神の存在-517
神の存否-517 定理四一 たとえ我々が我々の精神の永遠であることを知らないとしても、我々はやはり道義心および宗教心を、一般的に言えば我々が第四部において勇気および寛仁(*寛大で慈悲深いこと。心が広く、思いやりのあること。また、そのさま。)に属するものとして示したすべての事柄を、何より重要なものと見なすであろう。 証明 徳の、あるいは正しい生活法の、第一にして唯一の基礎は自己の利益を求めることである(第四部定理二二の系 自己保存の努力は徳の第一かつ唯一の基礎である。なぜならこの原理よりさきには他のいかなる原理も考えられることができず、またこの原理なしには、いかなる徳も考えられえないからである。および、定理二四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持する(この三つは同じことを意味する)こと、しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすることにほかならない。により)。しかし理性が何を有益として命ずるかを決定するのに我々は精神の永遠性ということには何の考慮も払わなかった。精神の永遠性ということを、我々はこの第五部においてはじめて識ったのである。このようにして、あの当時はまだ精神の永遠であることを知らなかったけれども、我々はそれでも、勇気と寛仁に属するものとして示した事柄を何よりも重要なものと見なした。だからたとえ我々が今なおそのことを知らないとしても、我々はやはり、理性のそうした命令を重要なものと見なすであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 民衆の一般の信念はこれと異なるように見える。なぜなら大抵の人々は快楽に耽りうる限りにおいて自由であると思い、神の法則の命令に従って生活するように拘束される限りにおいて自己の権利を放棄するものと信じているように見えるからである。そこで彼らは道義心と宗教心を、一般的に言えば精神の強さに帰せられるすべての事柄を、負担であると信じ、死後にはこの負担から逃れて、彼らの隷属、つまり彼らの道義心と宗教心に対して報酬を受けることを希望している。だがこの希望によるばかりでなく、特にまた死後に恐るべき責苦をもって罰せられるという恐怖によって、彼らは、その微力とその無能な精神との許す限り、神の法則の命令に従って生活するように導かれている。もしこの希望と恐怖とが人間にそなわらなかったら、そして反対に、精神は身体とともに消滅し、道義心の負担のもとに仆(たお)れた不幸な人々にとって未来の生活が存しないと信ぜられるのであったら、彼らはその本来の考え方に立ちもどってすべてを官能欲によって律し、自分自身によりもむしろ運命に服従しようと欲するであろう。こうしたことは、人が良い食料によっても身体を永遠に保ちうるとは信じないがゆえに、むしろ毒や致命的な食物を飽食しようと欲したり、精神を永遠ないし不死でないと見るがゆえに、むしろ正気を失い理性なしに生活しようと欲したりする。これらのことはほとんど検討に価しないほど不条理なことであるのにも劣らない不条理なことであると私には思われる。 (堕落論)哲学・思想ランキング