神の存在-422
神の存否-422 定理三三 人間は受動という感情に捉われる限りにおいて本性上たがいに相違しうるし、またその限りにおいては同一の人間でさえ変りやすくかつ不安定である。 証明 感情の本性ないし本質は単に我々の本質ないし本性のみによっては説明されえない(第三部定義一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な〔十全な〕原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当な〔非十全な〕原因あるいは部分的原因と呼ぶ。および定義二により)。寧ろ、それは我々の能力と比較された外部の原因の力、言いかえれば(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)外部の原因の本性によって規定されなければならぬ。この結果として、すべて感情には我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類があるということになるし(第三部定理五六を見よ)、また人間が同一の対象から異なった仕方で刺激され(第三部定理五一 喜び、悲しみ、および欲望には、したがってまたそれらから合成されたすペての感情(例えば心情の動揺のごとき)、あるいはそれらから導き出されたすべての感情(例えば、愛・憎しみ・希望・恐怖など)には、我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類がある。を見よ)、その限りにおいて本性上たがいに相違するということにもなり、最後にまた同一の人間が同じ対象に対して異なった仕方で刺激され(同じく第三部の定理五一同上により)、その限りにおいて変りやすくかつ云々。であるということにもなるのである。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング