カテゴリ:絶対存在論
神の存否-461
定理六六 理性の導きに従って我々は、より小なる現在の善よりはより大なる未来の善を、またより大なる未来の悪よりはより小なる現在の悪を欲求するであろう。 証明 もし精神が未来の物に関して妥当な認識を有しうるとしたら、精神は未来の物に対しても現在の物に対するのと同じ感情に刺激されるであろう(この部第四部の定理六二 精神は、理性の指図に従って物を考える限り、観念が未来あるいは過去の物に関しようとも現在の物に関しようとも同様の刺激を受ける。により)。ゆえに我々が理性そのものを念頭に置く限りにおいて、省略〜〜この定理六六で我々はそうした場合を仮定しているのである。省略〜〜より大なる善ないし悪が未来のものと仮定されようと現在のものと仮定されようとそれは同じことである。このゆえに(この部第四部の定理六五 理性の導きに従って我々は、二つの善のうちより大なるものに、また二つの悪のうちより小なるものに就くであろう。により)我々はより小なる現在の善よりはより大なる未来の善を、またより大なる未来の悪よりは云々。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 理性の導きに従って我々は、より大なる未来の善の原因たるより小なる現在の悪を欲求し、またより大なる未来の悪の原因たるより小なる現在の善を断念するであろう。この系は前定理に対して、定理六五の系が定理六五に対するのと同一の関係にある。 備考 そこでもしこれらのことをこの部第四部の定理一八までに感情の力について述べたことどもと比較するなら、感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違があるかを我々は容易に見うるであろう。すなわち前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのため自己の最も欲する事柄のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名づける。なお自由人の心境および生活法について以下に若干の注意をしてみたい。 記:スピノザの言う感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との区分の背景には、信仰と狂信、精神のモチベーション( 目的意識/motivation)の自由認識批判が見え隠れします。 哲学・思想ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年07月05日 06時10分07秒
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