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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2021年09月07日
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カテゴリ:絶対存在論
神の存否-162
 スピノザ著「エチカ」の定理三三の備考二では、物が最も完全な本性から必然的に生起したことを更に詳細に述べます。
  備考二の前半部 前述のことからして、物は与えられた最も完全な本性から必然的に生起したのだから最高の完全性において神から産出されたのだということが明瞭に帰結される。このことは神に何の不完全性をも負わせるものではない。なぜならまさに神の完全性がこのことを我々に主張するように迫るのだから。のみならずもし逆、最も完全な本性から必然的に生起したののが物ならば、最高の完全性においては、神が最高完全でないということが明瞭に帰結されるであろう。なぜなら、前述したようにもし物が他の仕方で産出されたとしたら我々が最高完全な実有の考察に基づいて神に帰せざるをえなかった本性とは異なる他の本性を神に帰することになるからである。然れども、多くの人々がこの見解を不条理なものとして排斥しこれを熟考する気にならないことを私は疑わない。それというのも彼らは我々が述べた(定義七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。)とはまるで異なる他の自由を、すなわち絶対的意志を、神に帰するのに慣れているからにほかならない。しかし彼らが事態を瞑想し・我々の諸証明の系列をよく熟慮しようとするならば、ついに彼らは、いま神に帰しているような種類の自由を単に愚かしいものとしてだけではなく、さらにまた知識の大きな障害としてまったく放棄するだろうこと、これまた私の疑わないところである。



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最終更新日  2021年09月07日 06時10分05秒
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