25146749 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

Tough Boy-World of cap_hiro

Tough Boy-World of cap_hiro

全4077件 (4077件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 >

2022年08月13日
XML
カテゴリ:絶対存在論
神の存否-499
 定理二四 我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する(あるいはそれだけ多くの理解を神について有する)。
 証明 第一部定理二五の系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)、にほかならぬ。この証明は第一部定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。、および、同じく第一部定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。から明らかである。から明白である。
 記:我々人間が、世界の個物の森羅万象の形質・形相・法理を極めることは神を認識することに神を理解することに繋がります。スピノザ哲学は神存在を現代物理学の量子重力理論の宇宙論を知らないにしても、仮に量子重力理論の確率論を知れば驚愕したでしょう。スピノザの解く神とは世界そのものであり「実有・完全体」であり「可能性」は考慮されていないからです。    (シュレディンガーの猫)



哲学・思想ランキング






最終更新日  2022年08月13日 06時10分05秒
コメント(0) | コメントを書く


2022年08月12日
カテゴリ:絶対存在論
神の存否-498
 定理二三 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。
 証明 神の中には人間身体の本質を表現する概念ないし観念が必然的に存する(前定理二二 しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。により)。この概念ないし観念は、それゆえ必然的に、人間精神の本質に属するあるものである(第二部定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)。ところが我々は人間精神に対して、人間精神が身体の現実的存在、それは持続によって説明され、時間によって規定されうるものであるを表現する限りにおいてしか持続、すなわち、時間によって規定されうるようなものを賦与しない。言いかえれば我々は人間精神に対して(第二部定理八の系 抜粋:個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。により)身体の持続する間だけしか持続を賦与しない。しかしそれにもかかわらず今言ったあるものは神の本質そのものを通してある永遠なる必然性によって考えられるものなのであるから(前定理二二 しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。により)、精神の本質に属するこのあるものは必然的に永遠であるであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 備考 身体の本質を永遠の相のもとに表現するこの観念は、今言ったように、精神の本質に属する必然的に永遠なる一定の思惟様態である。しかし我々は、我々が身体以前にすでに存在していたことを想起することはできない。というのは身体の中にそれについての痕跡は何も存しえないし、また永遠性は時間によって規定されえず、時間とは何の関係も有しえないからである。しかしそれにもかかわらず我々は我々の永遠であることを感じかつ経験する。なぜなら精神は、知性によって理解する事柄を、想起する事柄と同等に感ずるからである。つまり物を視、かつ観察する精神の眼がとりもなおさず[我々が永遠である]ことの証明なのである。      (精神の眼)
 このように、我々が身体以前に存在したということを我々は想起しないけれども、しかし我々の精神が身体の本質を永遠の相のもとに含む限りにおいてそれ「我々の精神は永遠」であるということ、そして精神のこの存在は時間によって規定されえず持続によって説明されえないということ、そうしたことを我々は感ずる。ゆえに我々の精神は、身体の現実的存在を含む限りにおいてのみ持続すると言われうるし、またその限りにおいてのみ我々の精神の存在は一定の時間によって規定されうるのである。そしてその限りにおいてのみ我々の精神は物の存在を時間によって決定する能力、物を持続のもとに把握する能力を有するのである。          (永遠の瞬間)



哲学・思想ランキング






最終更新日  2022年08月12日 06時03分28秒
コメント(0) | コメントを書く
2022年08月11日
カテゴリ:絶対存在論
神の存否-497
定理二二 しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。
 証明 神はこのまたはかの人間身体の存在の原因であるばかりでなく、またその本質でもある(第一部定理二五 神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、また物の本質の起成原因でもある。により)。ゆえにその本質は必然的に神の本質そのものを通して考えられなければならぬ(第一部公理四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。により)。しかもある永遠なる必然性によって考えられなければならぬ(第一部定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。により)。こうしてその概念は必然的に神の中に存しなければならぬ(第二部定理三 神のうちには必然的に神の本質の、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるものの、観念が存する。により)。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 記:現代宇宙理論の人間原理、神存在が宇宙だとしても、さらには、宇宙がマルチバース(multi-verse)、ユニバース(宇宙)のユニ(単一)をマルチ(多重、多数)に置き換えた造語。宇宙は我々が存在する宇宙だけでなく、別に、または無数に存在するかもしれないという仮説に基づく。インフレーション宇宙論から導かれる無数の泡宇宙や量子力学の多世界解釈による多元宇宙など、さまざまな仮説が提唱されている。いずれも原理的に観測可能な宇宙ではなく、行くことも見ることもできない理論上の存在と考えられている世界にしろ、実は人間認識なしには実存は確認できない。世界は人間認識により実在するとも云えます。スピノザの認識哲学の神概念の認識には此れが基底にあるとも云えます。極論すれば神存在は人間存在なしには砂上の楼閣どころか神を認識するものは無乃至は虚と化します。神は人間在っての実在であり、人間は神在ってこその実存だと云えます。



哲学・思想ランキング






最終更新日  2022年08月11日 06時10分06秒
コメント(0) | コメントを書く
2022年08月10日
カテゴリ:絶対存在論
神の存否-496
 定理二一 精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり・過去の事柄を想起したりすることができない。
 証明 精神は身体の持続する間だけしかその身体の現実的存在を表現しないし、またその間だけしか身体の変状を現実的なものとして把握しない(第二部定理八の系 この帰結として次のことが出てくる。個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。により)。したがって精神は(第二部定理二六 人間精神は自己の身体の変状(アフェクトゥス)〔刺激状態〕の観念によってのみ外部の物体を現実に存在するものとして知覚する。により)その身体の持続する間だけしかいかなる物体をも現実に存在するものとして把握することがない。このゆえに精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり(第二部定理一七の備考における表象の定義 抜粋・要約:我々は普通に用いられている言葉を保存するために、人間身体の変状(アフェクティオ)〔刺激状態〕、この変状の観念によって外部の物体を我々に現在するものとして思い浮かべるのである。我々は物の形状を再現しないけれども我々はこれを物の表象像(イマゴ)と呼ぶであろう。そして精神がこのような仕方で物体を観想する時に我々は精神が物を表象(イマギナリ)すると言うであろう。を見よ)、過去の事柄を想起したり(第二部定理一八の備考における記憶〔想起〕の定義 抜粋:記憶は、人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結にほかならない。そしてこの連結は精神の中に、人間身体の変状(アフェクティオ)〔刺激状態〕の秩序および連結に相応して生ずる。を見よ)することができない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 記:人間精神は身体の変状を離れては現実存在は夢想に化す。人間身体は精神の持続なしには実存性を欠く、即ち「心身一元論」をスピノザは説きます。スピノザ思想が「無神論」若しくは「唯物主観」と問われるゆえんです。



哲学・思想ランキング






最終更新日  2022年08月10日 06時00分48秒
コメント(0) | コメントを書く
2022年08月09日
カテゴリ:絶対存在論
神の存否-495
 第五部定理二〇の備考 
 記:神存在そのものに愛があるならば、それは世界の法としての必然的形相であり完璧である筈とスピノザは捉えます。それ故に、神は存在そのものに愛があるならば人間の精神感情や行動には干渉しません。対して人間が神を愛することには大いなる意味合いと「随喜」が待つと云うのです。
 備考 この愛に直接的に相反していてこの愛を破壊させうるようないかなる感情も存しないことは同様の仕方で明らかにすることができる。したがって我々は神に対するこの愛がすべての感情のうちで最も恒久的なものであること、またこの愛が身体と結合する限りにおいては身体自身とともにでなくては破壊されえないことを結論することができる。しかしそれが単に精神のみと結合する限りにおいていかなる本性を有するかはあとで見るであろう。
 これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
一 感情の認識そのものに。
 二 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
 三 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(*持続)という点でまさっているその時間という点に。
 四 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数であるということに。
 五 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ・相互に連結しうるその秩序に。   
 しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意しなくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われるのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。なぜなら(第四部定理五 おのおのの受動の力および発展、ならびにそれの存在への固執は、我々が存在に固執しようと努める能力によっては規定されずに、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定される。により)おのおのの感情の力は、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定されるからである。ところが精神の能力は認識のみによって規定され、これに反して精神の無能力ないし受動は単に認識の欠乏によって、言いかえれば非妥当な観念を非妥当と呼ばしめるものによって、測られる。この帰結として、その最大部分が非妥当な観念から成っている精神、すなわちその能動性においてよりもその受動性においていっそう多く識別される精神は、最も受動的な精神であることになり、これに反してその最大部分が妥当な観念から成っている精神、すなわちたとえ他の精神と同様に多くの非妥当な観念を含んでいてもなおかつ人間の無能力を表わす非妥当な観念によってよりも人間の徳に属する妥当な観念によっていっそう多く識別される精神は、最も能動的な精神であるということになるのである。
 第二に次のことを注意しなければならぬ。心の病気や不幸は、主として、多くの変転に従属する物、我々の決して確実に所有しえない物に対する過度の愛から起こるのである。なぜなら、何びとも自分の愛さない物のためには不安や心配に悩まされることがないし、また、もろもろの不法・疑惑・敵意などは何びとも真に確実に所有しえない物に対する愛からのみ生ずるからである。我々は以上から、明瞭判然たる認識、特に、神の認識そのものを基礎とするあの第三種の認識(これについては第二部定理四七の備考 骨子:「第一種の認識」若しくは「表象」(十全乃至不十全の可能性)。「第二種の認識」(理性)。第三種の認識(直観による認識)を形成しうる可能性を見よ)が感情に対して何をなしうるかを容易に理解する。すなわちこの認識は、受動である限りにおいての諸感情を絶対的には除去しないまでも(この第五部の定理三 受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める。と定理四の備考 抜粋:精神が、感情から離れて、自らの明瞭判然と知覚するもの・そして自らのまったく満足するものに思惟を向けるようにすることである。つまり感情そのものを外部の原因の思想から分離して真の思想と結合させるようにすることである。とを見よ)、少なくともそれらの感情が精神の極小部分を構成するようにさせうる(この部第五部の定理一四 精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる。を見よ)。次にこの認識は、不変にして永遠なる物(この部第五部の定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならぴに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。を見よ)、我々が真に確実に所有しうる物(第二部定理四五 現実に存在するおのおのの物体ないし個物の観念はすべて神の永遠・無限なる本質を必然的に含んでいる。を見よ)に対する愛を生ずる。そのゆえにこの愛は通常の愛に潜(ひそ)むもろもろの欠点に汚されえずして、かえって常にますます大となることができ(この部第五部の定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならぴに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。により)、そして精神の最大部分を占有して(この部第五部の定理一六 神に対するこの愛は精神を最も多く占有しなければならぬ。により)、広汎な影響を精神に与えうるのである。
 これで私はこの現在の生活に関する一切の事柄を終了した。なぜなら、私がこの備考の冒頭に述べたように、これら若干の定理の中に感情に対するすべての療法が総括されていることは、この備考の内容に、同時にまた、精神およびその諸感情の定義に、そして最後に、第三部定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。および、第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。に、注意する者には誰にも容易に分かるであろう。
 ゆえに今や身体に対する関係を離れた精神の持続に関する問題に移る時である。



哲学・思想ランキング






最終更新日  2022年08月09日 06時01分23秒
コメント(0) | コメントを書く
2022年08月08日
カテゴリ:絶対存在論
神の存否-494
 記:スピノザが解する神とは完全体であり、そこには不足不充は無く、何かを求めると思考するのは不条理であると示します。それ故に人間に対してその精神感情や行動に対して何等かの干渉をするのは不合理となります。丁度、世界の法一切を覚り正覚者「仏陀」と成った紀元前6世紀のインドのガウタマ・シッダールタが「法」の慈悲の心を説いたのとは一線を画するかもしれません。スピノザの解く神の愛は他者はなく全てであり、意識することすらからも無縁です。神を説いたスピノザ、法を説いた仏陀、その接点は深淵に架かる吊り橋の如しです。
 定理二〇 神に対するこの愛はねたみや嫉妬の感情に汚されることができない。むしろより多くの人間が同じ愛の紐帯によって神と結合することを我々が表象するに従って、この愛はそれだけ多くはぐくまれる。
 証明 神に対するこの愛は我々が理性の指図に従って徴求(ちょうきゅう)しうる最高の善である(第四部定理二八により)、そしてこの最高の善はすべての人に共通であって(第四部定理三六 徳に従う人々の最高の善はすべての人に共通であって、すべての人が等しくこれを楽しむことができる。により)、我々はすべての人がそれを楽しむことを欲する(第四部定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)。したがってこの愛はねたみの感情に汚されることができないし(感情の定義二三 ねたみとは他人の幸福を悲しみまた反対に他人の不幸を喜ぶように人間を動かす限りにおける憎しみである。により)、また嫉妬の感情に汚されることもできない(この部第五部の定理一八 何びとも神を憎むことができない。および、嫉妬の定義による。嫉妬の定義は第三部定理三五の備考ねたみと結合した、愛するものに対するこの憎しみは、嫉妬と呼ばれる。したがって嫉妬とは、同時的な愛と憎しみから生じかつそれにねたまれる第三者の観念を伴った心情の動揺にほかならない。について見よ)。
 むしろ反対にこの愛は(第三部定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を、すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。により)より多くの人間がこれを楽しむことを我々が表象するに従って、それだけ多くはぐくまれざるをえない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。



哲学・思想ランキング






最終更新日  2022年08月08日 06時10分07秒
コメント(0) | コメントを書く
2022年08月06日
カテゴリ:絶対存在論
神の存否-493
 定理一九 神を愛する者は、神が自分を愛し返すように努めることができない。     (*ゲーテ)
 証明 もし人間がこのことに努めるとしたら、彼は(この部第五部の定理一七の系 神は本来的な意味では何びとをも愛さずまた何びとをも憎まない。なぜなら、神はいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされず、したがって神は何びとをも愛さずまた何びとをも憎まないのである。により)自分の愛する神が神でないことを欲することになるであろう。したがってまた彼は(第三部定理一九 自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これに反して自分の愛するものが維持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。により)悲しみを感ずることを欲することになるであろう。これは(第三部定理二八 ある人がその愛するものを憎み始めてついに愛がまったく消滅するに至る場合、彼は、それを全然愛していなかった場合よりも、もしその憎む原因が両方の場合相等しいとしたら、より大なる憎しみに捉われるであろう。そしてこの憎しみは以前の愛がより大であったに従ってそれだけ大であるであろう。により)不条理である。ゆえに神を愛する者は云々。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 記:報償論 スピノザにおいては神が人間精神感情やその行為に干渉するのは、人格性を付与された「神格」だと解き、絶対的存在はそれらとは相違し、一切の受動は無く「能動」のみの存在であり人間の精神感情や行為からの影響からは隔絶されています。然し乍ら、人間が神の存在を認識「直感知」すれば、そこには随喜が生じるものであり、インド大陸の正覚者「仏陀」の悟り、一切の煩悩(ぼんのう)から解脱した、不生不滅の高い仏教の究極的な実践目的の境地「生前涅槃(随喜)」を連想させます。



哲学・思想ランキング






最終更新日  2022年08月06日 06時02分07秒
コメント(0) | コメントを書く
2022年08月05日
カテゴリ:絶対存在論
神の存否-492
 定理一八 何びとも神を憎むことができない。
 証明 我々の中における神の観念は妥当かつ完全である(第二部定理四六 おのおのの観念が含んでいる神の永遠・無限なる本質の認識は妥当で完全である。および、同部定理四七 人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。により)。 ゆえに我々は神を観想する限り、その限りにおいて働きをなすものである(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)。 したがってまた、(第三部定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。により)神の観念を伴ったいかなる悲しみもありえない。言いかえれば(感情の定義七 憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみである。により)何びとも神を憎むことができない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 系 神に対する愛は憎しみに変ずることができない。
 備考 しかし次のような駁論がなされるかもしれぬ。我々は神をすべての物の原因として認識するのだから、まさにそのことによって我々はまた神を悲しみの原因と見るものである、と。だがこれに対して私は次のごとく答える、我々が悲しみの原因を認識する限り、その限りにおいて悲しみは受動であることをやめる(この部第五部の定理三 受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める。により)。言いかえればその限りにおいてそれは悲しみであることをやめる(第三部定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。により)。したがって我々が神を悲しみの原因として認識する限り、我々は喜びを感ずるのである、と。
 参照:慈悲は仏教で重視する用語。「慈」はサンスクリット語のマイトリー(maitrī/友情)にあたり、深い慈しみの心をさし、「悲」はカルナー(karunā/同情)にあたり、深い憐(あわれ)みの心をさす。仏典では、生きとし生ける者に幸福を与える(与楽)のが慈であり、不幸を抜き去る(抜苦)のが悲であるというが、慈と悲はほとんど同じ心情を表し、マイトリーまたはカルナーという原語だけで「慈悲」と訳されることも多い。大慈、大悲、大慈悲というときは、仏や菩薩の慈悲を表す。仏の慈悲は、生ける者の苦しみを自己の苦しみとするので「同体(どうたい)の大悲」といい、上を覆いかぶせるものがない広大なものであるので「無蓋(むがい)の大悲」ともいう。諸経論には、慈悲に(1)生きとし生ける者に対して起こすもの(衆生縁)、(2)すべての存在は実体がないと悟り執着を離れて起こすもの(法縁)、(3)なんらの対象なくして起こすもの(無縁))の3種があり(三縁の慈悲)、このうち無縁の慈悲が無条件の絶対平等の慈悲であり、空(くう)の悟りに裏づけられた最上のもので、ただ仏にのみあるという。  日本大百科全書(ニッポニカ)「慈悲」の解説
 記:神教と仏教は同義語の「宗教」とはいえ、その宗旨には、はかりり知れない隔たりがあります。スピノザの認識哲学はどちらの宗旨に近似するのか、世界(神)→人間、若しくは世界←人間(仏)の方向性から検討すべき課題が浮かび上がります。



哲学・思想ランキング






最終更新日  2022年08月05日 06時01分31秒
コメント(0) | コメントを書く
2022年08月04日
カテゴリ:絶対存在論
神の存否-491
 定理一七 神はいかなる受動にもあずからず、またいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない。
 証明 すべての観念は神に関係する限り真である(第二部定理三二 すべての観念は神に関係する限り真である。により)。言いかえれば(第二部定義四 無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じてくる神の観念はただ唯一でしかありえない。により)妥当である。ゆえに(感情の総括的定義 抜粋:我々は完全性ということを物の本質そのものと解する。により)神はいかなる受動にもあずからない。次に神はより大なる完全性へ移行することも、またより小なる完全性へ移行することもありえない(第一部定理二〇の系二 神あるいは神のすべての属性は不変であることになる。なぜなら、もしそれが存在に関して変化するなら、本質に関しても変化しなければならないであろう。言いかえれば、それ自体で明らかなように、異なるものが偽なるものになることになるであろう。これは不条理である。により)。したがって神は(感情の定義二 喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行することである。および、感情の定義三悲しみとは人間がより大なる完全性からより小なる完全性へ移行することである。により)いかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 系 神は本来的な意味では何びとをも愛さずまた何びとをも憎まない。なぜなら、神は(前定理一六 神に対するこの愛は精神を最も多く占有しなければならぬ。により)いかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされず、したがって神は(感情の定義六 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。および、感情の定義七 憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみである。により)何びとをも愛さずまた何びとをも憎まないのである。



哲学・思想ランキング






最終更新日  2022年08月04日 06時10分05秒
コメント(0) | コメントを書く
2022年08月03日
カテゴリ:絶対存在論
神の存否-490
 定理一四 精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる。
 証明 精神が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しない(この部第五部の定理四 我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しない。により)。したがって精神はすべての身体的変状を神の観念に関係させることができる(第一部定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。により)。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。

 定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならぴに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。
 証明 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は喜びを感ずる(第三部定理五三 定理五三 精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる。そして自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる。により)。しかもその喜びは神の観念を伴っている(上記前定理一四により)。したがって彼は(感情の定義六 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。により)神を愛する。そして(同じ感情の定義六の理由により)彼は自己ならびに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。



哲学・思想ランキング






最終更新日  2022年08月03日 06時01分51秒
コメント(0) | コメントを書く

全4077件 (4077件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 >

PR


© Rakuten Group, Inc.