Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

2024/08/03(土)09:43

ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー

霊魂論(726)

ルドルフ・シュタイナー 「精神科学と医学」(GA312) 第一講(本文・解説付) 第5回 第1講・第5回  1842年に出版されたロキタンスキーの「病理学的解剖学」以後の20年間が、世界を原子論的・ 唯物論的にとらえる医学の基礎となりました。然し乍ら、細胞説を樹立したシュヴァン(Theodor Schwann)においては、細胞形成の根底に形式化されてない液体形成があり、細胞的なものが発生するには液体的要素に依っているのだとしています。つまり、液体病理学的なところをまだ有しているということなのですが、それが同時に、人間の生体組織は細胞から構成されているというような今日の常識の基礎にもなっているということがいえるのは皮肉なものです。 参考画:Matthias Jakob Schleiden - Theodor Schwann  さて今度は、ロキタンスキーの「病理学的解剖学」出版後の20年間が、医学の本質の原子論的・唯物論的考察にとっての本来の基礎をなす期間となったことに注目してみたいと思います。古くからのものは、奇妙なことになおも19世紀前半に形成された表象の中に入りこんでいるのです。ですから、例えば、植物細胞の発見者と言えるシュヴァンはなお、細胞形成の根底には、ある種の形式化されてない液体形成、彼が胚胞とみなした液体形成があるという見解を持っていますが、彼のように、この液体形成から細胞核が硬化し、細胞原形質が周囲に分化するのを観察するのは興味深いことです。シュヴァンがなお、細分化していく方向に流れる特性を内在させている液体的要素に依拠していること、そしてこの細分化を通して細胞的なものが発生することを観察するのが興味深いのです。さらに興味をひくのは、人間の生体組織は細胞から構成されている、という言葉で総括し得る見解が、その後次第次第に形成されていくのを追求することです。細胞は一種の基本的有機体であり、人間の生体組織は細胞から構成されているという見解は、実際今日あたりまえになっているものでしょう。さて、シュヴァンがなおもその行間に、いやその行間以上に、と私は言いたいのですが、有していたこの見解は、つまるところ古代の医学の本質の最後の名残りなのです。なぜならこの見解は原子論的なものには向けられないからです。この見解は、原子論的に現れてくるもの、細胞質を、きちんと観察すれば決して原子論的には観察できないもの、つまり液体的な何かから生じてくるものとして観察します。この液体的なものが力を内在させていて、この力が自らのうちから原子論的なものを分化していくというのです。1858年に出版されたウィルヒョウの「細胞病理学」によって、より普遍的であった古代の医学の見解は終焉にむかいます。人間に現れてくるものがすべて細胞作用の変化からとらえられるようになり、器官組織の細胞の変化から病気が理解されるようになりました。こうした「原子論的観察」はきわめて分かり易いのですが、その分かり易さこそが、自然や宇宙の本質に覆いをかけてそれを見えなくさせてしまっているのです。19世紀の40年代と50年代のこの20年間に、より普遍的であった古代の見解は終焉に向かい、原子論的な医学的見解が黎明を迎えます。1858年にウィルヒョウの「細胞病理学」が出版されたのがまさしくその時でした。実際この二つの著作、つまり1842年のロキタンスキーによる「病理学的解剖学」と、1858年のウィルヒョウの「細胞病理学」の間に、近代の医学的思考における大きな飛躍的転回を見出さねばなりません。この細胞病理学により根本的に、人間に現れてくるものはすべて細胞作用の変化から推論されるようになります。公的な見解にしたがって、すべてを細胞の変化に基づいて構築することが理想とみなされます。ある器官組織の細胞の変化を研究し、この細胞の変化から病気を理解しようとすることにこそ理想が見出されるのです。こうした原子論的観察は実際容易なものです。つまるところそれは自明の理とでも言うべきものなのですから。すべてをこのように容易に理解できるように作りあげることができます。こうして、近代科学はあらゆる進歩をとげたとはえ、この科学はあいもかわらずすべてを容易に理解することを目指し、自然の本質と宇宙の本質はきわめて複雑なものなのだということを考えてもみないのです。これは簡単に実験で確かめられるでしょうが、例えばアメーバは水中でその形を変化させ、腕のような突起を伸ばしたり、また縮めたりします。それからアメーバが泳いでいる水を暖めたとします。すると、ある特定の温度になるまでは、突起を伸ばしたり縮めたりするのがだんだん活発になるのがわかります。その後、アメーバは収縮してしまい、もはや周囲の媒体で起こっている変化について行けなくなります。また、この液体のなかに流れを作り出すと、アメーバはその体を球状にし、流れをあまりに強くすると、最後には破裂してしまうのが観察されます。つまり個々の細胞が環境の影響によってどのように変化するかを研究し、そこから、いかに細胞の本質の変化により次第に病気の本質が構築されるかという理論を形作ることができるわけです。 19世紀の40年代と50年代のこの20年間に、世界を原子論的・唯物論的に理解しようとする傾向が形成されたとえいます。今日の医学の基礎がそこで形成されたといえるのです。20年間に起こった転換によって到来したもの、これらすべての本質とは何なのでしょうか。この時ひき起こされたものは、今日公認された医学のすべてを貫いているものの中に実際生き続けています。この時ひき起こされたものの中に生きているのは、まさしく唯物論的な時代に形成された、世界を原子論的に理解しようとする傾向に他なりません。 <註釈> *小林鼎三「医学の歴史」(中公新書)を参考。 ■シュヴァン(Theodor Schwann/1810-1882) 細胞説を樹立。シュヴァンは1839年に「動物と植物の構造と成長における一致について」という論文をだしたが、これは動物も植物と同じく細胞からできていることを初めて述べたものである。 ■ウィルヒョウ(Rudolf Ludwig Karl Virchow/1821-1902) ポメラニア生まれで、ベルリンの軍医学校に学んだ。病理解剖学をめざしてすすみ、これと臨床医学との提携を生涯の仕事として大きな成果をおさめた。1849年にヴュルツブルグの教授となり、7年後ベルリン大学に転じた。そして1858年に「細胞病理学」を著した。ガレヌスの液体病理学は遠く過去のものとなり、モルガーニは病気の座として器官を考え、ビシャーはそれを組織においた。ウィルヒョウはさらに生活体の単位である細胞にその座を置いたのである。彼は「すべての細胞は細胞より生ず」という生物学の鉄則をつくった人である。1863-68年には彼の「病的腫瘍論」がでた。ウィルヒョウは長い間病理学の法王ともいえる最高の地位にあった。人類学にも造詣が深かったし、政治的にも活躍して民間政党の首領であり、ビスマルクと渡りあったといわれる。 参照画:ウィルヒョウ    第1講・第5回了 哲学・思想ランキング

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