カルメンチカの部屋

2011/01/09(日)22:12

城址公園

癒し(23)

こんばんは 昨日は、曇時々晴でした 午前中、市内のお寺で参拝 ホテルでランチした後、城址公園を散歩しました 城址公園内には佐藤記念美術館があります 1Fは企画展「越中ゆかりの美術工芸品」が開催されています HPより 富山市佐藤記念美術館は、富山県砺波市出身の実業家であり茶人でもあった、 故佐藤助九郎氏が中心となり、昭和36年9月に(財)佐藤美術館として開館しました。 その後、同38年には(財)富山美術館と改称しました。 平成3~5年にかけて、開館30周年記念増築工事を行い、同10年4月には(財)富山佐藤美術館と改称しています。 館内には展示室のほかに、佐藤家より「助庵」「柳汀庵」の2席の茶室とともに、総桧造りの書院座敷が移築されています。 同14年4月に、建物と所蔵作品などの全てを富山市に寄贈し、 現在は佐藤記念美術館として、郷土博物館と2館一体運営を行っています 美術館内(1F)の展示室は撮影禁止だったので2Fへ 2Fには、佐藤家より「助庵」「柳汀庵」の2席の茶室とともに、総桧造りの書院座敷が移築されています。 越中富山藩の第2代藩主前田 正甫(まえだ まさとし)の像 慶安2年(1649年)8月2日、初代藩主・前田利次の次男として生まれる。 延宝2年(1674年)、父の死去により家督を継いで藩主となる。 藩政においては父の方針を受け継いで藩制の確立に努め、文武を奨励して多くの有能な人材を招聘し、但馬からタタラ技術を導入して製鉄業を創始し、新田開発、治水工事、産業奨励などにも積極的に行なった。 また、正甫は製薬業に興味を持ち、江戸城腹痛事件で名をあげた反魂丹を製薬して諸国に広め、越中売薬の基礎を作った。 天和元年(1681年)には越後高田藩主・松平光長改易の城受け取り役を務めている。 宝永3年(1706年)4月19日に死去した。享年58。跡を子の利興が継いだ。 古銭収集家でもあり、それに関した著書として「化蝶定階」、「化蝶類苑」などがある 郷土博物館(富山城内)前 富山市郷土博物館(富山城)は、昭和29年に戦災復興事業の完了を機に開催された、富山産業大博覧会の記念建築物として建設されました。 3重4階建ての城郭を模した建物で、博覧会の会期中は「美の殿堂」として各種展覧会が開催され、終了後の同年11月、郷土博物館として開館しました。 以来、半世紀にわたって郷土の歴史・文化を紹介する博物館として活動を行ってきました。 平成15年からは、約2年半にわたって耐震改修工事およびディスプレイ整備を行い、同17年11月、中世以来の富山城の歴史を紹介する博物館としてリニューアルオープンしました。 また、建設から50年目にあたる平成16年には、富山市のシンボルとして、戦災復興期を代表する建築物として、国の登録有形文化財に登録されています。 天守展望台から 富山城から直ぐのところに千歳御門があります 千歳御門 千歳御門は嘉永2年(1849)東出丸に築造された千歳御殿の門である。 千歳御殿自体は6年後の安政2年(1855)に城下からの出火で消失したが、門は解体移築工事で部材の一部に「嘉永2年」の墨書が発見されたことから、安政2年の出火を免れた創建当初の建造物であることが確認された。 残存した門であったが、富山藩の廃藩により赤祖父家に払い下げられた。 『赤祖父牛松誌録』には、「富山城の千歳御殿の門を明治初年に移築した」と記されている。 城門としては高壮堅固で保存状態も良く、度重なる災害や歴史の変革にあいながらも守り残された歴史的価値は多大である。 富山城の唯一残る遺構であり、県下はもとより全国的に見ても藩政期における数少ない御殿の門と言え、同一の建築様式となる城門は「東大の赤門」で知られる重要文化財指定の旧加賀屋敷御守殿門だけである。 このたび、赤祖父家より寄贈を受け、城址公園内に移築された。                    ENTERクリックしてね

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