神の存在-216
神の存否-216 宇宙には果てがあるのか無かろうか、誰もが一度は疑問に思うことです。現在の宇宙年齢は推定138億年とされています。だとすれば、我々が観測できる領域は、光が138億年かかって到達できる距離を半径とする宇宙、宇宙の形態が平面であれ馬蹄形であれ円球(内球ではなく外球面)であれ138億年に限られる筈です。但し、此れは定常宇宙論でのこと。現在は宇宙が膨張しており、その膨張速度は天体の距離に比例していることが宇宙の背景放射を観測したハッブルの発見によって分かったのです。然し乍ら、宇宙は138億年前に始まり、宇宙には光より速く伝わるものは存在しない。従って、我々が原理的に観測できる領域の大きさには限りがある。ところが、宇宙には光より速く伝わるものは存在しない。従って、我々が原理的に観測できる領域の大きさには限りがある。したがって、宇宙は138億年前に始まったのだから、光の速度で到達するのに138億年かかる距離、つまりは、138億光年ではないのかと思われたかもしれない。ところが、光が昔に通過した領域は、その後、我々の観測可能域が宇宙の膨張により引き伸ばされているので、光が通ってきた経路の長さを今の宇宙で予測すれば、約464億光年になるということになります。宇宙は「観測可能な宇宙の果て」よりもずっと大きな領域まで広がっているということです。遠方から届く光はそれだけ昔に放たれたものであり、よく言われるように宇宙では「遠くを見ることは過去を見ること」になる。宇宙では「空間方向の宇宙の果て」に迫る旅は、「過去にさかのぼる宇宙の果て」に迫る旅でもあるのは事実です。天文観測は「過去」を見ている。ここに、歴史学や考古学、あるいは地球史といった過去の歴史を扱う他の学問分野にはない、天文学ならではの魅力があります。より性能のいい超望遠鏡を作り、より遠くを観測していけば、銀河や宇宙がどのように進化してきたかをタイムマシンのようにさかのぼって直接見ることができる筈なのですが、今は未だ、観測不可能です。宇宙の創生ビッグバンを見ようとしても其の空間の拡がりに観測が追い付かずビッグバンそのものも永久の霞となります。スピノザの云う人間精神の観念に頼るしかないかも知れません。 定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような、或いは、それについてある観念が精神の中にないような、いかなることも起こりえないであろう。 証明 なぜなら、おのおのの観念の対象の中に起こるすべてのことは、神がその対象の観念に変状したと見られる限りにおいて必然的に神の中にその認識がある(この部 第二部「精神の本性および起源について」の定理九の系)により、言いかえれば(等しくこの部の定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。)により、神がある物の精神を構成する限りにおいて、必然的に神の中にその認識がある。ゆえに人間精神を構成する親念の対象の中に起こるすべてのことは、神が人間精神の本性を構成している限りにおいて必然的に神の中にその認識が存する、言いかえれば(等しくこの部の定理一一の系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である)により、そのものについての認識は必然的に精神の中に在るであろう、すなわち精神はそれを知覚する。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 この定理は第二部「精神の本性および起源について」この部の定理七の備考からも明白であり、しかもいっそう明瞭に理解される。その個所、すなわち、無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一の実体であって、それが時にはこの属性のもとにまた時にはかの属性のもとに解されるのであるということ、これである。哲学・思想ランキング