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2012.02.09
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カテゴリ:世界の人100

この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人
LIFE_animation
 ライフ(Life)はアメリカで発行されている雑誌。写真を中心とした誌面で「グラフ雑誌」と言われる。フォトジャーナリズムという文章記事よりも写真を中心に報道・言論を構成しようという考え方はすでにヨーロッパ(特にドイツ)で試みられていた。ライフ誌はカメラマンをスタッフという専属的な所属とし、撮影から記事・レイアウト等の編集のスタイルを一貫させ、「フォト・エッセイ」と称した。第二次大戦前から戦後復興期、テレビの本格普及前までが黄金期で、アメリカの思想・政治・外交を世界に魅力的に伝える媒体であった。
 現在のライフ誌は2004年10月に無料週刊誌として復活し、新聞折り込みのかたちで約1300万部が発行されている。しかし、厳しい経営事情を背景に、2007年4月20日号を最後に休刊することが発表された。今後はウェブ上にて、同誌の保有する写真約1000万点を閲覧できるなど、引き続きサービスを継続していくことも同時に発表された。
Wikipedia:「ライフ (雑誌)」



file No.58 イマヌエル・カント (ドイツ)(1724~1804)


■経歴
 イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国出身の思想家で大学教授。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。ドイツ観念論哲学の祖ともされる。
 1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人の四男として生まれた。両親はルター派の敬虔主義者で、その濃厚な影響のもとに育った。1732年、ラテン語学校であるフリードリヒ校に進み、1740年にはケーニヒスベルク大学入学。当初、神学を志したが、哲学教授の影響のもと、発展を遂げつつあったライプニッツやニュートンの自然学を研究した。1746年、父の死去にともない大学を去る。後の7年間はケーニヒスベルク郊外の2、3の場所で家庭教師をして生計をたてていた。1755年、(正規出版のものとしては)最初の論文『天界の一般的自然史と理論』で太陽系は星雲から生成されたと論証した。同年、ケーニヒスベルク大学哲学部に学位論文『火について』を提出し、これによりマギスターの学位を取得。就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新しい解釈』で公開討議をおこない、冬学期より同大学の私講師として職業的哲学者の生活に入る。1764年、『美と崇高なるものの感情にかんする観察』を、1766年、『視霊者の夢』を出版。1770年、カント46歳のときに転機が訪れ、ケーニヒスベルク大学から哲学教授の招聘があり、以後、引退までこの職にとどまる。大学教授として、哲学のみならず、地理学、自然学、人間学などさまざまな講義を担当した。カントは哲学的論争の渦中にいたがその学者人生は順調であった。晩年には同大学総長を務めた。
 1804年2月12日に逝去。晩年は老衰による身体衰弱に加えて老人性認知症が進行、膨大なメモや草稿を残した。彼は最期に末期の水がわりに砂糖水で薄めたワインを口にし、「これでよい」(Es ist gut.)と言って息を引き取ったという。当時のドイツの哲学者は論敵をも含めてカントの死に弔意を表した。死去から半月以上経過して大学葬がおこなわれ、市の墓地に葬られた。





ケーニヒスベルクのカントの墓

=墓碑銘には「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」(『実践理性批判』の結びより)と刻まれている。=



★カントは、小柄な人物であったが、虚弱という割には最晩年まで命にかかわるような病気とは無縁で、顔色もすこぶるよかったらしい。・・・そういふものにわたしはなりたい。(・・・無理?)





 参考:Wikipedia







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最終更新日  2012.02.20 05:37:26
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