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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年07月07日
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カテゴリ:絶対存在論
神の存否-463
 記:仮に人が、スピノザが捉える、自由意思なるものを認識するものが生まれるとしたら、神の子は神の身体「形而学上の形態」とり、佛の子は仏の肉体(大日如来即ち大宇宙・阿弥陀仏・弥勒菩薩)と精神を携え顕現し此の世に顕現した筈である。ところが然り、ナザレのイエスは自由なる意思を父なる神に一定の目的(人間の贖罪による再契約)の制約を受けて誕生し、釈迦族皇太子シッダールタは小王国の両親を持つ
肉体を受け継いでいます。将又、スピノザは理性のみによって導かれる人を自由であると言った。ところが、人間が生まれながらに理性を持ったという史実は、信仰をおいては確認されてはいない。スピノザは生まれながらの自由人には懐疑的であったことには間違いない。(*天上天下唯我独尊)
 定理六八 もし人々が自由なものとして生まれたとしたら、彼らは自由である間は善悪の概念を形成しなかったであろう。
 証明 私は理性のみに導かれる人を自由であると言った。そこで自由なものとして生まれかつ自由なものにとどまる人は妥当な観念しか有しない。またそのゆえに何ら悪の概念を有しない(この部第四部の定理六四の系要略:人間の精神は、もし妥当な観念しか有しないとしたら、悪に関するいかなる概念も形成しないであろうということになる。により)。したがってまた善の概念をも有しない(善と悪とは相関的概念であるから)。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 備考 この定理の仮定が誤りであること、そしてそれは人間本性だけを眼中に置く限りにおいてのみ、あるいはむしろ、無限なものとしての神ではなく、単に人間の存在の原因にすぎない神を眼中に置く限りにおいてのみ、考えられるのだということは、(この部第四部の定理四 人間が自然の一部分でないということは、不可能であり、また人間が単に自己の本性のみによって理解されうるような変化、自分がその妥当な原因であるような変化だけしか受けないということも不可能である。)から明らかである。
 このことや我々のすでに証明したその他のことどもは、モーゼが最初の人間に関するあの物語の中で暗示しているように見える。すなわちその物語の中では、人間を創造したあの能力、言いかえれば人間の利益のみを考慮したあの能力、以外のいかなる神の能力も考えられていない。そしてこの考え方にそって次のことが物語られている。すなわち神は自由な人間に対して善悪の認識の木の実を食うことを禁じた、そして人間はそれを食うや否や生を欲するよりもむしろ死を恐れた、それから人間は自己の本性とまったく一致する女性を発見した時、自然の中に自分にとって彼女より有益な何ものも存しえないことを認めた、しかし彼は動物が自分と同類であると思ってからはただちに動物の感情を模倣(第三部定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。を見よ)して自分の自由を失い始めた。この失われた自由を、族長たちが、そのあとでキリストの精神、すなわち神の観念*神の観念は人間が自由になるための、また前に証明したように(この部第四部の定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。により)人間が自分に欲する善を他の人々のためにも欲するようになるための、唯一の基礎である本質・・・云々、に導かれて再び回復したのであった。



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最終更新日  2022年07月08日 01時56分31秒
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