「霊魂論」神秘学100
「霊魂論」神秘学100 伝承では、釈迦の弟子たちの中には、虹の上を歩いたり、巨大なマンゴーの木を生やすなどの奇跡を見せる者が現われたが、だが釈迦は仏法が起こす奇跡を誇示するのを戒めています。また、釈迦の成功を妬む宗旨を共通にする師匠たちが、彼の信用を失わせる企みをめぐらせ高弟の提婆達多の釈迦傷害の企みもありましたが徒労に終わります。然し乍ら、宗団の戒律をめぐって高弟の弟子相互に争いが生じたため、釈迦が和解を図ったところ、豈図らんや、弟子たちがこれに応じなかったので、釈迦自身が一時宗団を離れるという異常事態まで発生する騒動が持ち上がります。前述の釈迦の従兄弟(いとこ)の提婆達多は宗団の戒律の乱れを慮(おもんば)かって釈迦に組織改編を諫言し、他の高弟の妬みを買って宗団を追い出される事件、彼は釈迦よりも一層厳しい禁欲的な戒律で集団内に分裂を生じさせたが、実相は彼に従う者もあり、後世には名誉回復さえ見られます。反対派によって殺し屋をやとったり、危険な像を使って釈迦を殺そうと企てたことへの疑問視です。釈迦が入滅する年には、自分は弟子たちに隠すことなく全てを教えてきたし、もう老人であるから、今後弟子たちは法の中に救いを求めるように告げ、一方では、仏陀は宇宙の続く限り生き続けると加えたとも言い伝えられていますが如何なものでしょう。釈迦やキリストより出生の早い中国の孔子は「我未だ生を知らず、況や死に置いておや」といって死を未経験の領域に位置づけていますが、インドの仏陀、なかでも釈尊は死を涅槃(ねはん)と捉えて、「涅槃」を永遠の生命にいたるための出発点と思考しています。これに対してイエス・キリストは人間の既成の罪(原罪)により十字架上で犠牲になり、死んで蘇る奇跡を見せ、死して尚、神を信じるものは其の信実と行動の報償により神の福音を以って天国に復活します<報償論>。哲学・思想 ブログランキングへ