障害者マジシャンの未確かな記憶 ~可能性を広げるために~

2016/05/19(木)23:27

ニヒリズムを支えるもの

哲学(84)

実は、まだすっきりできていない部分がありました。このテーマについて書くことも何度目かになりますし、これからも自問自答は続いていくでしょうが、最近頭に浮かんだ思考を書き留めてみます。ニヒリズムとは、無の思想である→無意味論である→無価値論である。前回まではこのような書き方で終わっていたと思います。しかし、無とは魅力的ですがやはり恐ろしさもあり、ニーチェが更なる探求を求めたくなり、超人を求めt気持ちも分かります。ここで私の頭に浮かぶのはドラマ等で使われるような台詞「なんでもないってこと(無ということ)は何にでもなれるって事なんだよ★」こんなことを言ってるドラマとか漫画を見て冷めた視聴者は「何を青臭いこと言ってるんだそんなに現実は甘くねえんだよ」みたいなこと言うかもしれませんが、こと思想ということに関してはどうでしょう?上のカッコ内の台詞がこの世界の見え方や価値観に対しての話だとしたら、私にはとてもおもしろく感じます。ニヒリストとして(ここではもちろん「無意味論」ではなく「無価値論」として使いますが)、哲学をしていこうとするのはなんだか木にロープを掛けて首を吊りながら「よし!生きていくぞ!」と目に炎を宿らせていることのように思います(笑)。どういうことかというと、ニヒリズムとは哲学の最終地点でありゴールなのえすから、もうそれ以上何もしようがないところまで言ってしまっているんです。散歩をしに出ようと思って部屋のドアを開けたら自室につながっている。バカ殿様のコントみたいな状況なわけです。・・・うん、いや、たぶんですけど、私のブログの常連さんなら気づいてらっしゃるかもしれない・・・そう、脱線しすぎ?(笑)いや、気づいてよかった!あのままだとね、いろんな例えだけ羅列して次回の記事に本題を任せるとこでしたよ・・・まあ何かというとですね、無価値論であるということはそれを支える感覚というか感情というか根拠があるのではないか?そう思ったんです。無価値であるということはなにを無価値と思うことなのか?はたまた価値その物に対してを無でくくっているのか?・・・まあもちろん、後者の立場を取るわけですが、そもそも何故価値観の否定をするのか?ということです。まあ実を言うと無だと断言したからといってそれすなわち否定になるというのも本当なのか?と、思った部分もあるのですが・・・そう、実は私的には否定まではしていないというのが本音なんです。しかし、じゃあ何を持って無というのか?それは疑えたからです。もしかしたらこれはデカルト的な「この世で唯一疑い得ないものとは何か?」という問いかけと似ている部分があるかもしれません。まあそれによりデカルトは自分が思考している(疑っている)ということ自体は疑うことが出来ない故に「我思う(疑う)故に我在り」となったわけですが、ニヒリズムに関してはおそらく最終的に疑い得ないものまで行く事自体には興味がなかったんじゃないかと思います。そしてこの世界の見方(眼鏡)を社会から与えられて「?」がたくさん生まれたことにより疑えるということは本質なんてないんじゃないか?と、なったのではないか?・・・ということで(ムダに)長くなりましたが結論として無価値論者である私の思想を支えるものは疑価値論である。                                                                                  以上 

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