神の存在-474
神の存否-474 第 五 部 構成序言、公理、一、二、定理、一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、四一、四二、 知性の能力あるいは人間の自由について 序 言(前半) 最後に私は自由に達する方法ないし道程に関する倫理学(エチカ)の他の部分に移る。私はこの部で理性の能力について論ずるであろう。すなわち理性そのものが感情に対して何をなしうるかを示し、次に精神の自由ないし至福とは何であるかを示すであろう。これによって我々は賢者が無知者よりどれだけ有能であるかを見るであろう。しかし知性はいかなる方法、いかなる道程で完成されなければならぬか、さらにまた身体はその機能を正しく果しうるためにはいかなる技術で養護されなければならぬかはここには関係しない。なぜなら後者は医学に属し、前者は論理学「logic/ロジック(ギリシア語の形容詞 λογικ, logica))」に属するからである。ゆえにここでは、今も言ったように、精神ないし理性の能力だけについて論ずるであろう。特に、それが感情を抑制し統御するために、感情に対してどれだけ大きなまたどのような種類の権力を有するかを示すであろう。なぜなら、我々が感情に対して絶対的権力を有しないことはすでに前に証明したからである。 ストア学派では感情が絶対に我々の意志に依存して我々は感情を絶対に支配しうると信じていた。けれども彼らは、経験の抗議により、彼ら自身の原理に反して、「感情を抑制し統御するには少なからぬ訓練と労力を要する」ということを容認せざるをえなくなった。ある人はこれを(私の記憶に誤りがなければ)二匹の犬、一は家犬、他は猟犬、の例によって示そうと試みた。すなわちその人は訓練によってついに、家犬が猟をするように、また反対に猟犬が野兎を追うことを止めるように、慣らすことができたというのである。 デカルトも少なからずこの意見に傾いている。なぜなら彼は、魂つまり精神は松果腺と呼ばれる脳の一定部分と特別に結合していること、この腺を介して精神は身体内に起こるすべての運動ならびに外部の対象を感覚すること、そして精神は単に意志するだけでこの腺を種々さまざまに動かしうること、そうしたことを主張しているからである。 彼の主張によれば、この腺は脳の中央に懸(かか)っていて動物精気のごく微細な運動によっても動かされうるようになっている。なお、動物精気が多くの異なった仕方でこの腺を衝くのに応じてこの腺は脳の中央においてそれだけ多くの異なった状態を呈すること、さらにまた動物精気をこの腺に向かって推進せしめる外部の対象が種々異なるのに応じてそれだけ多くの異なった痕跡がこの腺に刻印されることを彼は主張している。したがって、もし松果腺があとで、これを多種多様に動かしうる精神の意志によって、かつてさまざまに刺激された精気の活動のもとに呈したことのあるこのあるいはかの状態を呈すると、今度はこの腺自身が、以前にこれと類似の腺状態において動物精気を体内に押し戻したのと同じ仕方で、精気を推進せしめかつ指導するようになる。 なおまた彼は精神のそれぞれの意志が自然的に一定の腺運動と結合していると主張する。例えばある人が遠方の対象を見ようとする意志を持つなら、この意志は瞳孔の拡大をひき起こすであろう。しかし単に瞳孔を拡大しようと思う場合、その意志を持っても瞳孔は拡大しないであろうなぜなら自然は、瞳孔の拡大ないし縮小をきたすように精気を視神経へ推進せしめる役目をなす腺運動を、瞳孔を拡大ないし縮小しようとする意志とは連結しないで、遠くのあるいは近くの対象を見ようとする意志にのみ連結したからである。 最後に彼は、この腺のそれぞれの運動は我々が生まれた時以来自然的に我々のそれぞれの思想と連絡されているように見えるけれども、それにもかかわらずこの運動を習慣によって他の思想と連結することもできると主張し、これを彼は『感情論』第一部第五〇節で証明しようと試みている。 (デカルト「情念論」)哲学・思想ランキング