時間の陥穽173
アリストテレスの自然観から齎される時間観は、形而上学の「今」はもはや無い現在しない過去、来たるべき「今」であるが現在しない未来を、「今」の現実在を実相として捉え其処「今」を支点として時間を俯瞰しようとする努力の賜物です。今だけが「現実在」として人間精神に現実味を与えてくれる唯一のものだからです。「中論」著者の龍樹にしても時間なるものをばは否定するにしても「今」現在するものは否定はしていません。彼の「中論」第19章「時間の考察」中村元著「龍樹」の原文訳を見れば、もしも現在と未来とが過去に依存しているのであれば、現在と未来とは過去の時のうちに存するであろう。もしもまた現在と未来とがそこ(過去)のうちに存しないならば、現在と未来とはどうしてそれ(過去)に依存して存するであろうか。さらに過去に依存しなければ、両者(現在と未来)の成立することはありえない。それ故に現在の時と未来の時とは存在しない。これによって順次に、残りの二つの時間(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきである。未だ住しない時間は認識されえない。すでに住して、しかも認識される時間は存在しない。そうして未だ認識されない時間が、どうして知られるのであろうか。もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。大乗哲学「縁起」論から時間は否定しますが「今」まさに現在するものは否定してはおりません。
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