前とは異なっていた。佐原の血には反応しなくなったのだ。それは鞍人（くらうど）の事件の反省を取り入れたものであった。佐原の血を引く者であっても越えられない結界が、今や周囲を取り巻いていた。封印された村と”外”を行き来出来る者は”人でない”者に限られた。土地の力に断罪されなかった者達である。封印の前に、密かに幾つかの物事が動いていた。主に”外のお役目”の長である朱雀を中心に、村のすぐ隣に位置する群青の家において行われていた。群青の家はこの周辺の『奴等』の領域とこの世界を隔てる”壁”を管理する家であった。群青の家の長の雪火（せっか）は陽気な老婆だった。因習の強い中にあって、家伝の技と役目を守りつつも時代の流れにも敏感であった。それゆえに群青の家の者達は”外”に適度に触れており、佐原の村人の如く過剰な反応はしなかった。村の封印の直前に、朱雀は妻の百合枝を群青の家に連れて来ていた。息子の紫苑（しおん）も子守のみのりも一緒であった。封印と並行して行われる秘儀は、純也（じゅんや）と杵人（きねと）親子の希望であった。彼等の百合枝への謝罪である。賛否はあったが、当人達の希望が聞き入れられた。百合枝にはまだ伝えられていなかった。雪火の孫娘の蘭火（らんか）は、幼子の紫苑と百合枝母子の世話を良くした。その様子を見て、朱雀は安堵し、己の役目に没頭した。会社と村とを往復しながら、各方面との連絡を密にして事態の進行を図っていた。蘭火は朱雀の秘書の赤荻に想いを寄せていた。朱雀と共に赤荻が頻繁に群青の家に出入りするのを喜んだ。紫苑の世話は未来の家庭を夢見る気持ちが大きく働いていた。朱雀はそのような気持ちもしっかりと見ていた。赤荻も蘭火を憎からず思っている事も。一段落したら、二人の事も考えてやろうと思っていた。佐原の村からの応援が無くなれば、群青の家の危険も増す。万が一の場合に備えて、生身で闘える者を置く意味もあった。村には寒露がいるが、寒露がいつも間に合うとは限らない。「お手並み拝見といこうか、赤荻」「はい」赤荻の眼鏡の奥の目には何の表情も表れなかった。しかし中指で眼鏡を押しあげながら、赤荻は言った。「専務の方は、よろしいのですか？」朱雀は机に肘をつき、組み合わせた手の上に顎を乗せた。そして前に立つ赤荻を見て微笑した。片方の眉と唇の端が上がる独特の微笑、男でも惚れ惚れする魅力的な笑みだった。毎日顔を合わせ、見慣れているはずの赤荻でさえ、思わず見入ってしまった。「今度の”風穴”の実力を見せて欲しいものだな」赤荻の眉間に微かに何かが走った。「香坂を手放した事を、後悔されておられるのですか？」朱雀は体を起こすと椅子の背に身を預けた。「和樹には香坂が必要だった。これからの事を思えばな」朱雀は再び微笑んだ。「お前は香坂とは違う分野が得意なのだろう？」赤荻は胸を張った。「はい、それが赤荻ですから」「私が欲しいのは、それなのだよ」赤荻は一礼した。「ご期待通りの結果をお持ち致します」「よろしい、行きたまえ」秘書室々長の高橋美佐江が、赤荻に茶色のマニラ封筒を差し出した。「赤荻さん、Ｓ物産の書類です」「ありがとう、社長は３０分後にお出かけに」「お車を手配しておきますね」社長室の手前に秘書達が居並ぶ部屋がある。長身で知的な二枚目の赤荻に、熱い視線を投げかける女子社員も少なくない。水際だった男ぶりの社長とはまた異なる魅力の赤荻は、彼女たちの良い目の保養でもあった。そんな中で、高橋美佐江は冷静に仕事を裁き、秘書達にてきぱきと指示を出していた。この部署で一番のベテランであり、朱雀の信頼も篤かった。外に出かける時、朱雀は女性を同行しない。必ず男性秘書を連れていく。保安上の意味もあると皆が承知していたので、女性陣から不満が出る事はなかった。「香坂さんも素敵だけど、赤荻さんも素敵よね」「いい男が多いわよね、我が社は」「それだけでも、会社に来る気になるわあ」おしゃべりに割って入った者がいた。「我が社は魅力的な女性ばかりなので、僕らも働き甲斐がありますよ」警備部のニ星（にせい）だった。「いやん、二星さんたら」「本当に口が上手いわよね」口々に言いながらも、彼女達は満更でもない顔をしていた。二星は微笑すると奥へと進んだ。（つづく）

  2011/01/09

• 紅き涙は朝に消ゆ(4) 蝕まれる月 その4

  白い上着の隠しから手巾を取り出すと、三峰は鵲（かささぎ）の涙を拭ってやった。鵲は幼子のように、されるがままになっていた。情のこもった手つきでそれを続けながら、三峰は言った。「説明がいるだろう。どうして今、ここにお前がいるのか」「はい」「術師が、我らを謀った。朱雀配下の者が探り出した。”風見鶏”のな」”風穴”と同様”風見鶏”も、極秘の存在である。白神配下の佐原出身の盾とは異なる者達である。主に術方面に長けた集団で”外”へ出た盾の子孫とされるが、実態を知るのは”外のお役目”の総括者である朱雀他、数名しかいない。普通の盾ならば名前すら聞いた事がない存在である。鵲は当主の真彦の直接の護衛の重責の負った都合上、それとなく知らされていた。村から選ばれ厚遇を受けていた術師達は、次第に増長し、好き勝手な術の実験を行っていた。禁術にまで手を出していた。彼等を監視していた”風見鶏”からの報告を受けた朱雀は、事実を確認後、術師達を断罪した。施術室で意識不明になっていた鵲は助け出され、竹生の屋敷へ運ばれたのだ。「安心するがいい。”外”の術師達の手で、お前にかけられた術は解かれた。じきに元に戻るであろう」「では、風の力も？」「戻って来る。だが、その目は治らぬ。毒を無効化出来る力も残る」（風の力が、戻って来る・・）仰向いて目を閉じ、鵲は喜びを噛み締めた。「保名（やすな）も呼び寄せる。この屋敷にと思っている」三峰の盲目の妻は、群青の家の長の雪火（せっか）と朱雀の計らいで、しばらく前に群青の家に保護されていた。古本屋のビルでは目の不自由な妻には不便だろうと、三峰は竹生の許しを得て執事の桐原と語らい、竹生の屋敷に部屋を用意する手はずを整えていた。「母上を、外にですか」鵲は目を開いた。目の前に父の微笑があった。息子が見ても胸ときめく程に美しく心和む笑みであった。母も同じ屋敷内に。息子としてはうれしいが、ここには桜子もいる。鵲の憂慮を感じ取った三峰は、表情を変えた。父親ではなく、盾の顔になった。「村で何があったか、お前に教えねばなるまい」三峰の様子を見て、鵲は再び起き上がろうとした。そろそろと風の力を使い、背中を風に支えさせようとした。風の力は確かに戻りつつあった。（出来る・・）だが、風よりも力強い父の腕が鵲の背中に回り、鵲を助け起こした。「ありがとうございます」父は頷き、鵲の背に枕を当てて寄りかからせた。「無理はするなと言ったはずだ」「しかし、大切なお話を、寝たまま聞く訳には参りませぬ」三峰は息子の真面目さを好ましく思った。「よし、そのままで聞くが良い。まだ知る者は少ない、口外無用と心得よ」椅子に戻ると、三峰は語り始めた。（つづく）

  2011/01/07

• 紅き涙は朝に消ゆ(4) 蝕まれる月 その3

  鵲は目が覚めた。自分の部屋の天井が見えた。枕元に誰かの気配を感じた。白き影が、優雅に椅子に寛きながら、寝台に横たわる鵲を見守っていた。「父上」慌てて起き上がろうとした息子を、父は優しく片手で制した。「まだ身体が辛いであろう、無理はするな」鵲は大人しく枕に頭を戻した。頭の中に霧がかかって、何もかも茫洋としていた。手も足も重い。何故、自分がここに横になっているのか、鵲は思い出せなかった。それよりも前に、鵲はひとつの過ちに気付いた。「申し訳御座いません。三峰様を、父と」三峰は微笑した。「お前は私の息子だ。息子が父を父と呼んで、何が悪い」「いえ、私は」「もうよせ、意地を張るのは」三峰の肩にかかる純白の髪が、ふわりと舞い上がった。身体の表面の毛をさっと撫でられたような感覚が、鵲の全身の広がった。鵲の身体中の皮膚が緊張した。（これは・・）三峰の髪は、ゆるやかに空中に優雅な文様を描いていた。三峰の周囲にだけ、風が吹いていた。風が三峰の髪に沿って、薄青く軌跡を残しながら流れるのを、鵲は感じていた。懐かしい感覚だった。二度と味わう事はないと諦めていた。信じられぬ想いのまま、鵲は宙に両手を伸ばした。「風の・・」父は身を乗り出し、息子の手を握った。「感じるか」「はい」鵲は素直に答えた。風はうれしげに二人の周囲を舞い踊った。鵲の漆黒の髪も枕から宙へと踊った。清涼なる風の気配を全身で感じ取りながら、鵲は、身の内に淀んでいた重く暗い物が、風が身を吹き抜ける度に、風と共に流れ去って行く気がしていた。身も心も光が満ちて来る気がしていた。「父上」今度ははっきりと意識をして、鵲は呼んだ。父の手に力がこもった。「そうだ、私はお前の父だ」三峰は椅子から寝台の枕元に身を移した。二人の手は繋がれたままであった。三峰は息子の方に身をかがめた。「気分はどうだ」「とても・・そう、とても清らかな気が致します」「それは良かった」穏やかな気分で、鵲は大きく深呼吸をした。青く甘い香りがした。子供の頃から片時も忘れる事のなかった父の香りであった。父への思慕があふれ出し、鵲は叫んだ。「父上、父上、私は貴方に側にいて欲しかった」父への思いは、目からもあふれて涙になった。鵲は父の手を握り返した。「私は貴方と共にいたかった」父も鵲の手を握り返した。「これからはそうなる。お前は私の隣で多くを学び、いずれ”盾”を背負うべきすべを身につけるのだ」鵲は驚き、そして歓喜した。「私を、お側に？」「ああ、そうとも。これまでの分も埋め合わせよう。誰にも邪魔はさせぬ、気兼ねもやめた。私は私の望むままに、お前を愛し慈しむ。そう決めたのだ」こんなに熱い父の言葉を、鵲は初めて聞いた。「幸彦様も白神も・・勿論、竹生様も解って下さった。朱雀もだ。あれも息子を持つ父親だからな」（つづく）

  2011/01/03

• 紅き涙は朝に消ゆ(4) 蝕まれる月 その2

  朱雀は社長室にいた。深夜の室内に灯りはなかった。朱雀が必要としないからである。”人でない”朱雀の目は、闇の中でも何もかも見通す事が出来た。朱雀はくるりと椅子を回転させた。机の左側の壁面はすべて窓になっている。最上階から見下ろすと、地上は漆黒のビロードに無数の宝石がこぼれ落ちた如くに見えた。朱雀の背後から声がした。「ご命令を」朱雀は振り向かなかった。窓の外の人工の煌きを見詰めたまま、朱雀は言った。「何も残すな」「承知致しました」背後の気配は消えた。朱雀は椅子を元に戻した。机に肩肘をついて、指先で額を支えた。そして目の前の闇に呼びかけた。「後は、お前と息子の問題だ」「解っている」闇の中から声がした。白く優雅な姿が朧ろに浮かび上がった。「息子はお前を求めているぞ、三峰」「解っている」白き影は答えた。術師達は、今宵の実験の結果に満足していた。人体に試したくても禁じられていたものばかりであった。効果を確かめては解呪し、痕跡が残らぬように注意は払っていた。だが被検体が無傷では済まぬ事も承知していた。術を繰り返していく内に、精神が或いは肉体が、徐々に損なわれる事は解っていた。揃いの頭巾の付いた砂色の長衣に身を包み、術師達は木製の円卓を囲んでいた。深くかぶった頭巾で顔は定かではないが、老齢の者が大半であった。何事かを記した紙を灯りに透かして見たり、卓上に広げた紙に書き記したり、それぞれが忙しそうな中、ゆったりと杯を手に寛ぐ者がいた。その者がしわがれた声で言った。「あまり強い術は、そろそろ避けた方が良いぞ」「すでに、精神に不安定な兆候がでておりますな」「まだまだ、生きていてもらわねば」一人が不安げな声で言った。「もし、あの方の身に何かあったら・・」杯を手にしていた者が、乾いた声で笑った。「術が馴染まなかったとでも言えば良い。理屈は幾らでも付けられる。本当の事は、術師たる我らしか解らぬのだからな」「そんな事はありませんよ」術師達は仰天して、声のした方を見た。一人の男が立っていた。眼鏡をかけた背広姿の平凡な男だった。杯を手にした男が嘲る様に言った。「これは、社長秘書の赤荻殿。立ち聞きとは礼儀知らずですな」「貴方達に、礼儀はいらないでしょう」その場の空気に殺気が漲った。「何ですと！」「我らを馬鹿にするか！」赤荻は微笑した。「誤った探究心は、己が身を滅ぼすという事ですよ」「何をおっしゃっておられるのか、とんと解せませぬな」杯を持った術師はしらばっくれてみせた。赤荻は、両手の甲を彼等の方に向けて、顔のあたりに手を掲げてみせた。その手は黒い手袋に包まれていた。術師達がどよめいた。「まさか」赤荻は静かに宣言した。「これが”外”の決定です。これ以上、貴方達の好きにさせるわけにはいかないと」杯を持った術師が吼えた。「我らほどの術師は、他にはおらんぞ」赤荻は再び微笑した。「思い上がるのも、ほどほどに」赤荻の顔から笑みが消えた。「貴方達に、相応しき報いを」赤荻が素早く片手を振った。部屋の灯りが消えた。闇の中に、逃げ惑う物音と悲鳴が響いた。再び灯りが点いた時、その部屋の中で、命ある者は、赤荻ただ一人であった。（つづく）

  2010/12/23

• 紅き涙は朝に消ゆ(4) 蝕まれる月 その1

  聴覚、嗅覚、触覚魔への感受性も高まるぞ良いのか？　良いのか？こんな素材はめったには見つからぬ良いのか？　良いのか？かまわぬ　かまわぬどうせ　親に捨てられた子よそうとも　見捨てられし者　どう扱おうと・・鵲の朦朧とした意識の中に、人の声が聞こえて来た。本当に人の声なのか幻聴なのか、今の鵲には判断がつかなかった。鵲は施術室に横たわっていた。朱雀の会社の持ち物の、とあるビルの地下室である。術師達はここに隠れ住み、術の研究を行っていた。毒を無効化する術を施されてから、定期的にここに通うように言われている。術後の経過を見る為だと、鵲は聞かされていた。（親に捨てられた子・・か）途切れがちの意識にも、寂しさが流れ込んで来た。（父上は、めったに戻っては来て下さらなかった。母上と私がどんな目にあっても、その事に気づいては下さらなかった。父上には、私はいらぬ子だったのだ）鵲の想いは、過去へと向かって行った。（”盾”ならばお役目第一、それが解らぬわけではない。母の咎を己が代わりに背負おうと、父は村に一層尽くしたのであろう。あの方のご気性ならば。そうだ、そうと思って私はずっと我慢していたのだ。親のいないさみしさに）盲目の母は鵲に厳しかった。三峰の子として、風の家の嫡子として、恥ずかしくない人間にしなければと思う母の気持ちが、鵲にも痛いほどに伝わって来た。鵲は文句も言わず、厳しい母に従った。幼き頃から、鵲には子供らしい時間はなかった。家に居れば盲目の母の手助けをし、勉学に励み、風の力を操る訓練も欠かさなかった。誰にも本心は言わない子になっていた。黙って運命を受け入れる事しか、鵲には選ぶ道はなかった。そんな中でも、いつか父に認められ、父と共に戦う日を夢見ていた。だが、長じて”盾”になり”外”へ出た鵲は、父の配下には入れられなかった。白神配下である事は恥ではなかった。むしろ順調な出世の道でもあった。白神は抜きん出て優れた資質を持つ鵲を可愛がってくれた。鵲も威厳と温和さを兼ね備えた白神に尊敬の念を抱いた。父はめったに鵲の前に姿を現さなかった。村にいた頃とあまり変わらぬ程度の触れ合いしかなかった。父が自分を褒めるのも、他の盾を褒めるのも、大差がないと感じられた。誰にでも慈悲深く誰にでも優しい”白き守護者”。鵲の為だけに見せる顔は何処にもなかった。鵲が遂に己の思いを吐露してしまった後も、父からは何も言って来なかった。（私の事など・・）朦朧とした意識の中で鵲は笑った。（私は何と女々しい男だ。この歳で、父が恋しいのか、父を恨むのか・・もう父など不要、私は一人前の”盾”、私は一人の”盾”。多くの中の一人。たとえ明日倒れても、次には代わりがいるだろう。真彦様を御守りするのは、何も私でなくていい。生き延びろと言われたが・・私がいなくても、真彦様には柚木もいるし、鳥船もいる）大きく世界が回転した。鵲は酷く眩暈がした。黒く重い闇に沈んでいくような気がした。術のせいだと解っていても、不快な思いを捨てる事が出来なかった。（術は・・好かぬ。いつも、吐き気がする。ずっと胸がむかつき、そして焼けるようになる）鵲は再び笑った。（こんな事も、父上はご存じない。知ろうともしないだろう・・な）鵲の意識は、闇に飲まれた。（つづく）

  2010/11/01

• 紅き涙は朝に消ゆ(3) 桜色の惑い その3

  鳥船と高望は、三峰に呼ばれた。鵲（かささぎ）を抜きで、白き守護者に呼ばれるのは、異例の事であった。それも鵲には内密にと伝令は言った。表向きは白神への定時報告という事になっていた。古本屋の事務所の、いつもの書斎机に、三峰は居た。部屋に入った二人は、三峰を見て息を呑んだ。鵲に見慣れて来た目にも、三峰の美は、別格として映った。白きかんばせの周囲の空気が、光をはらんで見える。ゆったりと腰掛けた姿も、優雅で気品がある。ここが古ぼけたビルの一室である事を忘れてしまう。王宮で貴人に謁見しているような気持ちになる。「良く来てくれた」声すらも、天空の調べを帯びている。二人は戸口付近に立ったまま、先へ進む事が出来なかった。「こちらへ来い」三峰は微笑した。二人はその微笑に操られるかの如く、三峰の方へと歩を進めた。机の前に並んだ二人を、三峰は親しみをこめて見た。「鵲が世話になっている。今は父として、二人に礼を言う」二人は黙って頭を下げた。それが精一杯であった。竹生のような圧倒的な威圧感はない。けれども、遙かにかけ離れた存在である事には変わりない。今まさに伝説を見ている、己の目で。感動が二人の身も心も支配していた。三峰は再び微笑した。「楽にせよ」すると、二人は呪縛から解き放たれた。二人はほっと息を吐いた。「聡いお前達なら解っておろう。鵲の事で呼んだ」鳥船が言った。「鵲様の事で、何かご心配が？」自分の声がかすれている事に、鳥船は心の中で舌打ちした。（まったく情けない）高望は鳥船の気持ちを察したように、ちらりと鳥船を見た。三峰は椅子に身をあずけた。ぎいと椅子が鳴った。その音すら、これ程に美しき男に座られた椅子の、歓喜の声に聴こえた。「お前達は、村で我が妻と鵲の受けた仕打ちを、知っているか？」二人は顔を見合わせた。二人のためらいを感じ取った三峰は、二人を促した。「隠すな、私は真実を知りたいのだ」鳥船が控え目に口火を切った。「我らは、早くに”盾”の寮に入りましたので、詳しくは解りません。ですが、一部の者達がお二人を蔑んでいたと聞いております」「罪人と、罪人の子としてか」「はい」三峰は高望の方を見た。「お前はどうだ」「私も同じです」高望が朴訥ながら先を続けた。「ですが・・鵲様が、幼い頃から誇り高くご立派であった事は、存じ上げております」三峰はうれしそうな顔をした。「そうか」鳥船が後を続けた。「それだけに、鵲様のお心の内の痛み、どれほどであったかと。それを知るからこそ、今出来る限り、鵲様のお力になりたいと、我らは思っております」三峰は二人を等分に見た。「二人の心がけ、うれしく思う」三峰は更に尋ねた。「桜子は、お屋敷で上手くやっているか？」「はい、百合枝様も、桜子様を可愛がっておられます」「それは良かった。高遠も心配しておろうな」三峰が、桜子と鵲との仲を気にしているのはないかと、鳥船は思った。鳥船はためらいがちに言った。「桜子様は、母である撫子様がお二人にした事を知らないご様子です。鵲様も、桜子様を嫌ってはおられないのですが・・」「ですが、何だ」「鵲様に撫子様への恨みがある限り、桜子様へ気安く接するお気持ちにはなれないのではと」「成る程な」三峰は少し考えるような顔をした。二人は黙ってそれを見ていた。否、見惚れていた。さらさらと純白の髪が揺れ、額に当てた指先の形の繊細さに、ため息が漏れそうになる。伏し目がちの頬に睫毛の影が落ちた様子が、この上もなく悩ましい。普段は男になぞ興味が無い高望でさえ、目が離せなくなってしまった。鳥船は、先日から気掛かりな事があった。ここはやはり言うべきだと思った。心を強くして、言った。「三峰様」白き守護者は顔を上げた。その表情は鳥船の言葉の続きを待っていた。鳥船はそれに安堵して、先を続けた。「隠してはおられますが、鵲様は、ずっと体調が優れぬご様子です」「何だと」「術師の元から戻った時は、特にお辛そうです。何か、良くない術が・・」三峰の目が鋭くなった。鳥船は縮み上がった。「出過ぎた事を・・申し訳御座いません！」三峰の目が和らいだ。「いや、お前を叱るつもりはない。気を楽にせよ」三峰は再び、物思う顔になった。そして独り言の様に言った。「やはり、そうか。お前達でも気付く程に」三峰は立ち上がった。「こちらでも調べてみる。何か解ったら、お前達にも知らせる。お前達も、鵲に異変があらば、すぐに知らせよ。直接、私にだ」「直接と言われましても・・」「白神には話しておく。お前達から私へと連絡があらば、早急に取り次ぐようにと」三峰は鳥船の傍らに来ると、鳥船の手を取り、握った。鳥船は驚いて、されるがままになっていた。「これは、父親として頼む。鵲を頼む」温かく柔らかい感触が、鳥船を天にも昇る心地にした。三峰は高望にも同じ様にした。「お前にも頼む。我が親友、火高の息子よ、鵲を頼む」三峰は自ら扉を開け、二人を送り出した。それは破格の扱いであった。「私ですら、して頂いた事はないぞ」後にその事を聞いた白神が、笑って二人に言った。（つづく）

  2010/10/19

• 紅き涙は朝に消ゆ(3) 桜色の惑い その2

  夜更けに鵲（かささぎ）の部屋の扉を叩く音がした。部下ではない、遠慮がちな叩き方だった。（誰だ）鵲は寝台からすべり下りた。鵲は就寝時も袖無しの下着の上に薄い長袖のシャツと柔らかいズボンを身に着けていた。そのまま外に飛び出しても可笑しくない様に、心がけていたのである。いつ何が起きても、対処可能なように。扉の前で鵲は様子を伺った。殺気も嫌な気配もなかった。「どなたですか？」小声で問いかけたが返事はなかった。鵲は扉を細く開けた。桜子が立っていた。薄紅色のナイトガウンを着ていた。「入れて下さいませ」そう言いながら、桜子は扉を押した。鵲は驚いたが、廊下で言い合いをして他所に聴こえてはと思い、桜子を入れると扉を閉めた。「夜中だぞ」桜子はどんどんと奥へ進んだ。鵲は仕方なくついていった。桜子は寝台の傍らで立ち止まった。「何の用だ」桜子は深々と頭を下げた。「昼間は失礼致しました」鵲の頬に朱が走った。「いや、いい。お前もわざとではないのだから」「でも、不公平ですわ」桜子はするりとガウンを脱いだ。薄いガウンが床にすべり落ちた。「お詫びに、桜子のすべても見て下さい」桜子はガウンの下には何も身につけていなかった。鵲は慌てた。「馬鹿な真似をするな」鵲は急いでガウンを拾い上げると、桜子の肩にかけた。桜子が抱きついて来た。バランスを失い、二人は寝台に倒れこんだ。桜子の腕が鵲にしっかりと絡みついていた。「よせ、桜子」「何故ですの？貴方と私はいずれ夫婦になる身です」鵲はため息をついた。桜子は必死のまなざしで鵲の顔を覗き込んだ。「桜子がお嫌いですか？」鵲は桜子の手首を掴んだ。「そうではない」「桜子は、鵲様以外の殿方に身を捧げるなんて嫌です。死んだ方がましです」鵲は咄嗟に策を巡らした。桜子をそっと抱きしめた。「聞いてくれ」鵲に抱きしめられた嬉しさで、桜子は素直に頷いた。「私は盾だ。いつ倒れるやも知れぬ」「”盾”の妻たる心構え、桜子もしているつもりです」「今、真彦様は不安定でいらっしゃる。お守りする為に、私は他所を見ている余裕がない」鵲の腕の中で、桜子は甘えるように身じろぎした。「桜子がお嫌いではないのですね」鵲は桜子の耳元でささやいた。「嫌うものか。お前ほど美しい女、私は知らぬ」桜子はうっとりと鵲の胸に頬を押し当てた。「綺麗なお前・・無責任に、お前を汚す事はしたくない」「では、どうしろと」鵲は桜子を抱き起こし、寝台に座らせた。「お前に渡したい物がある」鵲は身を離し、戸棚へ行くと錦の刀袋を取り出した。再び桜子の傍らに腰を下ろすと、それを桜子に差し出した。「それは？」「風の家の名刀”雪白”だ。風の家の長が持つ物だ。これをお前に預ける」「何故、私に？」「いつか、お前が風の長にふさわしいと思った男が現れたら、これを渡せ」桜子の顔が明るくなった。（これは約束のしるしなのね。いつか鵲様が一人前になられるまで、待てと）桜子は受け取った。「大切に、お預かり致します」鵲は桜子の顔を覗き込んだ。「今宵は帰ってくれるな」「はい」桜子は浮き浮きとして、しっかりと刀を抱きしめながら、自室へと戻って行った。再びひとりになった部屋で、鵲は妙な疲れを覚えていた。（敵と一晩斬りあった方が、まだ楽だ）鵲は、暗に自分以外の男を選ぶように言ったつもりだったが、桜子はそうは受け取らなかった。その事を、鵲は気づかずにいた。（つづく）

  2010/10/15

• 紅き涙は朝に消ゆ(3) 桜色の惑い その1

  「ピアスですか？」「違う、怪我をした様だ」「そういや、血豆みたいですね。気をつけて下さいよ」「ああ」左耳たぶの血豆のような傷。鵲の身体に加えられた改造の痕。何時かの鳥船との会話を思い出しながら、鵲（かささぎ）は浴室の鏡を見ていた。朱雀の血、同じ風の家の血縁。直系の濃い血だけが”イサクの血”に適合しうる。他の盾には無理。それゆえに己に施された術の痕。『奴等』の毒が無効化、鵲の血は『奴等』には毒。朱雀程ではないが多少の効果がある。朱雀自身は『奴等』の毒は無効化出来ない。それと引き換えに失った風の力。それと引き換えに真紅になった瞳。その紅い瞳が、浴室の鏡の中からこちらを見ている。病院に留め置かれてから、そのまま術師の隠れ家へと連れて行かれた。術の経過を見る為だという。目覚めると又時間が経っていた。竹生の特訓の傷はすっかりと癒えていた。屋敷に戻ると、皆は何事もなかったかの如くに鵲を迎え入れた。真彦と柚木だけは、素直に鵲の不在の間の寂しさを訴えた。柚木はまだ自分の不用意に言った言葉を気にしていた。「僕、酷い事を鵲さんに・・」鵲は微笑んで柚木に言った。「お前のせいではない。風の力なくとも強い盾はいる。私もそれを目指している。また一緒に訓練をしよう」柚木の顔が明るくなった。「竹生様がお待ちかねだよ。僕だけでは物足りないみたい」「そうか」（竹生様は、まだ私をお見捨てになってはおられない）鵲の心も少し明るくなった。桜子が浴室の扉を開けると人がいた。白い肌に雫をまといつけた身体が、何も隠さずにこちらを向いていた。鵲であった。タオルで髪を拭っている。桜子は目を見張った。均整の取れた若くのびやかな肢体は美しかった。未知の果実の豊かさが桜子の目に焼きついた。鵲と目が合った。「ご、ごめんなさい。鍵が開いていて、あの・・」桜子がようやく言うと、鵲は慌てて向こうを向いた。「いや、鍵をかけなかった私が悪い」桜子の目の前に、今は滑らかな背中とすらりとした下半身があった。桜子の父の高遠も美しい男であった。壮年となっても、際立つ容貌と鍛え抜かれた体躯を保持していた。桜子の自慢の父であった。（お父様も素敵だけれど、鵲様もなんてお美しい・・それに、ご立派だわ）鵲は、なるべく平静を装いながら、腰にタオルを巻きつけた。「済まぬが、出て行ってくれぬか」「は、はい」一人になった途端、鵲の全身に羞恥が湧き上がった。冷たい水で、頬に血の気の上がった顔を、鵲は乱暴に洗った。（私は、まだ修行が足りぬ）（つづく）

  2010/10/12

• 紅き涙は朝に消ゆ(2) 嘆きの子 その3

  三峰は古本屋の事務所で白神（しらかみ）と話していた。『火消し』の神内は長期の不在である。幸彦が就寝した後の、このビルの主人は三峰であった。二人は低いテーブルを挟んで向き合っていた。書斎机に三峰がいないという事は内輪の話である。白神は鵲（かささぎ）の話に深い同情の色を見せた。「私も村を離れて久しい。そのような事があったとは」「私も無念でならぬ」鵲の悲痛な叫びを聞いてから気掛かりではあっても、多忙の三峰には何も出来ぬままに時間ばかりが過ぎていた。「三峰様、今からでも遅くはありませぬ。鵲様をいたわって差し上げては」「あれは、私を受け入れてくれるだろうか」「申し上げたい事が御座います」声の主は護衛として戸口の側に立っていた盾だった。「差し出がましいと、重々承知しておりますが・・」若くして”外”へ志願する者が多い中で、その盾は壮年となってから”外”へ来た者であった。若い者より世知にたけた分、気が回るので、白神が側に置く事にしたのであった。白神は振り向いてその盾を促した。「何だ、話してみろ。秋武（あきたけ）」秋武は風の家の者らしい長身痩躯の盾であった。栗色の髪にやや癖がある。控えめだが賢さと芯の強さを感じさせる男であった。「保名（やすな）様への仕打ちの中心となっていたのは、桜子様の母君、撫子様なのです」「何だと？」白神は思わず声をあげた。「三峰様の母君のお着物を、撫子様が着ておりました」三峰は問うた。「何故、それを？」「私の母は三峰様の母君にお仕えしておりました。見間違いではないと申しておりました」秋武はその場にひれ伏した。「出過ぎた物言い、申し訳御座いません」三峰は秋武に優しく声をかけた。「お前は私と少なからぬ縁のある者であったか。今まで知らずに済まなかった」「いえ、私は一介の盾に過ぎぬ身です」「立て、こちらへ来い」秋武は従った。三峰は白神の隣を手で示した。「そこへ座れ。ゆっくりと話を聞かせてくれ」秋武は慌てて辞退した。「私のような者が、同席など畏れ多い」白神が言った。「三峰様が、お前の話をお聞きになりたいとおっしゃるのだ。過ぎた遠慮は、返って失礼にあたるぞ」「はい」秋武は緊張した面持ちで腰を下ろした。”白き守護者”を間近にして、秋武の緊張はますます高まった。純白に流れる髪は肩でふっつりと切り揃えられ、稀なる美貌を縁取っている。切れ長の目、通った鼻筋、薄く薔薇色を帯びた形の良い唇。仄かに漂う青く甘い香り。今は上着は脱ぎ、白くゆるやかな絹のシャツ一枚であるが、気品も優雅さも少しも損なわれていない。「そうか。お前の母は、我が母の側にいた者なのか」「はい」「お前の母は健在か？」秋武が、緊張のあまり上手く物が言えぬ気配を見て、白神が助け舟を出した。「秋武の母親は去年亡くなったそうです。それを機に”外”に志願したと聞いております」「では父は？」秋武はようやく口を開いた。「父は、さゆら子様がお亡くなりになった戦いで倒れました」「ますます縁を感じる。我が父の最期を共に戦った者の息子とは」三峰は微笑して秋武を見た。その微笑を見た途端、秋武は何もかも忘れ果て、魅入られてしまった。一切の緊張も気負いを消え失せ、三峰の蒼き瞳から目が離せなくなった。「気を楽にせよ」三峰の言葉が耳に届くと、秋武の身体からふっと力が抜け、ソファの背にもたれかかった。白神はこのような事に慣れていた。三峰を見た者がどうなるか、幾度となく見ていたからである。（秋武も、これまで以上に、三峰様に尽くす事になるであろうな）ふと思い出したかのように、三峰が言った。「お前は、崎鳴（さきなり）殿の息子か？」「はい、私は崎鳴の末の息子で御座います」「お前の髪を見て思い出した。我が父の良き部下であった」「ありがとうございます。三峰様のお言葉、父もあの世で喜んでいるでしょう」「崎鳴殿は、幼い私と遊んでくれた。優しい方であった」「父が倒れたのは、私が物心がつくかつかずの頃でした。私には思い出が御座いません」「そうか。では私の覚えている崎鳴殿の事を話してやろう」三峰は身を乗り出し、秋武の顔を覗き込んだ。「そのかわり、お前は我が妻と子について見知っている事、すべて話せ。讒言と恥じる必要はない。何があったのか、私は、まことの事を知りたいのだ」三峰は、撫子を中心とした”ゆりかご”の女達の所業を知った。妻子が侮辱され、己の家が強盗まがいに荒らされていた怒りで、いつも柔和な三峰の顔も少し硬くなっていた。「間宮はどうしていた？」「間宮様もお困りだったご様子で。嫁の撫子様はお嬢様育ち、悪意というよりそれ故の配慮の足りなさと」「上に立つ者だからこそ、心構えもいるであろうに」三峰は両の手で顔を覆った。「保名（やすな）を村に置いて来るのではなかった」秋武は頭を下げた。「三峰様に余計なご心労を・・申し訳御座いません」三峰は手を下ろした。雲間から現れた月の如き顔が、秋武を優しく見た。「私はお前に感謝しているのだ。知らずにいたら、私は妻も子も救えぬままだった」（つづく）

  2010/10/07

• 紅き涙は朝に消ゆ(2) 嘆きの子 その2

  鵲（かささぎ）は自分に与えられていた特権のすべてを放棄した。食堂ではなく、台所の片隅で他の盾に混じってひっそりと食事をした。話しかけられれば、あたりさわりのない話はしたが、それ以上は相手にならなかった。自分の存在が相手に気を使わせていると悟ると、皆とはずれた時間に津代に食事をもらい、自室で一人で食べるようになった。鳥船と高望とも余計な言葉は交わさなくなった。時間がある時はひたすらに木刀を振っていた。それすらも人気のない場所を選んでいた。竹生の剣が宙を薙ぎ払った。吹き飛ばされた鵲が庭の大木に激突した。柚木は背中に置いた風のクッションでかろうじて身を守った。着地すると柚木は慌てて鵲に駆け寄った。「鵲さん、大丈夫？」頬に斜めに走った傷から血が流れていた。全身の痛みを堪えながら、鵲は立ち上がろうとした。「手加減をせぬようにお願いしたのは、私だ。私が弱いだけだ。私は柚木よりも弱い」「そんな事ないよ。僕は風の力がある分だけ・・」言いかけて、柚木ははっとして口を押さえた。鵲の顔が歪んだのが、痛みの為だけでない事を、柚木は即座に悟っていた。「ごめんなさい」「柚木は悪くない。悪いのは私だ」竹生は少し離れた芝生の上に黙って立っていた。鵲は立ち上がると、竹生に深々と頭を下げた。「もう一度、お願い致します」それから幾度も鵲は地面や木に叩きつけられたが、竹生に立ち向かい続けた。その鬼気迫る様子に柚木は怯えた。竹生の終了を告げる声と共に、鵲は崩れる様に地面に倒れ付した。”盾”の息のかかった病院で、鵲は鍬見（くわみ）の手当を受けていた。「こんな無茶をなさって。肋骨にもひびが入っておりますよ。顔にも傷が残る所でした」「顔など。あの程度で参っていては、竹生様に申し訳がない」「鵲様相手だからこそ、竹生様もここまでなさるのでしょうけれど」「柚木ならいざ知らず、私の相手など退屈で仕方ないでしょう」鵲の自暴自棄の気配を、鍬見は不安に思った。「桜子様も心配なさるでしょう」鵲は思わず叫んだ。「桜子には関係ありません」叫んでから我に返り、鵲は鍬見に詫びた。「すみません」「私の方こそ、出過ぎた物言いでした」「許婚とは、桜子が勝手に思っているだけなのです」「そうでしょうか」「桜子は高遠様の大事な一人娘。いずれ良き婿を見つけて、風の家を継ぐでしょう」「それは鵲様とでは？」「いえ、私は真っ当な人間とは呼べない身体です」「そんな事はないでしょう」鵲は鍬見の顔を覗き込んだ。「では、この紅い目は？普通の人間の目の色ではありません」鍬見は勿論紅い目の意味を知っていた。鵲は続けた。「私は道具です。当主様を守る為の道具です。風の力を失った今は、風の家の者でもありません」鍬見には答える言葉がなかった。処置が終わると、鍬見は言った。「今日はこちらでお泊り下さい」「そうは行きません。お屋敷に戻らねば」鍬見は優しく言った。「そんな傷では、真彦様が怯えてしまうかも知れませんよ」「鳥船と高望をお側に。私は姿を見られぬ様に、庭にでもおります」「馬鹿な事を」「馬鹿・・ですか。そうですね、私は愚かな弱虫です」鍬見は鵲が心を病んでいるのを感じた。竹生は居間で三峰と酒を酌み交わしていた。「あんなに軟弱とはな。見込み違いであったか」「私のせいです」三峰は鵲との話を明かした。「父親として、私の方こそ失格です」竹生は暫く黙り、グラスの琥珀色の酒を干してから口を開いた。「あれにとって、風の力はそれほどに大切であったか」「我らがあれの生きる希望を奪い取ってしまいました」苦々しげに竹生は言った。「村がそこまで腐り切っていたとはな」「今後の事も考えなおさねば」「朱雀のやり方、あれの先見の明は確かだな。急がせよ」「はい」三峰は卓上の瓶を取り上げると、竹生の杯を満たした。（つづく）

  2010/10/05

• 紅き涙は朝に消ゆ(2) 嘆きの子 その1

  幸彦に許され、牢から出られたとはいえ、保名（やすな）の行為が村に多大な災いをもたらした事は事実であった。三峰のいる間は三峰の目をはばかり、村人達は大人しかった。だが三峰が村を去ると、村人達の母子への冷たい仕打ちが始まった。保名の目が見えないのを良い事に、金目の物から米や味噌まで持ち出す者もいた。幼い鵲（かささぎ）は火の気のない家で腹を空かしていた。母からは父には言わぬように厳しく口止めされていた。元は己が罪、夫のお役目に差し障りが出てはならないと、保名は耐えていた。鵲は山へ入り、食べられる草や木の実を探しては飢えをしのいでいた。三峰は愕然とした。「そんな苦労を、お前達に」風の家の嫡子と認められ、”盾”の宿舎に入れられてからは、飢える事は無くなったが、母の元から着物や宝石を奪った”ゆりかご”の女達の世話を受ける事は、鵲には屈辱以外の何物でもなかった。それでも母の厳命を守り、鵲は何もかも心に仕舞い込み、強くなる事だけを考えていた。強い盾になる事だけが、今の境遇から抜け出す道であると、鵲は信じていた。佐原の村に風の力が復活した時、鵲は村のどの盾よりも強い力を発揮した。人々は「さすが三峰様の御子」と、今度は鵲を褒めそやした。だが鵲は、人の心の表裏を、嫌という程知っていた。常に謙虚で控え目な態度を心がけていた。保名の実家も保名を軽んじなくなった。成長した鵲が、三峰に自分達の仕打ちを告げる事を恐れたのだ。「辛い日々、私を慰めてくれたのは、風の声でした。山に入れば、風が木の実の在り処を教えてくれました。どんな時も風の力は私の支えでした。でも今の私には、風の声を聞く事は出来ません。私は何もかも失った。強さも心の拠り所も何もかも。なのに生きろという。生きる力を奪っておいて生きろという」「お前にしか、あの術は施せなかった」「解っております。すべては当主様の為、お役目の為」「もし今聞いた事を、あの時に知っていれば・・」三峰の言葉を鵲は遮った。「それでも貴方は承諾されたでしょう。それが正しき”盾”の道です。我らは道具に過ぎないのですから」「何を言うのだ、私はお前を・・いや、お前の辛さに気づかずにいた私だ、恨まれても仕方あるまい」鵲は叫んだ。「勘違いなさらないで下さい。私の個人的な恨みなど、どうでも良いのです」鵲はその場に平伏した。「私が明かしてしまった事を、どうか母には言わずにいて下さい。そして母を、母をよろしくお願い致します。どうか母が不自由なく暮せるように、母をお守り下さい」「解った、出来る限りの事はする」「父上、いえ・・三峰様。私は甘えを捨てます。貴方の子である甘えを。これからは貴方の手駒のひとつとしてお仕え致します」「お前は私の子だ」「いえ、貴方には今から息子はいなくなります。ここにいるのは一人の”盾”」三峰は立ち上がった。「お前は、私を父と思わぬというのか」その声は悲しみに満ちていた。鵲は顔を上げなかった。「私にはその資格はありません。貴方の息子は、こんな弱き者であるはずはない」重い心を抱いて、三峰は扉の方へ歩き出した。「少しでもお役に立てるように、風の力なくとも強くなります。竹生様が手解きを約束して下さいました。この命ある限り、敵を倒し、お役目を全うする事だけが道と生きていきます」何も言わずに、三峰は出て行った。鵲はしばらく顔を上げなかった。紅い目から涙があふれていた。あふれた涙が、ぽたりぽたりと床を濡らした。（これで良いのだ、何もかも。私は”盾”、あまたの盾の一人に過ぎぬ。敵を倒さねば自分が倒れるのみ。それ以外何もない。私達は自分の為には生きられぬ。何も望んではならぬ・・・幸せなぞ、何処にもあるはずはない）（つづく）

  2010/09/22

• 紅き涙は朝に消ゆ(1) 白の息子 その3

  「父上」「しばらくだな、鵲（かささぎ）」口まで出かかった言葉をぐっと押さえ、鵲は頭を下げた。白き守護者は、鵲の部屋のソファで寛いでいた。「何時こちらへ？」「今しがた、幸彦様のお供をして来た」「お側を離れて、よろしいのですか？」「親子水入らずで話したいとおっしゃるのでな」三峰は息子を暖かく見た。「お前の働きで、真彦様がお元気になられたそうだな」「いえ、私ではありません。鳥船（とりふね）が話上手なお蔭です」「お前への信頼なくば、真彦様も鳥船を受け入れようとはしなかったであろう」「高望（たかもち）は、幸彦様をお守りした火高（ひだか）様の息子です。それもあったと思います」「謙虚だな」鵲は答えなかった。三峰は息子が遠くにいる気がした。村から来た当初は、父と共にいられる嬉しさを全身に滲ませながらも、周囲を気遣って馴れ々々しいそぶりを控えている風だったが、今は二人きりでいる事を、明らかに鵲は喜んではいなかった。三峰は言った。「私に言いたい事あらば、遠慮なく言うが良い。今はここには二人しかおらぬ」鵲は大きく息を吸い込んだ。「父上、桜子の事はご存知ですか」「高遠の計らいだ。これから十年余り閉鎖される村に居るよりも、多くの事を”外”で学ばせたいと。将来の村の為にも、風の家の為にも」「許婚とは、高遠様と父上が決めた事なのでしょうか」「特に決めたわけではない」三峰は息子の顔を見た。張り詰めた顔をしていた。「高遠が風の家の長となった時、反対派を納得させる条件として、お前が成人して、正式に風の家の長となるまでとしたのだ。高遠としては、娘を将来の長の妻として良き人生を歩ませたいと思い、桜子にそれとなく言って聞かせていたのかもしれんな」「では、父上のご意志ではないと」三峰は微笑して鵲の顔を覗き込んだ。「桜子が嫌か？」鵲は目をそらし、首を左右に振った。「そうではありません。」「急ぐ事ではない。桜子もお前もまだ若い」「少しお待ち頂けますか」「ああ」三峰は壁際のソファから、息子の部屋を見回した。左手に廊下へ出る扉、右手の奥の窓の前に鵲の机が置かれていた。扉から入ると正面に鵲がいる事になる。背後に窓を背負う無用心さに、鵲はこの配置を嫌がった。だが鳥船は「長は偉そうにしているものだ」と押し切ったのだ。部屋の半分は自分の組の詰所として使用している。部屋の中央の仕切りの向こうに寝台や私物のある空間がある。その仕切りが、今の鵲の心にも立てられている事を、三峰は感じていた。仕切りの向こうにある鵲の本心が、三峰は何故か痛ましく思えてならなかった。「お待たせ致しました」仕切りの奥から鵲が手にして来たのは、名刀「雪白（ゆきしろ）」だった。風の家の宝である。人である事を捨てる決心をした三峰が、生まれたばかりの鵲の枕元に置いて出た刀であった。鵲は三峰の前に膝をついた。三峰は眉をひそめた。「何のつもりだ」鵲は両手に捧げ持った雪白を三峰に差し出した。「お返し致します」「これはお前の物だ」三峰は刀を押し戻そうとした。だが鵲は引かなかった。「雪白は風の家の長の持つ刀、私にはふさわしくありません」「お前は、風の家の直系の唯一の子だ」「風の力なき者に、皆が従うでしょうか」三峰を見上げた鵲の目は、悲痛な思いに満ちていた。「高遠様は立派な方です。なのに従わぬ者がいる。ましてや牢屋で生まれた私に、従う気になるでしょうか」「保名（やすな）の罪は許された」「犯した罪が消えたわけではありません。私が罪人の子である事実は、消える事はありません」「何を言う。お前は私の子、風の家の正統と、我が祖父・臥雲（がうん）長老も認めたのだ」鵲は最早堪える事は出来なかった。「父上、やはり貴方は何もご存知ないのですね。貴方のご不在の間、盲目の母と私がどんな目にあっていたか」「何だと」「母と私は、食べる物にも事欠く日々を送っておりました」(つづく)

  2010/09/16

• 紅き涙は朝に消ゆ(1) 白の息子 その2

  百合枝はしばらく屋敷を留守にしていた。産後の身体には田舎の空気が良いと周囲に勧められ、群青の家に静養に行っていたのだ。朱雀も百合枝に付き添って行った。それは”外”のまとめ役として、佐原の村の決断を見届ける為でもあった。その事は百合枝には知らされていなかった。そして真に重大な事柄についても。ひそかに群青の家を目指す集団があった。誰もが白い頭巾を深く被り、荒野を急いでいた。彼等は互いに囁きあっていた。「機会は一度きりで」「使われる命は二つ」「三度目はない」「失敗は許されぬ」「許されぬ」「許されぬ」「許されぬ」「許されぬ」人目を避けながら、集団は森の奥へと消えた。会社を任された和樹は、それが次期社長への試験だと心得ていた。朱雀の不在の間、社長室を使う事になった和樹は、秘書の香坂に言った。「お父さんを、失望させないと良いけれど」眼鏡の中から穏やかに和樹を見ながら、香坂は言った。「失望させる事などありません。今の和樹様なら」「お前もいるからね」「我らを使いこなせる腕があると、朱雀様、いえ、社長が判断されたからでしょう」「使いこなす・・か」「我らを最大限に上手く使う事、それが秘訣です」和樹は朱雀の椅子に深く腰を下ろし、卓上のコンソールに手を伸ばした。「はい、社長」女性の声が響いた。「高橋君、お茶を頼む」「ミルクティに砂糖はひとつ、それと緑茶でよろしいですか？」和樹は香坂を見た。香坂は頷いた。「ああ、頼むよ」香坂は言った。「彼女達も、それを望んでおります」「僕では納得しないかもね。お父さんみたいに良い男ではないもの」香坂は澄まして言った。「社長夫人の座は、充分に魅力的ですよ」和樹は苦笑した。香坂は続けた。「和樹様ご自身も、それに劣らぬ位に魅力的です」そして書類を和樹の前に置いた。「では始めましょうか、専務」多くの血が流れ、多くの嵐が過ぎていった。やがて訪れた平穏な日々も、瞬く間に過ぎ去り、百合枝の帰還の日時が決まった。屋敷の中がにわかに慌しくなった。「鵲様！」庭先で、いきなり抱きついて来た少女に、鵲は驚いた。「鵲様、私、来ました！」「桜子？」村の長の高遠の一人娘、桜子であった。桜子の物らしい鞄を抱えた伴野が、少し離れて立っていた。伴野は鵲と目が合うと、律儀に頭を下げた。桜子ははしゃいだ声で言った。「お父様も許婚の鵲様の所ならと、許して下さいました」鵲は桜子が傷つかぬ程度にゆっくりと身を離した。「待ってくれ」「はい？」「ここは竹生様のお屋敷だ。私の家ではない」満面の笑みで、桜子は鵲を見上げた。「解っておりますわ。”外”に居る者は、皆仮住まいです。私も百合枝様の元で行儀見習いとして、ここに住まわせていただく事になりました。鵲様とひとつ屋根の下で、桜子はうれしゅう御座います」鵲は頭を抱えたくなった。「とにかく、まずは桐原殿や津代殿に挨拶して来るのが先だ」「はい、では後程」伴野に案内されて、桜子はいそいそと屋敷の中へと消えていった。鳥船が面白そうな顔をして寄って来た。「美人になりましたね、桜子様。許婚とは知りませんでしたよ、鵲様」鵲は努めて普段通りの態度を通そうとした。「桜子が勝手に思い込んでいるだけだ」「高遠様も、そう考えておられるのでは？」「私はまだ未熟者だ」鳥船を置いて、鵲も屋敷の方へ歩き出した。（つづく）

  2010/09/14

• 紅き涙は朝に消ゆ(1) 白の息子 その1

  桜子が竹生の屋敷に来て、一週間が過ぎた。”外”は珍しい事ばかりで、十八になったばかりの桜子は、若い好奇心のままに様々な事柄を貪欲に吸収した。行儀見習いといっても、村の長の高遠（たかとお）の一人娘である桜子に、無理難題を押し付けるものもなく、桜子は津代の元で嬉々として働いていた。長の娘である事も生来の美貌も鼻にかけない桜子を、屋敷の住人も出入りをする者達も、暖かく受け入れていた。朝の支度が始まる前に、桜子は庭に出た。屋敷の庭には珍しい花が沢山あった。それを見るのも、楽しみのひとつだった。桜子は花々の間の小道をゆっくりと歩いた。豊かな黒髪をひとつに束ね、簡単なブラウスとスカート姿であっても、桜子の姿には匂い立つ若さと美しさがあった。庭師の伴野（ばんの）は、自分の小屋の側に様々な花を植えていた。屋敷の庭には佐原の村の土が混じっている。まずはここに植えて庭の土に馴染むか試しているである。今は薔薇が盛りであった。白い薔薇は花弁を重ね合わせ、やや俯き加減に咲いていた。古い種の面影を持った花であった。桜子は見惚れた。白くそこはかとない品の良さと儚さを漂わせた姿に、桜子は愛しい鵲（かささぎ）の姿を重ね合わせていた。「これは、桜子様」伴野は麦わら帽子を取って頭を下げた。「おはよう、伴野。綺麗な薔薇ね。触っていい？」「はい、棘にお気をつけて」桜子は指先で一輪の花を支え、そっと顔を寄せた。（良い匂い。甘いけれど、それだけではなくて）昨夜の鵲の胸に感じた香りを思い出し、桜子は頬を染めた。身を起こすとそれを隠すかの様に言った。「この薔薇、良い香りね。酔ってしまいそう」「今朝、百合枝様のお部屋にもお持ち致しました。桜子様もお持ちになりますか？」「お願いして良いかしら」伴野は小屋に入ると花鋏を手に戻って来た。花を見定めながら伴野は鋏を入れた。切った薔薇の棘を器用に取って茎をまとめ、伴野は桜子に手渡した。「花瓶がご入用なら桐原に」「ありがとう」鳥船（とりふね）が鵲の部屋を訪れると、鵲は自分の机で書き物をしていた。机の上の一輪差しに白い薔薇が揺れていた。鳥船は無造作に机の端に腰をかけると、薔薇の花を指で突いた。「優雅ですね」「桜子が置いていった」鵲がぽつりと言った。あまり機嫌の良い声ではなかった。「食堂にも同じ薔薇が飾ってありましたよ」「お前は、薔薇の種類にも詳しいのか」「伴野様の小屋の横に咲いていたのと、同じ薔薇です」書類から顔を上げずに鵲が言った。「屋敷内の物を熟知しているとは、頼もしい部下だ」「物だけではありませんよ」鳥船が何を言いたいか解っていたが、鵲はそ知らぬ顔で言った。「高望（たかもち）はどうした」「今朝は、鹿沼様と本社の警備部へ」「みっちり扱かれて来るだろうな」「身体を使うのが好きな男ですから」鳥船は立ち上がった。「私は頭を使って来ます。例の古い記録を調べて来ます」「頼んだぞ」「鵲様」「何だ」「一度位、顔を上げて下さい」「うるさい」鳥船は鵲の顎に手をかけると、強引に上を向かせた。鵲は鳥船を睨んだ。「一段と瞳が赤い。美しい色ですね」鵲の中で怪我や病気への治癒力が働いている時、瞳は更に赤く輝く。それを知っている鵲は、人と目を合わせようとしなかったのだ。鵲は鳥船の手を払いのけた。「何が美しいだ。こんな呪われた目が」「美しいものは美しいのですよ。少なくとも私には、極上の紅玉よりも」再び俯いた鵲は、何も答えなかった。（つづく）

  2010/09/10

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