「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ31
世界の悉(ことごと)くの存在を疑う懐疑論の行き着く先が「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」の「デカルトの哲学原理」を、スピノザは思惟する私が存在するという自己意識の直覚と捉え「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitansを)」と解釈しています。此の西洋思考はインド大陸の仏教哲学とは対照すれば陰と陽、鏡の中に自己の精神を見る者と鏡に映る自己を消し去る事により「存在」を直覚として捉えんとする我執を無きものとしたときに存在の真相を観相出来得るとする正反対の思考順序が特徴的です。勿論のこと、シッダルタも存在の真相を突き詰めていくのに何も考えるなとは言ってはいません。自分の思考を追求したが故の判断であり「我思う故の思う自己にある自我」を放棄或いは昇華せよという訳です。間違ってならないのは我執を捨て去る「無我」を手中にするにはデカルトの哲学原理である「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」やスピノザの「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans)」を前提にしていることは紛れも無く真実でしょう。そうでなければ、仏道修養は何の役(えき)にも立たないし、我執が無いならばゴキブリやスピロヘータが「無我の境地である覚り」を獲得していることになります。
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