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鉄道忌避伝説

2014.11.07
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テーマ:鉄道(13728)
カテゴリ:鉄道忌避伝説
え~、当ブログには「鉄道忌避伝説」というカテゴリが一応あるのですが、殆ど活用されていないんですよね(苦笑)
実はこのカテゴリ、福島県内の東北本線沿線に残る鉄道忌避伝説について「ウソだろ、これ!」と突っ込むために作成したのですが、ネタ切れのためここ数年放置状態だったという訳。
でも、福島県内を見渡してみると東北本線の他にも鉄道忌避伝説が残っていることを、今日初めて知った次第。ネタ元はこちらのブログなのですが、いわき市南部の窪田や小名浜で鉄道忌避伝説があるらしい。
でも、このブログはこの辺についてきちんと考察していて「鉄道忌避伝説については恐らく史実ではないだろう」というニュアンスで結論付けているのは、非常に私好み(笑) 特に郷土史家の中には鉄道忌避伝説を無条件に信じる人も少なくなく、結果伝承が無批判に拡大された傾向があるのですが、このブログを執筆された方は同じ郷土史をブログのテーマにしつつも史実を丹念に紐解こうとする姿勢が、非常に良いと思います。


クリアファイル常磐線






Last updated  2014.11.07 21:22:08
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2010.06.01
テーマ:☆仙台☆(1221)
カテゴリ:鉄道忌避伝説
いわゆる鉄道忌避伝説の類は一切信じない性質なんですが、仮にその伝説が正しかったとして住民の反対や誘致がなく当初のルート通りに線路が敷かれたらどうなっていただろうかと思うことは、時々あります。
妄想の代表例が、仙台駅でしょうか。ちなみにこのケースでは、1887年の鉄道開通当時、当初の予定では市街地東側の宮城野(あるいは榴岡)に駅が設置される予定だったのを住民が誘致して市街地まで線路を引っ張り込んだという逸話が残っています。鉄道忌避伝説というよりは、鉄道誘致伝説の事例ですね。
現在、当初の予定とされるルートにほぼ沿う形で、1961年に開通した貨物線が通っています。そして、貨物線の沿線にある宮城野貨物駅付近が、仙台駅の予定地として語られるケースが多いようです。
この辺りにもし駅が開業していたとするならば、確かに、国分町や大町といった(当時の)繁華街からは距離がありますね。ただその分、駅と繁華街とを結ぶ軌道系交通機関はかなり発達していたようにも思うんです。1976年に廃止された市電も、まだ健在だったかも。現在の熊本みたいな感じですかね。
また、その熊本の交通センターのような大規模なバスターミナルが、市電の停留所に隣接してできていたかもしれません。戦後の仙台市は市街地東部に広がる田園地帯の市街化を規制していたため市街地西部の丘陵地で宅地開発が進んだ経緯があるから、バスターミナルはかなりの重要度を誇っていたであろうと推察されます。
一方、駅前に目を移すと、近くに寺院が建ち並ぶ新寺小路があるため、開発が難しそうなイメージがあります。首長の鶴の一声で寺院が集団移転して「新・新寺」が新たに造成されていたであろう可能性はあるのですが、寺院をどかして新しい市街地を開発したところで、縁起の悪さは付きまといそう。「あそこは昔墓場だったんだ」などと気味悪そうに語る古老も続出しそうだし、他地域からの移住者が少なかった高度経済成長期以前まではさほどの発展が見られなかったような気はします。でもその分、バブル期に高層ビル街へと変貌を遂げていたかも… という予感はなきにしもあらずなんですけどね。
ただ、仙台城大手門から大町、新伝馬町、名掛丁、二十人町と続いている仙台城下町の東西軸であった道路を駅前まで上手く引き入れることができたならば、そこは発展が望めそう。ひょっとしたら、駅前から大町まで3キロ以上の区間がオールアーケードなんてなっていたかもわかりませんね。また、この道路の東の延長上にあり駅の真北に位置する原町(はらのまち)も、繁華街の一つとして現状よりも発展していたものと推察されます。


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Last updated  2010.06.02 00:07:46
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2009.01.15
カテゴリ:鉄道忌避伝説
では、どうして、常葉に鉄道忌避伝説が起こってしまったのか。
実は、磐越東線開通当時の常葉は福島県田村郡(現在の田村市、田村郡及び郡山市のうち阿武隈川東岸)においてそれなりに人口の多い地域だったいう事実があります。ウィキペディアにおける田村郡の記事によると、常葉の町制施行は1898年で、三春(1889年)、小野新町(現・小野町。1896年)に次いで三番目という早さ。現在の常葉町域は人口6,000人ほどしかないので、意外な感じすらします。
意外と言えば、磐越東線の主要駅があり現在田村市の市役所が置かれている船引は逆に町制施行が遅く、なんと常葉から遅れること36年も経った1934年の施行。磐越東線が開通した1915年時点では片曽根村という名前でした。ちなみに、片曽根とは町の南方に位置しその円錐状の形から「田村富士」とも形容される片曽根山のこと。一般に自治体名は規模の大きな大字があった場合その名前が付けられるものですが、そうではなかった点に逆に船引の規模が小さかったことが伺えます。この歴史が今なお尾を引いている証左として、三春と小野には警察署があるのに船引にはないという現実を挙げることができます。
また、田村郡においては、船引に続いて1940年に滝根、1942年に大越と、磐越東線沿線の地域で町制施行が相次いでいます。この背景には当地で多く産出される石灰石を基盤とした鉱工業の発展という側面もあるのでしょうが、これらの重要な輸送手段でもあった(なんと2000年まで石灰石輸送の貨物列車が運行してました)磐越東線開通の影響も、ある程度はあったでしょう。特に鉄路から外れた常葉の人たちにとっては、「自分たちの地域は元々発展していたのに鉄道がなかった故に出遅れた」という思いは強かったものと推察されます。
この思いを下敷きにして紡ぎ出されたのが、常葉の鉄道忌避伝説ではなかったでしょうか? 伝説そのものには否定的な見解を下さざるを得ませんが、常葉の置かれた立場には、同情できる面もなくはありません。


ゼンリン住宅地図 B4版 田村市(常葉・都路) 発行年月200505 07211C10A






Last updated  2009.01.16 02:39:17
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2009.01.14
カテゴリ:鉄道忌避伝説
先日、適当にネットサーフィンしていたら、ウィキペディアにおける磐城常葉(いわきときわ)駅の記事に、面白い文章を発見しました。以下、少々長くなりますが引用します。

「(1917年に全通した磐越東線は)本来の計画では常葉町七日市場地区に駅が設けられ、同町関本地区を経由して大越駅に抜ける予定であったが、鉄道敷設に反対の声が上がった。 それは三春町から物資の輸送を担当していた60台からなる馬車組合と農地の解放を渋る農民であった。
また、政治的な感情も鉄道敷設問題に影響した。当時、憲政会と立憲政友会の対立が強まりつつあった。常葉町民は明治初期に当地の戸長を歴任した河野広中を絶対支持しており、河野が所属する憲政会の勢力が強い地域であった。 そこで憲政会を支持する町民は、この鉄道敷設計画は憲政会と対立する立憲政友会の西園寺公望を総理とする政府の計画であるとして反対運動を展開した。この結果、計画は変更となり常葉町を避けて敷設された。」

簡単に言うと、磐越東線の敷設時に田村市常葉町で鉄道忌避の動きがあった、ということです。なお、この文章はどうやら「福島県史」を下敷きにしているらしく、時の政治家や政権の名前まで登場して、もっともらしい話に仕上がっています。
しかし、鉄道忌避伝説の面白い所は、「基礎史料の明示がない場合、例え自治体史のようなオフィシャルな歴史書であっても、真実が書かれてない可能性が多分にある」という点。ちょっと調べてみるとわかるんですが、この文章もまた、率直に言ってトンデモ話なんですよね。以下指摘してみましょう。

(1)「本来の計画では常葉町七日市場地区に駅が設けられ、同町関本地区を経由して大越駅に抜ける予定であったが」
地図については読者各自で確認して欲しいのですが、この部分からして既に噴飯モノ。推察するに磐越東線は田村市船引町から大滝根川や都路街道(現在の国道288号線)に沿って常葉まで東進する計画だったと読めます。ちなみに、七日市場とは常葉の中心街の東端にあたる地域。ここまではいいのですが、その後の「関本地区を経由して大越駅に抜ける」云々が明らかに変。関本は常葉の町の真南にあたりますが、ここから大越の間には標高500メートル前後の山々が連なっており、少なく見積もっても2キロ以上のトンネルを掘らなければ直通できないのです。磐越東線の建設が進められた1910年代の初頭には既にこのクラスのトンネルがいくつか開通してはいるもののいずれも「そこを掘らなければならない」必然性ゆえのものであり、トンネルの回避が可能な路線にわざわざ掘ったケースは皆無でした。また、現行の磐越東線の船引~大越間の距離は8.2キロですが、常葉を経由するとなると、確実に2倍近い距離になります。
常葉の馬車組合や農民が鉄道敷設に反対したのかどうかはわかりませんが、そもそも常葉は西の船引方面を除く三方を丘陵や山岳に囲まれており、鉄道建設のリスクが大きい場所なんです。例え当時磐越東線の誘致がすすめられていたとしても、願いがかなえられる可能性はそう高くはなかったでしょう。

(2)「当時、憲政会と立憲政友会の対立が強まりつつあった。常葉町民は明治初期に当地の戸長を歴任した河野広中を絶対支持しており、河野が所属する憲政会の勢力が強い地域であった。 そこで憲政会を支持する町民は、この鉄道敷設計画は憲政会と対立する立憲政友会の西園寺公望を総理とする政府の計画であるとして反対運動を展開した。この結果、計画は変更となり常葉町を避けて敷設された。」
確かに河野は1870年代前半にこの地域の戸長を務めた経験があります。また、磐越東線の建設当時、反立憲政友会の立場を貫いていたのも事実です。が、当時の日本の政治状況は現在のように一つの政党がずっと与党にいるといったものではありませんでした。その中で河野自身も政権の中枢にいたことがあり、奇しくも磐越東線(当時の呼称は平郡西線)の三春~船引~小野新町間が開通した1915年には、第二次大隈重信内閣において農商務大臣の地位にありました。
また、そもそも河野は三春出身であり、その三春には鉄道が通じているのに常葉で反対運動が起こったというのも、おかしな話です。
なお、瑣末な話になりますが、憲政会という政党は、田村市内の磐越東線が開通した翌年の1916年に結成されたものです。従って「対立が強まる」云々という話も、正確な情報とは言えない面があります。

そんな訳で、この文章(厳密に言えば「福島県史」か?)の執筆者の知識、常識をちょっと疑ってしまうのでありますが、どうしてまたそんな話が出来上がってしまったのか? 次の日記では、その背景を、私なりに探っていきたいと思います。


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Last updated  2009.01.16 01:59:19
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2008.10.21
テーマ:たわごと(21938)
カテゴリ:鉄道忌避伝説
今なお信じる人が多い東北本線敷設時に起こったとされる阿武隈急行沿線住民の鉄道忌避伝説には思いっきり否定的な私(参考)ですが、同様の考えを持つ地元民は、何も私だけではないんですよね。こないだ暇つぶしにネットサーフィンしていたら、鉄道忌避伝説発祥の地(?)である伊達市のホームページにこんなページがあるのを発見。以下、気になる文章を抜き出すと、

「東北本線が通らなかった梁川・保原
 明治20年(1887)に東北本線が開業しました。その建設にあたっては、当初は現在の阿武隈急行ルートが検討されましたが『蒸気機関車の煤煙が桑や繭を汚す』『阿武隈川の水運が寂れる』などの理由で沿線地域の反対にあい、東北本線は現在の経路になったといわれています。
 同じような話は『鉄道忌避伝説』として全国にありますが、実際には、当時の土木技術が現在に比べて低く、橋梁やトンネルをなるべく避けたり、地盤や地形の制約があったりしたため、結果的にその地域を通らないルートが選択されたものも多いとされています。
 例えば、福島~槻木間で見ると阿武隈急行は福島と丸森で2度阿武隈川を渡り、トンネルも東北本線に比べてかなり多くなっています。昭和40年代以降に建設された鉄道は土木技術の進歩によって長いトンネルや橋梁が多く、一概に比較はできませんが、明治時代に建設が容易だったのは現東北本線ルートであったことは想像に難くありません。」

とのこと。
伊達市においてこの記述がみられたのには正直驚きです。この文章を執筆された方も、感情論に左右されないさばけた方なんだろうなと推察されます。伝説を信じる人たちは、いい加減に目を覚ますべき時が近づいているのかもしれませんね。


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Last updated  2008.10.22 01:31:12
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2007.10.26
テーマ:鉄道(13728)
カテゴリ:鉄道忌避伝説
先日、ウィキペディアの阿武隈急行の項を見ていたら、「阿武隈急行線(丸森線)と東北本線」とのタイトルで、以下の文章が挿入されているのを見つけました。

「地元には、以下のような話が伝わっている。
東北本線を開発していた明治時代、本来東北本線は勾配が少ない阿武隈川沿い(現在の阿武隈急行線のルート)を通るはずだった。しかし、当時伊達郡の保原、梁川地域は養蚕で栄えており、蒸気機関車が吐き出す煙や火の粉の桑畑への被害や火災を恐れて反対した。その結果、東北本線の計画は、大きな反対運動がなかった桑折、国見方面に変更され、急勾配のある現在の東北本線ルートとなった。
というものである。しかし、この話は都市伝説であり真実ではない。現在の阿武隈急行線をみても福島県と宮城県の県境(阿武隈峡谷)付近の約15kmは、トンネルや高架などを駆使した難工事であり、明治時代の土木技術では阿武隈川沿いのルートを通すのは困難であった。阿武隈川沿いのルートよりは、急勾配であっても国見町、白石市を通る現在の東北本線のルートの方が現実的だったのである。」

この文章の趣旨には概ね同意しますね。ついでに言えば、明治時代の土木技術について述べた部分に「橋梁」も加えて欲しかったなぁ。現在の阿武隈急行は阿武隈川を2回渡っていますが、当時はそれだけでも建設上のリスクとなったはずですからね。
ところで、文中に「都市伝説」の文字が出てきますけど、阿武隈急行沿線地域の鉄道忌避伝説という都市(?)伝説はいつごろ発生したのでしょう? 個人的には、そっちの方にも興味があります。多分、1960~70年代に阿武隈急行の前身である国鉄丸森線の建設促進運動が盛り上がりを見せた際に、地元の有力者あたりが他地域(それこそ三多摩の甲州街道沿いとか愛知県岡崎市とか)の鉄道忌避伝説を持ち出して「わが地域でもそういう歴史があったに違いない!」なんて口走っちゃったのかな?と推察しますけど。
暇ができたら、福島県歴史資料館あたりに出かけて、ちょっと調べてみようかな。






Last updated  2007.10.26 21:24:32
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2007.10.12
テーマ:☆仙台☆(1221)
カテゴリ:鉄道忌避伝説
仙台駅には、「東北本線が開通する際、仙台駅は現在の宮城野区榴岡付近に設けられる予定だったが、住民の誘致により、繁華街に近い現在の地に設けられることになった」という鉄道誘致伝説が存在します。
こういう話を耳にするとやれ「宿場が寂れる」だの「農作物が枯れる」だのといった理由で住民が鉄道敷設に反対した鉄道忌避伝説は少なくともその理由においては正しくないなと思うのですが、仙台の鉄道誘致伝説もまた、個人的には疑問を感じているんですよね。
地図で見ると確かに、仙台駅付近の東北本線はまるで仙台駅に立ち寄るためだけのように不自然に西側に偏っているし、また地図上ではわかりにくいですが、標高面でも、東北本線は仙台駅から2キロほど南の三百人町付近では築堤の上を走っているのにそこから1キロほど仙台駅に近い連坊付近では切り通しの下を走っています。つまり、それほどの高低差がある所を無理して通っている訳。仙台の誘致伝説は石澤友隆「流行歌・『ミス・仙台』 ~郷土・仙台の近現代史散歩~」(河北新報社 2005年)に詳しく紹介されており、同書と現地の地形を確認すると伝説が正しいのかな… とついつい思わされてしまうぐらいです。
でも、よく考えてみれば、仙台のように「街に立ち寄るために線路が不自然にカーブしている」ように見える箇所は、全国を探せば結構あるんですよね。大阪駅とか会津若松駅とか。会津若松とか西武池袋線の飯能、富山地方鉄道の上市あたりは、路線自体がスイッチバックしてますしね(笑)
それぞれに歴史的背景があるのでしょうが、仙台の場合は、二つほど理由が考えられます。
まず一つは、駅までの取り付け道路。駅があっても道路がなくては、人間も貨物も運搬に支障を来しますよね。白河以北仙台以南の東北本線で開通と同時にできた駅(白河、矢吹、須賀川、郡山、本宮、二本松、松川、福島、桑折、白石、大河原、岩沼)は、松川を唯一の例外として、すべて古くより通じていた奥州街道の至近に設けられていることを考えると、仙台もまた、道路事情が良くなかった榴岡よりも奥州街道と並んで仙台のメーンストリートだった石巻街道(ちなみに両街道の交点が、仙台城下町の道路原標である芭蕉の辻)に近い現在地に設けたほうがメリットが大きいと考えられたのではないでしょうか。
もう一つは、東北本線が捻じ曲がっているのは、結果論に過ぎないこと。敷設者の日本鉄道が現在の仙台市泉区や富谷町、大和町… と奥州街道沿いを直進する東北本線構想を計画していたとするならば、逆に榴岡に駅を設けようなんて考えにはならなかったと思うんですよね。






Last updated  2007.10.15 08:53:05
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2007.02.15
テーマ:たわごと(21938)
カテゴリ:鉄道忌避伝説
昔の地図を見ると、福島県中通りから会津若松に至るメインルートは、白河から須賀川市西部や郡山市湖南町を経由する現在の国道294号線に近いルートと、本宮から郡山市熱海町に出てそこから西は現在の国道49号線にほぼ該当するルートの二つあったんですね。
ところが、明治時代に敷かれた鉄道は、郡山から磐梯熱海に出るルート。当時福島県最大の都市だった若松と県庁所在地の福島とを結ぶルートの結節点となったことが、後の郡山の発展に寄与した部分は少なくなかったでしょう。
中通りから会津若松までの地形を見ると、鉄道が敷けそうなルートは熱海から中山峠を越えて猪苗代に出、猪苗代からは日橋川に沿って下り北側から若松に入る方法しかないことが、何となく理解できます。また、磐越西線敷設の所期の目的のひとつが信越本線に続く東京~新潟間の連絡線だったことを考えると、東京方面からだとスイッチバックする線形になってしまう本宮よりもスンナリ出入りできる郡山の方に地の利があります。
ただ、謎なのは、若松から西のルート。どうして会津若松でスイッチバックするルートになってしまったのでしょうか? 若松の真北にある喜多方をどうしても通したかった(誘致運動があった)が故のスイッチバックという話もありますが、只見線が若松の街の西端を通りぬけて会津高田~会津坂下と通っていることを考えると、最初からそのルートで行けたんじゃないかと思うんですよね。でもって、坂下からは更に真北に進んで山都で現在の磐越西線と合流すれば、特段きつい勾配もなさそうだなと思うんですけどね。
でも、そのルートだと、喜多方経由に比べて距離が長すぎるか(苦笑)直通運転に支障を来すスイッチバックという犠牲は払っても距離を短くするのが得策と、当時の鉄道関係者は考えたのでしょうか? いずれにせよ、それなりの幹線鉄道にしてはまどろっこしい線形になってしまってますね。






Last updated  2007.02.16 01:02:37
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2006.12.24
テーマ:鉄道(13728)
カテゴリ:鉄道忌避伝説
今日、こちらの掲示板を見て、驚きました。
掲示板の[12]の記事に秋田県能代市の鉄道忌避伝説についての議論が掲載されているんですが、書き込んだ方の意見はもちろんのこと、その論拠となる参考文献の内容まで詳細に書き込んでいるので、なかなか読み応えがありました。
ただ、書き込んだ方も参考文献を書いた方も、総じて頭から抜け落ちている事柄があるんですよね。
それは、「奥羽本線は秋田から能代方面へと建設された」という先入観を、どうやら持っていそうなこと。事実は逆で、このあたりの奥羽本線は青森方面から秋田を目指して建設されているんです。だから、敷設当時の技術者の立場から見ると、能代の市街地の扱いも少し変わってくるのかな? と思うんです。
つまり、秋田側から見れば能代は羽州街道~国道7号線と連なる秋田県北部を縦貫するメインルートの延長上(経由地ではない)にあるし奥羽本線も街の手前で直角に曲らずにまっすぐ能代の街へ立ち寄り米代川を渡ってから向きを西へ変えるとか能代でスイッチバックするという発想にもなるんでしょうが、青森側から見れば能代は確かに重要な街だけど秋田を目指す過程においては寄り道するには遠回りだし市街地の至近に駅(現在の東能代駅)を作るにとどめようという話になるんじゃないかと思うんです。
いや、あくまで推測ですよ。ただ、地図の見方によって、能代の位置は「奥羽本線が通っていないのはおかしい!」ともとれるし「奥羽本線のルートから外れたのは仕方ない」ともとれるんですよね。






Last updated  2006.12.25 01:49:55
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2006.12.21
テーマ:鉄道(13728)
カテゴリ:鉄道忌避伝説
ここ数日、東北本線ばかり見てきたので、今日は奥羽本線沿線の地図を見ていました(←あんまり変わらないじゃん・笑)
日本鉄道が敷設した東北本線とは違い当初から官営だった奥羽本線ですが、線路の敷き方は、東北本線とそう変わりがないようです。福島と山形との県境の板谷峠は最急38パーミルの急勾配ですが、地図を見る限り、福島市飯坂町茂庭~山形県高畠町間の鳩峰峠や宮城県七ヶ宿町~同じく高畠町間の二井宿峠よりも確実に線路が敷けそうな感じですしね。川は交通路の母とは良く言ったもので、板谷峠の場合、福島側で松川、山形側で羽黒川が流れていたのが、ルート選択の決め手になったような気がします。
また、駅や信号所の間隔についても、概ね10キロ弱と、当時の東北本線や常磐線の駅間距離と同程度と言えます※。
ただ、東北本線に比べると、市街地から離れて駅が作られたケースが、若干目立ちます。代表的なのが、米沢、赤湯の2駅。ただしこれらについては、米沢が松川(最上川のこと。福島の松川とは別の川)への架橋を避けた結果、赤湯は町の真北にある丘陵越えに備えるため町の近くに駅を作ることができなかった結果で、いずれも建設上の都合によるものと考えられます。特に米沢では鉄道忌避の話が伝わっているようですが、恐らくそれは史実ではないでしょう。
ただ、どうしても分からないのが、大石田駅の位置付け。上山から大石田の手前までの奥羽本線は羽州街道沿道をきちっと通っているのに、ここでは羽州街道沿いの尾花沢ではなく、西方約3キロにある最上川の河港・大石田にわざわざ立ち寄っています。これは尾花沢が鉄道を忌避した結果なのか、はたまた逆に大石田が鉄道を誘致したのか。ひょっとして大石田から酒田方面への舟運との接続を考えてのことなのか? でもその割には駅と河畔とは1キロほど離れていて接続が良いとは言えないし、いったいなぜ奥羽本線は、大石田に立ち寄ったのだろう?

※1903年に福島~新庄間が開通した段階で開業していた駅、信号所とその間隔は、下記の通りです。
福島~6.9キロ~庭坂~7.7キロ~赤岩信号所~6.6キロ~板谷~3.3キロ~峠~4.3キロ~大沢信号所~6.0キロ~関根~5.3キロ~米沢~9.8キロ~糠ノ目(現・高畠)~6.2キロ~赤湯~8.3キロ~中川~8.6キロ~上ノ山(現・かみのやま温泉)~12.1キロ~山形~7.8キロ~漆山~5.5キロ~天童~5.9キロ~神町~7.2キロ~楯岡(現・村山)~13.4キロ~大石田~13.4キロ~舟形~8.3キロ~新庄(ただし、峠は開通当初は信号所、中川、漆山は、開通当初は駅はなく新庄開通までの間に開業)






Last updated  2006.12.22 02:10:55
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