カテゴリ:絶対存在論
神の存否-248
人間の心身の問題は科学が発達した現代でも未だに解明されたとは云えず、問題視されている課題です。たとえ人間の身体を解剖したとしても「心」がどこにも見つからないからです。しかし、我々人間は普段通常に生活しているなかで、物事を考え、それによって行動しています。腹が空けば何か食べようと思い、怪我をすれば痛いと感じる。そのため故に、たとえ「心」が自身にも見えないものだとしても、人間は「心」をどこかに持っていて、「心」と「身体」二つ併せで「私」だと考えるのが自然です。この意識したり行動したりする自分の主体を自我といいますが、自我が単なる観念ではなく絶えず自己の身体を認識していることは疑いを得ません。然し乍ら、デカルトは心身二元論を唱え、私というのは考えるのみの存在であるとして「我考うゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」という有名な言葉を残します。考えるのみの自分とはどうゆうことなのか。それは考えていること、そのことだけで自分なのであり、自分の身体というものは格別に必要とはせずに、別になくても自分は存在するということだと説きました。それでは、私というときの身体はいったい何なのだろうか。後にデカルトは心身合一を認めた上でもデカルトは心身二元論を根底ではそれを貫くことになりますが、スピノザが延長実体と思惟実体は実は同じもので、それが一方で物理的な無限宇宙に様態化し、同時に他方で無限知性に様態化していると考えることができるとしてデカルト派の激昂を受けることになります。 定理二七 人間身体のおのおのの変状(刺激状態)の観念は人間身体そのものの妥当な認識を含んでいない。 証明 人間身体のおのおのの変状の観念は、すべて、人間身体自身がある一定の仕方で刺激されると見られる限りにおいて人間身体の本性を含んでいる(この部第二部の定理一六 人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。を見よ。)しかし人間身体がなお多くの他の仕方で刺激されうる個体である限りにおいてはそれの観念は云々、以降省略。この部第二部の定理二五の証明 外部の物体の妥当な認識は、神が人間身体の変状の観念を有する限りにおいては神の中にない。すなわち人間身体の変状の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいないを見よ。 哲学・思想ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年12月03日 06時10分05秒
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