金銀花は夜に咲く(33)「影の道」その3
屋敷の二階の一室が、真彦の為に用意されていた。布張りの壁は淡い金色で、柱や家具は濃茶色、ソファには深緑色のビロードが張られていた。カーテンも同じ色で、柚木は、朱雀に連れられて観に行ったオペラの舞台の緞帳を思い出した。主役の歌手が歌うのを聞きながら(朱雀おじさんの方が良い声だ)と思った事も、同時に思い出した。部屋の片隅に置かれた、胡桃材に浮彫の施された豪奢な寝台は大型で、真彦と柚木なら、悠々二人で眠れそうだった。真彦はどさりとソファに腰を下ろした。柚木はまだ戸口の側に立っていた。こうして知らない部屋で、二人きりになると、妙な気恥ずかしさがあった。「どうしたの?」真彦は怪訝な顔をした。「いや、何でもないよ」柚木はひとつ息を吐くと、ソファまで進み、真彦の隣に腰を下ろした。ふっかりとしたクッションに体を預けると、柚木は自分がとても疲れているのを感じた。見知った顔が多いとはいえ、宴会の騒ぎの中で気楽に過ごすには、柚木はまだ若過ぎた。そして村へのこだわりを完全に拭い去ったわけではない柚木は、どこかで村人と顔を合わせる事を恐れていた。彼等の笑顔の中に、村から逃げ出した自分への憎悪や軽蔑を探してしまうのであった。真彦も疲れた顔をしていた。人の感情の動きを身体への痛みとして受け取ってしまう真彦にとって、人の多い場所にいる事は、重労働に匹敵するのだ。盾達は通常、真彦に負担を与えぬような精神の訓練を受けている。それでも人間であるから、真彦は影響を受けてしまうのだ。父の幸彦は、己の感覚を制御する術(すべ)を身に着けていたが、真彦はまだまだ未熟であった。柚木は、彼に痛みを与えない稀なる人間でもあったのだ。二人はならんでソファに座り、正面の窓の方を見ていた。カーテンは閉められておらず、庭の木々の影の間に優美な曲線を描く三日月が見えた。真彦がぽつりと言った。「百合枝さん、綺麗だったね」「うん」柚木が答え、それからしばらく沈黙があった。二人はその静けさを心地良く感じていた。無理に言葉を交わさずとも、互いの存在を感じているだけで、満ち足りた思いがあった。(どうして僕は、これを、忘れていたのだろう)柚木は思った。村を出奔してから、真彦に逢おうと思えば何時でも逢えたはずであった。朱雀はそれを止める事はしないだろうし、進士はむしろ喜んでくれただろう。だが柚木は、村のすべてを拒否したかった。お父さんの命を奪った村のすべてを。ふと朔也と呼ばれた青年の面影が、柚木の脳裏に甦った。(キミは・・誰?)その声の中に、柚木が失った響きがあったかどうか。柚木には、判断をする自信がなかった。前を見たまま、真彦が言った。「お前は、本当に背が伸びたね」「盾の家の者は、みんな背が高くなるから」「僕は大きくならない」柚木は少し笑った。「お前はいいんだよ、お前は盾じゃない」返って来た返事には、苛立ちがあった。「そうじゃない、僕は大きくなれないんだ」柚木は目を見張り、真彦の方を見た。真彦も柚木を見ていた。きらきらと強い光を帯びた目が、柚木を見ていた。「僕は大きくなれない」「どういう事だい?」真彦は、首に締めていた青いネクタイを引っ張り、乱暴にむしり取った。柚木もネクタイをゆるめ、ワイシャツのボタンを外した。慣れないスーツ姿も疲れた原因のひとつであった。真彦が甘えるように柚木の胸にしなだれかかり、柚木のゆるめたネクタイに手をかけた。肌蹴た胸元から首へ唇を押し付けられ、柚木は驚き、真彦を押しのけようとした。「真彦?!」真彦は柚木を見上げ、微笑んだ。柚木の知らない真彦の顔がそこにあった。「駄目だよ、逆らっちゃ。お前はずっと僕に寂しい思いをさせて来たのだからね」真彦の瞳が妖しく煌いた。何かを言おうとした柚木の身体中から力が抜けた。柚木は、ぐったりとソファにもたれかかった。(夢の・・力・・・)柚木の耳の下に顔を埋め、真彦はつぶやいた。「僕は・・大人にならない。これ以上、成長しないんだ」「そんな・・」「僕のおじい様、マサト様の事を、聞いた事があるだろう?」「ああ、昔、村の守護者であられた方だ」「どうやら、僕は、その方の血を濃く引いているらしい」マサト様はずっと少年の姿でいらしたと、柚木は、大人達に聞かされた事を思い出した。「お父さんは、僕がおじい様の魂を持っているからだと、言うけれどね」「でも、お前・・最後に逢った時より、大人になってる」「僕の成長が止まったのは、二年前だ」真彦の声から甘さが消えた。「お父さんと暮らす様になってから、僕は鍬見の病院で定期的に検査を受けていた。お父さんはおそらく、この事を予知していたのだ」柚木は何と言って良いのか、分からなかった。真彦は柚木の顔を覗き込んだ。「僕は化け物になってしまった。それでも、僕を嫌いにならない?守ってくれる?柚木」哀願がその顔にあった。柚木は微笑んだ。「風の力を持つ僕は、村でも”外”でも、とっくの昔に化け物だったよ。僕はお前を守る、そう決めたんだ」真彦の顔にも、微笑が広がった。「柚木」二人の唇が重なった。柚木は、それが自分の望んだ友情の形でない事は分かっていた。そして真彦の本当に欲しいものが別にある事も。(今は、真彦は、僕がここにいる事を、確かめたいだけなんだ)夢という広大で空虚な世界と常に向き合わねばならない少年が、現実の世界に確かな何かを、触れ合うという事で、この世界にいる実感を欲しているのだと。それは、風の力という形のないものに振り回される柚木には、何とはなしに理解出来るものであった。(真彦のこういう所は・・変わらなくていいんだ。何でも、変われば良いというものじゃない。きっと・・・)柚木のまぶたが重くなり、眠りの中へ引きこまれていった。柚木は遠い夢の呼び声を聞いていた。それは、あの、朔也の声に似ていた。(続く)『金銀花(すいかずら)は夜に咲く』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説