神の存在-426
神の存否-426 定理三六 徳に従う人々の最高の善はすべての人に共通であって、すべての人が等しくこれを楽しむことができる。 証明 有徳的に働くとは理性の導きに従って行動することである(この部第四部の定理二四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持する「*この三つ理性的行動・理性的生活・自己の生命身体的・精神的有に努める」は同じことを意味する)こと、しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすることにほかならない。により)。そして理性に従って我々のなすすべての努力は認識ということに向けられる(この部第四部の定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。により)。それゆえ(この部第四部の定理二八 精神の最高の善は神の認識であり、また精神の最高の徳は神を認識することである。により)、徳に従う人々の最高の善は神を認識することである。そしてこれは(第二部定理四七 人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。およびその備考 抜粋:神の無限なる本質ならびにその永遠性はすべての人に認識されることが分かる。ところで、ありとあらゆるものは神の中に在りかつ神によって考えられるのであるから、この結果として、我々はこの神の認識からきわめて多くの妥当な認識を導き出し、このようにしてかの第三種の認識を形成しうる、ということになる。により)すべての人々に共通である善、かつすべての人間が本性を同じくする限り等しく所有しうる善である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。。 備考 だが、あるいは次のように尋ねる人があるかもしれない。徳に従う人々の最高の善がもしすべての人に共通でなかったとしたらどうであろう。その場合にはそれから、前の場合のように(この部第四部の定理三四 人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。を見よ)、理性の導きに従って生活する人間、言いかえれば(この部第四部の定理三五 人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する。により)、本性上一致する限りにおける人間が、相互に対立的であるというようなことが起こりはしないだろうかと。こうした人に対しては次のことが答えとなるであろう。人間の最高の善がすべての人に共通であるということは偶然によるのではなくて、理性の本性そのものから生ずるのである。なぜなら、この最高の善は理性によって規定される限りにおける人間の本質そのものから導き出されるからである。そして人間は、この最高の善を楽しむ力を有しないとしたら、存在することも考えられることもできないであろう。神の永遠・無限なる本質について妥当な認識を有することは人間精神の本質に属するのであるから(第二部定理四七 人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。により)。 記:スピノザによれば理性の導きに従って生活する人間、言いかえれば人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて徳ある人間となり、人間の最高の善としての徳が本性上一致する限りにおける人間が、相互に対立的であるというようなことは起こり得ないとの結論に行き当たります。彼が「有徳の人」の好例とする人間はどの様な人物像なのでしょう。記者には人間の肉体を持つ限りにあっては、ナザレのイエスと釈迦族シッダールタの会話が頭骨を揺らします。哲学・思想ランキング