30365968 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年07月24日
XML
カテゴリ:絶対存在論
神の存否-116
 スピノザは定理定理二一の証明の後半部で、「思惟の中に神の観念が生ずると考えてみよ。さて思惟は神の属性と仮定されているのだから、その本性上必然的に無限である」と述べています。此の「思惟(しい・しゆいに同じ)」の語句ですが、哲学では感覚、知覚以外の認識作用。分析、総合、推理、判断などの精神作用をいうとありますが、スピノザの云う「思惟」はどの様な意味合いが与えられているのでしょう。スピノザは仏教にも造詣が深かったと推定されており、「思惟」は単に思い巡らす思考ではなく、世界のありとあらゆるものを対象とする思考、仏教の覚りを「思惟」の本意としているように憶えます。
 次に、ある属性の本性の必然性からこのようにして生起するものは定まった存在ないし持続を有することができない。なぜというに、これを否定しようと思う者は、ある属性の本性の必然性から生ずる物が神のある属性の中に在る、例えば神の観念が思惟の中に在ると仮定し、なおまたこの観念がかつて存在しなかったあるいは将来存在しなくなるであろうと仮定せよ。ところで思惟は神の属性と仮定されているがゆえに必然的にかつ不変的に存在しなければならぬ(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。および定理二〇の系二系二 第二に、神あるいは神のすべての属性は不変であることになる。なぜなら、もしそれが存在に関して変化するなら、本質に関しても変化しなければならないであろう(前定理により)。言いかえれば(それ自体で明らかなように)異なるものが偽なるものになることになるであろう。これは不条理である。)により。ゆえに神の観念の持続する限界の外では(というのは神の観念はかつて存在しなかった、あるいは将来存在しなくなるであろうと仮定されているのだから)思惟は神の観念なしに存在しなければならないであろう。ところがこのことは仮定に反する。なぜなら、思惟が与えられればそれから必然的に神の観念が生ずると仮定されているのだから。このゆえに、思惟の中における神の観念、または、神のある属性の絶対的本性から必然的に生起するある物は、定まった持続を有することができ、むしろその属性によって永遠である。これが証明すべき第二の点であったと、神の絶対的本性から神のある属性の中に必然的に生起するすべてのものについても同じことが当て嵌まるとに注意されたいと念を押します。



哲学・思想ランキング





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年07月24日 06時10分04秒
コメント(0) | コメントを書く
[絶対存在論] カテゴリの最新記事


PR

プロフィール

cap-hiro

cap-hiro

サイド自由欄

カテゴリ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

バックナンバー

楽天カード

フリーページ


© Rakuten Group, Inc.