カテゴリ:絶対存在論
神の存否-215
スピノザの「有」概念は、神の実体であり、変わらぬ絶対存在としての意識、その意思と精神の「常住・恒常の有」です。対して人間の精神のなかの有と覚える観念は、其の人間が在するものと観相する現実的、つまりは、自己が実相を捉えていると思う精神であり、常住・常恒・実体の本来的な有ではなく、スピノザは其れを人間精神の「現実的有」つまりは「観念としての有」と呼称します。 定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。 証明 人間の本質は(前定理一〇 人間の本質には実体の有は属さない、あるいは実体は人間の形相(フォルマ)を構成しない。)の(系 人間の本質は神の属性のあるあり方の様態的変状から構成されていることになるこの帰結として、人間の本質は神の属性のある様態的変状から構成されていることになる。)により神の属性のある様態から、すなわち、人間は思惟の諸様態から構成されている。そしてこれらすべての様態にあっては(この部の公理三により)観念が本性上さきであって、観念が与えられればその他の諸様態(すなわち本性上観念のあとになるもの)が同じ個体の中に存しなければならぬ(この部の公理三 愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の様態が存しなくとも存在することができる)により。したがって観念は人間精神の(*現実的)有を構成する最初のものである。 しかしそれは存在しない物の観念ではない。なぜなら、その場合は(この部の定理八の系 個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有、すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。)により、観念自身が存在すると言われ得ないからである。ゆえにそれは現実に存在する物の観念でなければならぬであろう。 しかしまたそれは無限な物の観念ではない。なぜなら、無限なものは(第一部定理二一 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。および、第一部定理二二 神のある属性が、神のその属性によって必然的にかつ無限に存在するようなそうした一種の様態的変状に様態化した限り、この属性から生起するすべてのものは同様に必然的にかつ無限に存在しなければならぬ。)により、常に必然的に存在しなければならぬ。しかし人間についてそれを言うのは(この部の「第二部「精神の本性および起源について」の公理一人間の本質は必然的存在を含まない。言いかえれば、このあるいはかの人間が存在することも存在しないことも同様に自然の秩序から起こりうる。)により不条理である。 ゆえに人間精神の現実的有を構成する最初のものは現実に存在する個物の観念である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部であるということになる。したがって、我々が「人間精神が此のこと、或いは、彼のことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてではなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神が此の、或いは、彼のことの観念をもつ」と言うのにほかならない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。 備考 ここで読者は疑いもなく蹟(つまず)くであろう。そして躊躇を促す多くのことが心に浮かぶであろう。この理由から私は、読者がゆっくり私とともに歩を進めて、すべてを通読するまではこのことについて判断を下さないようにお願いする。 此処では、スピノザは人間の感覚・情動的知と理性的知、更には「直観知(scientia intuitiva)若しくは直覚知」を予言しています。実体が、世界の時間軸とは無縁の先後を問えない永久無限で唯一の因子であることに鑑み、哲学及び宗教並びに物理学が挑戦しますが、今は未だ、万人への解答は得られてはいません。 哲学・思想ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年10月30日 06時00分32秒
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