「時間」を紐解く(78)私見-時間観(二十)現在の特異性
我々の霊魂或いは心の内在世界にあっては、過去は想起という過去性をもって、「現在」は「今」現実に体験しているありありとした現実性・本当性をもって、未来は予期という未来性をもって、其々を持続する経緯として時間を捉えています。だが、時間心象論者我々の心の純粋精神は持続を流れとして過去から現在そして未来と時間を捉えることが出来得るが、内在世界を離れた外在的現実世界には、変化する「瞬間」としての継起はあっても、過去は外在世界からは失われたもので最早無いし、未来は排他性のない成否決めがたい世界です。物理学的には証明可能なのかを問わず、空間世界としての宇宙は時間とともに、増々膨張しているようにも思えるし、身の回りの建物や景色も時間の支配を受けて変化している様にも思えます。この観点から見ると時間はまったくのところ、あらゆる物にとって等質的であると想えます。更に時間は力学の公式のなかにも、天文学のみならず物理学者の計算のなかにも時間は量として入ってくる。運動の速度を測量するということは、時間もまた一つの大きさであることを示しているとします。しかし、アリストテレスの曰くが如く、運動の前と後ろの「今」或いは「期間」の同時性の数だけを運用しているだけであって・それをもって「時間存在」の証明にはならないとする意見は此れ丈では崩壊しません。外在世界の現り現りとした現実は、実は外在世界からは失われた過去は、現在に過去化した「現在」として取り込まれており、未来は排他性がないにしても「現在」の中には因果性から既に取り込まれています。通り過ぎた過去は現実在を持って「現在」に取り込まれ、未だ来ぬ未来も現実在を持って「現在」に取り込まれ、ただ、我々がアリアリと体験するところの外在世界には、「変化」の体験としての「現在化した過去」及び「現在化する或いは過去化した未来」をも包含するところの時間観念を離れた創造者としての「有」、即ち「実体」としての「現実在」のみが存在することに気付かされます。