「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-22(三百七)
「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ルネ・デカルト-22(三百七) 西欧の解放期、啓蒙運動が盛んだったルネサンスの花はルネ・デカルトの時代には、絶対王政と教会権威が再び頭を擡げ、ルネ・デカルトの前に立ち塞がります。自己の思考の真相を語るには、危険極まりのない旧世界の復活です。否応なく、彼は此の旧世界の柵(しがらみ)に自己の思考を仮面で覆います。その仮面とは、自己が発見した懐疑から得た経験主義的実証を、形而上学的な思想で覆い、理性の基底に「神」を前提にしますが「それでも地球は回っている」のコペルニクスではないけれど、コギトエルゴスム(我思う故に我あり)の発見は捨て切れず、旧世界の権威と権力に立ち向かざるを得ませんでした。「我思う、ゆえに我あり」(仏訳 Je pense, donc je suis、羅訳 Cogito ergo sum)は、であり一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑であり、自己を含有する世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用による認識が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。即ち、自分は本当は存在しないのではないかと疑っている自分自身の存在は否定できないところに、思考の第一義に持って行きます。そのことは、中世キリスト教神学が世界の全てを神を出発点とするのに対し、神の認識ではなく人間の認識を出発点とする思想は西洋にあっては革命的なものです。但し、表面上、後世の宗教への棚上げした思想はどうあろうと「天上天下唯我独尊」、インド大陸の仏教哲学の世祖シッダールタ(Siddhartha)が既に思考方法としては取り入れていたことです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ