カテゴリ:哲学
最近また色々思うことがあって、久々にブログ記事を書いてみる。
まず、この世界には二種類の言語が存在する。いや、ちょっと待て、そんなわけないだろ、この世界には何ヵ国も存在していてそれぞれの国が共通の言語を持っているし今パッと頭に浮かぶだけでも日本語、英語、中国語と、この地点で既に二種類は超えている。 確かに。そういう意味で言うなら先程書いたことは間違っているだろう。 ただ、私が言いたいのはそんなことじゃない。この意見の食い違いも、ちょっと関係してくると思う。 例えば、さっきから使っている言葉の中にも私の言う二種類の言葉が出てきているかもしれない。例えば「世界」と、私が言う時、その単語は二種類の役割を持っているということだ。それは固有名詞的かと普通名詞的かということであり、実はこの言葉に対して固有名詞的に使うのか、普通名詞的に使うのかによって話の内容は随分と変わってくる。さらにそれはとんでもない誤解を招く可能性を持っている。 例えば哲学をする時、「私」という言葉が使われるが、この単語にも固有名詞的か性質と、普通名詞的性質がある。おそらく一般的には固有名詞的に使われる言葉だろう。つまり「私が言いたいのは・・・」と、言った時、この「私」という言葉が表しているのは他ならぬ私自身のことであり、ここではこの世界に存在している人としての私を指す言葉であってこの使い方だけで議論が進むなら難しくはない。 しかし、先程から言っているように言葉にはもうひとつ概念を表すという意味で使われることがある。こと哲学の分野には、顕著だ。 例えばある本で読んだ話だと、キリストの言葉が引用されている。 「私からしか、真理に達することは出来ない」 この言葉の意味は一般的な意味で捉えると、キリストに従うことが真理に至る唯一の道であるということになるだろう。 が、しかし、この言葉に出てくる「私」という単語がキリストがキリスト自身を指して使ったものでなく誰もが持っている私という感覚を指している言葉であるなら、話は随分変わってくる。哲学的に使われる概念的意味としてみるなら、これはさまざまな宗教や思想を矛盾なく読みとける考え方の指針になるだろう。例えば「汝自身を知れ」等は正にそういう意味であろう・・・ まとめ 言葉の使い方としてある特定の物を指す言葉なのかそれとも概念として使われるのか、見極める視点が世界を広げる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017/03/28 09:24:46 AM
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