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70歳

2020.06.22
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カテゴリ:70歳
今年も父の日が来ました。
コロナの影響で、自由な時間が出来た息子が、私好みのデザートを作ってくれました。
殆どチーズばかりの味のチーズケーキ。 冷蔵庫で冷やしていないと、中味が溶け出してしまいます。




チーズケーキのトッピングには、カカオ86%で作ったビターチョコレート(甘くありません。)


これが、逸品のビールゼリー。
これだけをワンスプーン食べると、殆どの人は、苦ーいと言うと思うような、ビールを濃縮したような味がします。
しかし、ブランデーを少し垂らして、少しシロップを入れると、辛党の人が大喜びするような格別の味になるのです。(笑)






美味しく頂きました。 Happy!


夕方には、娘夫婦家族からプレゼントが届きました。


この私の似顔絵は、孫2人がメインとなって、夫婦が少し修正して、書き上げたそうです。
最高のプレゼントです。 仕事には、毎回これを持って歩こうと思っています。(笑)


以上






Last updated  2020.06.22 12:37:04
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2020.05.16
カテゴリ:70歳
コロナ自粛なので、家の中、家の周囲での生活となっています。
YOUTUBEで、ヤングアメリカンズのダンスのウオームアップ部分を見つけ、テレビの前で運動してみました。 1本3分間位で、3本あるから、合計10分程度 丁度良い運動になります。(笑)





2月には、孫の50m競争の練習に付き合い、年甲斐もなく、本気でスタートダッシュしようとして、その瞬間、ふくらはぎの肉離れになり、約2週間杖の世話になり、普通に歩けるようになるまで、約1カ月かかりました。

55歳位までは、小学生や中学生とテニスのシングルスの試合をし、朝から晩まで全力で頑張れていたのですが、考えてみれば、もう15年も前の事。 そういえば、この7-8年はテニスそのものもほとんどやっていなかった。 着実に、老化してきていました。(苦笑)

もう、年相応にジョギングか体操程度にしておかなければいけないのでしょうね!

以上






Last updated  2020.05.18 15:41:28
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2019.11.07
カテゴリ:70歳

小学生5-6年生の自分は、まさに多感な子供だったと思う。

60年前の生家の近くにはの陸上400mの選手として一生懸命に頑張っていた高校生が居て、そこのお父さんは仕事に行く前や帰って来てからも、自転車に乗り、ストップウオッチを持って、その高校生のコーチングをしていた。
(その高校生は、55年前には日本中が、もしかしたら、世界の多くの人の注目を浴びていたが、それは、ここでは省略する。)

 

近所で、そこのお祖母さんは私には気さくに声をかけてくれていて、貴方も朝練をやりなさいと勧められ、毎朝6時に家を出て、ジョギングしながら、江の川沿いの大きな草原のような堤防上に行っていた。
その高校生と弟の兄弟は、何回もダッシュアンドジョグを繰り返していたが、私は、草の上で走ったり、遊んだりしていたが、毎日やっていたお蔭で、結構足は速くなっていった。

 

特に、その後、私は中学生になり、駅伝等にも出るようになっていた。 

(その高校生は大学に行ったが帰省した時には、色々と可愛がられ、使った運動靴なども貰っていた。その家のお祖母さんは品の良い人だったが、工務店を仕切っていた姉御肌で、ビシッとした人であった。中学生の頃、学校から上半身裸で帰って来ていると、ちょっと呼び止め、説教をしながら饅頭や美味しいものを食べさせてくれた記憶がある。私達兄弟を良く見ていたのか、「次兄は真面目なのに、貴方はガンボウモン(いたずら坊主)だねー!」って、笑って言っていた。

今から過去を考えると、自分の現在があるすべての基本は、健康(精神的にも、肉体的にも)であることにあると思う。この身体に産んでくれ、育ててくれた両親に感謝しているし、人間にとって、それ以上のものはないと思う。


その健康があったからこそ、負けず嫌いがあったり、根気良くやること、努力することを学び、何でも死ぬ気(死んでしまうほど肉体を酷使しつづけ、倒れて動けなるほど、考えがでなくなるまでやるという意味で、楽になれるからと簡単に自殺等する人の気持ちが理解できない。)でやれば、何でも出来ると信じられる事も分かったのだろう。自分中心の考え方だ!と注意されるが・・・・

 

駅伝に出るようになってからでも、私には特に才能があった訳ではなく、努力と練習で実力をつけてきた自分は、周りの声援が最大の支援であり、町中を走っている時声援があり、競う相手が居ると、想像以上の頑張りが出てきて、何人も追い抜いたこともある。 特に、お袋が応援に沿道に来ている時は、その前で追い抜いたり出来ると最高の喜びであった。()

以上







Last updated  2019.11.07 18:07:02
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2019.11.04
カテゴリ:70歳

当時(1960年頃)の家庭のトイレはポットン式、お風呂は五右衛門風呂(木を燃やして湯を沸かす)、炊事はかまどと七輪だったので、燃料の元となる太い木も火付け用の枝木も必要だったし、七輪の炭に火を付ける消し炭も残しておく必要があった。(昔のこたつは、炭を燃やしていた。)


秋口になると、山林を持っている地主さんにお願いをして、燃料にする為の1年間に使用する分の木々を切り出し、運び出し、持ち帰る運搬等の作業をしていた。
これらは大仕事であったし、この作業をする日は、一日がかりなので、大体、日曜日か祭日に行き、お袋は玉子焼きの入った豪華な?弁当を作り、持参していた。(当時の我が家では、玉子は貴重品で、玉子焼きは何かのイベントがないと食べられなかった。これに釣られて、手伝いに来ていたのかも・・(笑))


燃料用の木材が欲しいのは、この当時はどの家庭でも一緒であり、プロパンガスがある家庭は殆どなかったように思うし、これらの木を切り出すのにどれだけお金を支払っていたのかも、子供だったので知る由もなかった。

木を伐り出す場所は、道路から小さな小川沿いを100-300m上流に登ったあたりで、両側の山の急斜面の小川に近い雑木を切るか、倒れているやや太めの雑木を切り出し処分するのです。

倒れている雑木は、乾燥しており、水分が抜けて軽くなっており、鋸で切っても、切り易いので最適でなのです。

現場では、色々な木(薪、杉、栗やドングリ等)の30cm位の太さの木を3m位に切って、枝打ちし、太い木を2-4本ずつ縄で束ね、この小川の上を引っ張って下り、滑らせて、道路脇まで何度も運ぶのです。

お袋は、小枝や枝打ちした木を1m位の長さで束を作り、山積みして(杉の枝など燃え易いものも火がつけ易いので必要)、これらを自分の頭より高い1.5m位の高さまで「おいこ」に乗せて、それを担いで道路脇まで運ぶのでした。

すべて肉体労働で結構きつい運動であり、つるはし、大小の鋸、斧、鎌等は家業の仕事でも使うので、実家には、色々な大工道具もあったが、こんな作業をやってるうちに、子供でも自然と使い方は身に付いたのだと思う。

道路脇まで運んだ太い木は1本ずつ、お袋と私と二人で、大八車に山になるほど載せ、その上に、更に、枝類を乗せ、私が大八車を引き、お袋が後ろを押し、家まで持ち帰えった。

実家まで持ち帰った後は、ちょっと休憩し、今度は、これらを道路から家の下の河原の燃料木置き場まで運ぶのでした。

私達の子供の頃には、平日は毎日1-2時間位は家庭の手伝いをする当たり前であり、ポンプを押して、風呂水や炊事用の水汲みをしたり、家に持ち帰った太い木は長さ30cm位に鋸で切り、その切った太い部分は、大きな斧で割って、五右衛門風呂や竈(くど、かまど)に使えるサイズにして、沢山準備しておくのです。 

(燃料用の木は、ストックしておかないと、雨の日でも、木を割る作業をしなければいけないし、冬の寒い時にはしたくないので、気候の良い時に沢山の燃料木を山積みに準備しておいた。)

太い長い木は、長さ30-40cm位の長さに鋸で切り、それから割る作業に入るが、
斧で、太い木を割るのは、コツがある。

まず、足場は、堤防の上の石が詰まった固い場所の上に、太い高さ2-30cmの樫木か栗の木のような固い木を台にして、その上に割る木を縦にして置いておく。

斧は、柄の先に付いた金属の刃の部分の重さを利用し、木の柄の部分で遠心力を作り利用し、刃を上に振り上げ、最高の速度と刃の重さを割る木の芯へ持って来るのである。そうすれば、あまり体力を使わないでもパカッと綺麗に割れるようになるのです。(先日は、農業公園で、このように木を割る体験会をやっていたので、飛び入り参加し、見事綺麗に割って見せた。(笑))

又、大水(洪水)の後は、流木や竹などが河原の石の上に流されてきていると、水がひいた後は、手斧を持って、枝や木を集め、持ち帰る事もあった。(これは、遠くの山まで木を取りにいかなくても良いし、楽だからであるが、近所の人達も来るので、急いで取りに行っていた。早い者勝ちなのです。)

当時は、ゲーム機もパソコンもなかったので、遊び道具は何でも自分で作っていた。竹トンポ、紙鉄砲(杉の実)、弓矢、竹馬、パチンコ銃(ゴム銃)等々自分で作り、ナイフも鋸も金槌なども子供ながら、8歳位では使い慣れていたと思う。

 
この頃の色々な作業で、自然に身に付いた技術が、後の自分の性格形成(理屈っぽく、理論原理に基づき、基本から応用を学ぶ等々)の元になったのかもしれない。()

我が家の家訓は、「人に迷惑をかけない!」、「お金が貯まるまで、物を買うな!」(借金するな!)、「どんなに偉い人に対しても、2度まで誠意を尽くして、返事がない時は、打ち切ってしまいなさい。」(ギブアンドテイクの基本)等を言われていたと思う。

 少し、大人になってからは、(自分で作った言葉かもしれないが)「人より早く行動し、人より広い知識を持ち、人より深い判断をしなさい。」とか、「1つの事をなすためには、10の知識や費用等がかかり、100以上の努力の積み重ねが必要。」とか、「やれるやれる自分なら必ずやれる!」とか言い聞かせてきたのかもしれない。

これらは、すべて幼少期の体験や経験、親や近所から教えられた事が基本となり、身について来たものだと思う。

以上
半世紀以上も前の話、現在の人では想像もできない時代だったかもしれないですね。







Last updated  2019.11.06 19:26:16
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カテゴリ:70歳

中学生の時には、冬の教室の暖房に使う石炭ストーブを使っており、その煙突を取り付けたり、外す仕事を家業の仕事で受けていた。
これには、人手が必要なので、この時だけは、近隣の小中学校に平日でも学校を休んで、兄弟も母も手伝いに行っていた。

 

中学生の時の自分は、学校を休んで手伝っているのに、進んで授業をやっている自分のクラスや同級生のクラスに入って行き、煙突を持ち支えるだけの手伝いしか出来なかったが、これ見よがしに進んでやっていた。(担任の先生は嫌だったかもしれないが!当時の子供達は、農家の子であれば、田植えや稲刈りの時は、学校を休み、それを手伝い、色々な家庭でも親の都合で休まされる事はよくあった。)

こんな時の私は、なんだか仕事をしている自分を誇らしく感じて居たと思う。()   

 

次兄は、恥ずかしがり屋で、絶対に同級生には合わないようにしていたと言っていたが、人それぞれ、人間関係も含めて、兄弟でも、感じ方も対応も違うものなんですね!(今の年齢になって分かってきた気がする。遅過ぎる?!)

 

 

畑と言えば、山林を持っている農家に頼み込み、割と平坦な土地を開墾し、畑にして、さつま芋を作らせて貰った記憶がある。(朝ドラの「なつぞら」で北海道を開墾している場面を見て、思い出していた。) 
小学校5-6年〈1961年)頃だったと思う。 太さ30cm位の雑木の根元を切り倒し、枝や幹を切り、敷地の片隅に置き、スコップや鋸やツルハシで、その根っこの周囲1.5m位を深さ1m位を掘り起こし、根を伐り、その木を倒して、引き抜き、取り除くのである。

 

お袋と私が、2人でやっても、せいぜい一日に、1本か2本を処分するのが、精一杯で、これを約20本位木や根っこを処理し(5月連休頃の暑い時、多分、全部終えるまで一カ月以上かかったと思う)、土地を耕し、畑の中の大小の石を取り除くと、腐葉土の効いた良い黒土の畑が出来た。

ここに、梅雨前にさつま芋を植え、10月末頃の収穫にも一度だけ立ち会った。

 

丸々と太ったさつま芋が結構取れたが、収穫したお芋の半分は、土地を貸してくれた人の家の炊事場に届け、畑を作らせて頂き、ありがとうございましたと最敬礼をして帰ったのでした。(兎に角、当時は土地を持っている農家は強かった!)

土地を貸してくれた人は、親切で、良い知り合いだったとは思うが、その時の自分の子供心には色々と悔しさや反骨心等、感じることもあったから強く記憶に残っているのだと思う。 本当に、地主さんの強い時代でした。

 
今から60年前の事で、当時の同級生の家庭も色々な職業の家庭があった。農家でも、地主と小作人では全く違っていたし、和服店、布団店、塗装店、人形おもちゃ店、床屋、国鉄勤務の家、大工さん、書店、家具屋、楽器店、材木店、お好み焼き屋、雑貨屋等本当に沢山の店があったが、現在は90パーセント以上が様変わりしている。どのような未来を進んだのだろうか!

学校の先生は、殆どの先生が、凛として、私達を見守ってくれており、今思い出しても、尊敬できる人が多かった。
ただ、労働運動の先駆けだったのか、一部の先生は、授業時間にストライキと称し、近くの公園で集まっていた事があり、それにはガッカリした記憶がある。

以上







Last updated  2019.11.05 19:23:32
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2019.11.03
カテゴリ:70歳

昔(私が小学生高学年から中学生迄の間だから、1960-1968年頃の話)、お袋は家族の食糧不足を補充する為、色々な所で畑を借りて、野菜等を作っていた。

 

勿論、多くの国民が食料不足であった時代で、自分で農地を持っている人以外は、皆大なり小なり皆お腹を空かせていた頃だと思う。
私は、畑を借りる手段等、詳しいことは知らないが、どんなに親切な人でも、当時では、無償で土地を貸してくれる訳もなく、その借りた代償は大変なものだったと想像できる。

 

その畑の1箇所が、馬洗川沿いの河川の砂地を畑として借りて、ジャガイモや玉ねぎ等を作っていた。

(しかし、この場所は大雨が降り、洪水になってしまうと、植えていたものはすべて流され、苦労して育てた野菜類はすべてあっという間に無くなってしまう場所でもあった。)

 

砂地だから土地が肥えていないので、肥料をやらなければ、作物を大きく育てることができないし、当時は、化学肥料の値段は滅茶苦茶高く、牛や鶏のふんもお金を出して購入しなければならないので、使ったのは主として、人間の糞尿を溜めておいて、腐らせ、それを樽に紐を付けた(肥樽、こえたご)に入れ、天秤棒で2つの樽をひっかけて、道路まで運ぶ、そして、それを大八車に乗せて、畑近くまで運び、又、天秤棒で担いで、あぜ道を運び、ひしゃくで畑に撒くのである。
(汚い話で申し訳ないが、60年前当時はそれが当たり前の事だったのです。)

 

天秤棒で両側に肥樽をひっかけて、運ぶのは、天秤棒のバランスとたわみ具合を利用し、手拭かタオルを肩に重ね、自分の肩にかかる負担の仕方少なくする為、首の後ろの筋肉の上に斜めに乗せ(肩への当たる面積を広くする)、斜め横歩きで運ぶ。

動く時には、上下動を上手く合わせないと、肩は痛くなるし、肥樽の中の糞尿が揺れて暴れ、こぼれたものが自分の足にかかるのである

 

何度も経験すると、そのタイミングの合わせ方も上手くなったが、それまでは、結構失敗し、足や靴、ズボンにかかったものです。

 

小学校3-4年生(この頃は、まだ天秤棒は担げなかった)までは大八車(木で作られた車輪の外側に鉄が巻いてある)を引き、5-6年生頃になると、自転車のタイヤの付いたリヤカーになったので、運ぶ労力が随分楽になった。 その頃になると、今度は天秤棒を担いで運ぶ役もやるようになった。

 

糞尿を運んだりするのが恥ずかしいと思う年頃だったかもしれないが、当時の自分の家の手伝い等をするのは当たり前で、そんな家庭は結構あった。 私は、お袋の頼みを聞いてやっていたが、本当に、大して嫌だと思わずに手伝っていた。

 

そんな自分の姿を私は誇らしいとも思っていたかもしれない。

(実際には、手伝いの後には、何か旨いものやお小遣いを貰うのを楽しみにしていたのかもしれないが・・・(笑))


以上






Last updated  2019.11.05 19:15:07
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カテゴリ:70歳

私が小学生の頃は、毎年、お袋に連れられて、ディーゼルカーに乗り、田舎の山奥の方に、春はわらびやぜんまいを取りに、夏前には、お茶(藤の葉)取りに、秋には木苺、あけび、柿等を取りに、行っていた。

 

私は半分以上、その近くで遊びまわっていたと思うが、木登りが必要な時には、私の出番があった。 

 

藤茶は、あの頃の我が家の主たるお茶で、この藤茶のストックが無くなったら、番茶や麦茶等を飲んでいたと思う。後になって知ったが、藤茶は漢方薬でもあり、糖尿病治療や血液を浄化し、高血圧や脳梗塞治療などの効用があるという。お袋は、親父の病気を知っていて、藤茶を飲ませるようにしていたのかもしれない。

 

夏前には、藤の花が落ちる直前であれば、どれが藤の木か分かるが、夏の盛りになると、似たような葉や蔓が多く、藤の葉を見分けるのが大変であったが、それは、お袋が指示してくれた。

 

低い所の藤の葉は、お袋が取り、木の上の蔓の葉は、私が取っていた。早朝から昼頃迄で茶摘みをし、お弁当を食べてから、午後、帰る時には、追い籠に一杯と他に大きな布袋に2つ位を持って帰ったような記憶がある。

家に帰ると、これを水洗いし、蒸し、時々、日本茶を真似て、手のひらに挟んで、こすってみたが、団子になり上手くゆかないので、結局、むしろ(ワラで編んだござみたいなもの)の上にバラバラにして、天日で2日位乾燥させていた。

 

この時の事を、記憶していたので、中学生のキャンプの時、この藤茶(フライパンで炒って乾燥させ)を作って、お湯に入れて沸かした事もある。経験した事は結構覚えているものである。

以上







Last updated  2019.11.05 12:00:52
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カテゴリ:70歳

 昭和35年頃の広島県北部の生家は、西城川の石造りの堤防の上に建っていた。堤防の上には桜並木と道路があり、川側に生家があった。

道路側に家業の仕事場があり、奥に小さな2間と食事場、トイレ、五右衛門風呂、炊事場、水汲み手動ポンプ等が非常にコンパクトに設置されていた。(水道はなかったので、手動ポンプで地下水を汲み上げ、風呂や炊事用の甕に入れるのは、子供の仕事であった。)

 

又、仕事場の部分の2階に一間あり、子供達の寝床となった。食事場の下には地下室があり、漬物等の保存食や農具や縄等の道具類が置いてあり、奥の堤防側の部分には、炭を入れている防空壕もあった。

 

(この防空壕は子供達が悪戯をすると親父が怒って、ここに入れられていた。しかし、私の場合は、暗い所は怖くなかったし、後で、お袋が出してくれると信じ切っていたので、平気で、中で泣いているふりだけをして、ゆっくりと熟睡していたこともあった。()

 

一階の食事場や川側の部屋からは、西城川は一望出来、ハヤや鮎が泳いでいる姿なども見えた。川の瀬もあったので、訪れた人によっては、我が家に来て眠ろうとしても、川の流れや瀬の音、せせらぎが煩くて眠れなかたという人もいたらしい。

 

雨が続くと、川の水位が上がり、大水となった。親父や長兄は、大きなすくい網を持って、川べりの水草(やな)の中に隠れている魚(特に、鮎)を取りに行っていた。
(この水草があるから、梅雨前には、一面蛍だらけ、膨大な数のげんじほたるの光景が見られたのだが・・)

 

この頃は、多い時には、一日に鮎が200匹以上取れ、お袋は、鮎の内臓だけを塩漬けにした純粋な「うるか」を作り、3年物、5年物と壺を分けていた。日本酒を嗜む年齢になると、古い「うるか」は内臓も溶けて、濃いグレーの色になり、舌の上に乗せると、ちょっとしびれる感覚があり、美味珍味であった記憶がある。

勿論、鮎の塩焼きは子供の頃からの好物で、内臓の苦みも大好きであった。(笑)

 

夏は、当時はエアコン等無く、扇風機も珍しい時代なので、戸は開けっ放しで、蚊帳(かや)を張って、その中で眠る、冬はガラス戸の隙間から室内に粉雪が入ってくるような(暖房は炬燵もあったが、眠る時は、白金カイロか湯たんぽだったかな?)家であり、同じ隙間から晴れた夜には星空が見える家だった。

 

長兄は、仕事の合間にトタンで舟を作り、船外機も買っていた。

兄貴が仕事に行っている間に、小学生の高学年になった自分は、内緒でこの舟に乗り、竹の棒で操り、遊んでいた。私と舟の関わりは、これが最初の出会いだったのかもしれない。

 

(兄貴は、仕事用に250ccのスクーターを購入する為に、この船外機を売ったんだと思う。それ以降は、兄貴はスクーターの後ろに親父を乗せて仕事に出掛けるようになった。それまでは、仕事に出かける時は、自転車の横に一輪のリヤカーを取り付けて、道具や親父を乗せて運んでいた。 仕事で使う軽トラックを購入したのは、昭和40年代の高度成長期に入ってからであった。)

 

この生家は借家で、昭和35年当時の家賃は月額500円だった。家族も多く、家計のやりくりも大変だったと思う。 ある時、お袋に頼まれ、家賃の支払いが一カ月遅れ、2か月分1000円を持って、私が大家さんに届けたことがあった。

 

その時、大家さんは、家賃帳にハンコを押し乍ら(受領印)、不機嫌そうに、「毎月遅れんようにちゃんと持って来いよ!」と言われたのを、良く覚えている。 

その時は、子供ながら、大きくなったら、自分は絶対に借家でなく、自分の家を持つと覚悟を決めた瞬間でもあった。

 
話は変わるが、
あれは、私が小学生になったばかりの頃だと思う。(1956年頃)

夜になって、雨が降り出し、親父と長兄は、みの(藁で作った雨具、帽子、肩当、腰巻)を付け、カーバイトのランプ(懐中電灯もない頃なので、カーバイト<炭化カルシウム>の塊に水を反応させ、燃焼性のガス<アセチレンガス>を出して、火を付けて、輝くような火を照明の代わりにしていた)を持って出かけて行った。
川でも海の漁船でも、当時の漁師も、夜間には、みんな、これを使っていた。

 

夜中に、びしょ濡れで帰ってきて、直ぐに、風呂に入って温まったようだ。

昼間のやりかけの仕事が、雨で濡れて、仕事の結果が悪くならないように、雨除けカバーをしたり、養生をして来たのだと言っていた。

 

この時は、子供ながらに、仕事に対して、熱意と誇りを持つ親父や長兄を誇りに思った瞬間であった。

 

当時の雨具はまだ藁で作った蓑(みの)。 ビニール製品は、まだ一般には、出ていなかったこともあるけど、油紙のカッパが売り出され、長兄が「こうてーやー!」(方言:買って下さい!)と言って、親にねだっていたのを見ていた記憶がある。

 

これらの商品の進歩は早く、これから5年もしないうちに、傘も雨具もみんなにビニール製品になってしまった。(今はゴアテックス製品もあり、便利になった。(笑))

 

 

この頃、家の棟上げ等があると、親父は酒は飲んで帰ってきたが、折箱の料理やバナナ等のフルーツは持って帰ってきてくれた。その頃のバナナは非常に高価な貴重品であり、それを家族全員で分けるのが我が家のルールであった。
その分け方は、わざと大きいものや小さいものを作り、じゃんけんで戦わせ、競争を学ばせるようにやっていた。 

 

お袋は、早めに勝っても、子供達に大きいのを取らせるため、小さいのを取ってくれていたが、私達は必死で大きいのを取ろうと頑張っていた。 それが、カステラでも、寿司飯でも、焼肉でも、じゃんけんで生存競争の原理を学んでいたのだと思う。()

 

以上 

 







Last updated  2019.11.05 11:59:34
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2019.11.02
カテゴリ:70歳

記憶は加齢とともに段々と忘れてくるものです。 まもなく、70歳になるので特に幼少期の記憶を残しておきたいと思う。

今迄、断片的にでも頭の片隅に残っている記憶を書き出し、文章にして置きたいと思い、メモ用紙に書いていると、時々当時の事を思い出すとともに、その頃の自分がどんな考えをして、どんな決断をしていたかも思い出し、「ドキッ」として、過去の自分に引き戻されることもありました。

 

今でもその時代でも、いつも、自分はどうあるべきか、どうすべきか、どのように考えるべきかを思考していたと思いますが、これを書き始めて、当時の自分の考え方を再度思い出し、懐かしい思いもしています。

 

 虫垂炎の思い出

 

私の一番古い記憶は、5歳の時の盲腸(虫垂炎)の事だろう。

この頃は、町内会や子供会等で、弁当持ちで親子が集まるような遠足や花見等があり、3月の節句のおはぎ、4月の花見の巻き寿司、五月の子供の日にはよもぎ餅等、普段の家庭では殆ど食べられないご馳走を食べることが出来た。おにぎりでもお腹一杯食べて、暴飲暴食をしていたらしい。

 

7月の夏祭りの前か、後だったか分からないが、急にお腹が痛いと言いながら、夕方から朝方まで泣き続けていたらしいが、早朝になると私が急に泣かなくなったので、お袋は逆におかしいと感じて、近くの病院に連れて行ったという。

 

診断すると虫垂炎と分かり、直ぐに、手術したら、虫垂は魚肉ソーセージ位に腫れて、端っこは既に破れていたという。(それで、痛みが引いていたらしいが、もう少し手術が遅れていたら、腹膜炎を起こし、手遅れで命も危なかったという。)

 

兎に角、傷跡は少し大きかったが、手術は成功した。

 

ところが、この年齢である、手術後、お袋が付き添って、隣で、うたた寝をしている時、私は少し色が付いた甘い水の入った水差しを持ち、ゴクゴクとその水を飲んでいた。その瞬間、動く気配で起きたお袋に向かって、私は、笑顔で「飲んじゃったー!」と言ったらしい。

 

腸の手術の後なので、おならが出るまでは、水も飲んではいけないとは聞いていたが、夏で暑く、エアコンもない頃の病室なので、暑さやのどの渇きを我慢できなかったのだろう。(花瓶の水を飲んだという噂もあったが、これは、話を面白くするために、誰かが脚色したのかな??)

 

お袋は、びっくりするとともに、急いで先生に知らせ、直ぐに、再度開腹手術をしたという。

(結果、手術の傷跡の大きさは、当時でも珍しく25cm位もある大きさになってしまったが、2度も命拾いしたことになる。その後は大きな手術もなく健康が私のイメージになっているくらい、元気を維持できているのかもしれない。笑)

 

この病院では、後に、扁桃腺の手術もしたが、この時の事は先生や看護婦さん達の記憶に残り、その後、10年位(中学を卒業する頃まで)「あの飲んじゃったーの子か!!」といつも笑われていた。

 
今の元気さを、感謝しながら昔を思い出している私です。(笑)

以上 







Last updated  2019.11.05 11:27:32
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