2021年11月29日

神の存在-244

カテゴリ:絶対存在論
神の存否-244
 スピノザの「エチカ」第二部「精神の本性および起源について」の定理二二の人間精神は、身体の変状(刺激状態)のみならずこの変状の観念をも知覚するの証明で多用される「観念の観念(idea ideae)」とは何を指し示すのか。通俗には「観念」とは人間があるものについて心中にもつ表象を指示する用語とあります。哲学の術語としては、感覚的あるいは感性的表象に対立するものとして、知的表象ないしは概念、さらにはその複合体を意味するのが本来の用法とされます。何かを意識したり、考えたりしたときに、意識のうちにあらわれる内容。人間の意識内容として与えられているあらゆる対象が観念の持つ語彙。「観念の観念」、此の術後は、前後の文章を読み解くに「人間精神が神の認識あるいは観念を有する限りにおいても神に帰する」其の観念を指し示すと思われます。
 定理二三 精神は身体の変状(刺激状態)の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。
 証明 精神の観念あるいは認識は(この部第二部の定理二〇 人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認識は、人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、また同様の仕方で神に帰せられる。)により、身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、かつ同一の仕方で神に帰せられる。ところが(この部第二部の定理一九 人間精神は身体が受ける刺激(変状)の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る。)により人間精神は人間身体自身を認識しないから、言いかえれば(この部第二部の定理一一の系により)人間身体の認識は神が人間精神の本性を構成する限りにおいては神に帰せられないから、したがって精神の認識もまた、神が人間精神の本質を構成する限りにおいては神に帰せられない。それゆえ(同じくこの部の定理一一の系 人間精神は神の無限な知性の一部である云々)により、人間精神はその限りにおいては自分自身を認識しない。次に身体が受ける刺激(変状)の観念は人間身体自身の本性を含む(この部第二部の定理一六 人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。)により、言いかえればそれは(この部第二部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。)により精神の本性と一致する。それゆえにこれらの観念の認識は必然的に精神の認識を含む。ところが(前定理 人間精神は、身体の変状(刺激状態)のみならずこの変状の観念をも知覚する。)により、これらの観念の認識は人間精神自身の中に在る。ゆえに人間精神はその限りにおいてのみ自分自身を認識するのである。Q・E・D・これが証明すべきことであった。
 スピノザ研究者のあいだでは精神の同一性を保証するのは観念の観念の役割とされてきた。人間精神についての観念が「ある人があることを知るなら、その人はそれによって同時に自分がそれを知ることを知り、同時に、且つまた、自分は自分がそれを知ることを知ることを知り,こうして無限に進む」という自己知を包含する無限の再帰認識を主張しているからであるとします。だが、観念の観念は精神の同一性を根拠づけることはない。スピノザが観念の観念でもって意図するところは甚だ難解です。



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最終更新日  2021年11月29日 06時10分05秒
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