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4 霧の訪問者 

「本気なのか?」
もう一人の自分が頭の斜め右後ろのほうで囁いている。

本気なのか?
わかっているのか?
自分がやろうとしていることが。
あぁ、わかっている。
オレは答える。

そうか、それならオマエはどうしようもないバカだ。
ともうひとりのオレが叫ぶ。
それもわかっている。
オレのやってることはとんでもなくバカげていて、そして恐ろしい。
この霧の中に足を踏み入れることがそのまま自分の破滅になるかもしれないとわかっている。
それなのに、、。

イチタスイチハニダヨナ。。
オレは歩きながら自分の頭がまだ正気であることを確かめた。
イマハセイレキ2003ネンデニホンノシュショウハコイズミジュンイチロウデ、
大丈夫だ、、オレはまだ大丈夫だ。

それに、
コイツらだっていきなりとって食いはしないだろう。
昼間あんなに巧くやってるんだ。
そうだ、みんな冷静だった。
何食わぬ顔をしてファンの前に姿をさらしていた。
実は彼らも怖いのだ。正体がバレルとどうなるか。
だから、慎重になるのではないだろうか。いきなり分別を知らぬ、本能のままに食い散らす獣になるはずがない。
そうだ。だから大丈夫だ。
だがすぐに後ろにいるもう一人の自分が「甘いぞ」と打ち消そうとする。
オレは本能的にそれを払いのけ目の前の霧のドアに手をかけた。
するとそれは見事に左右に分かれた。
オレはふとコレは見たことがあるぞと思った。昔の映画のワンシーンだ。
脱出するユダヤの民の前の大海原がまっぷたつに裂かれるあのシーンだ。
SFXなんかない時代にしてはたいそうよくできていた。
なんでこんなことが思い浮かぶんだろう。
バカじゃないのかオレって。

「なに笑ってるんですか?」
ふいに声が聞こえオレは死ぬほどびっくりした。
目の前に微笑んでいる男がいた。

あぁ、この微笑だ。
ふわりとしたここちいいゆらめくようなめまいがするような、そしてその中には紛れもなく、蛇の舌のようにとちろちろと、
邪悪な炎が見え隠れする、あの微笑だ。
後ろにはたくさんの赤い目が並んでいる。それは不気味に沈黙していた。
ただしそれはいつでも攻撃できるようによく仕込まれた警察犬のように待機しているのだ。
いつ号令がかかってもいいように忠実に。
この男がリーダーなのか。
「こんな時間まで練習ですか?」
誰の声だ?
オレだ。
驚いた。ちゃんと喋ってるじゃないか。
「さすがですね。オレの爺ちゃんから聞いた話の頃と変わってない。いや、オレそんなところが好きなんです」
喋りすぎだ。
「オレら好きなんです。こんな地方の街のチームだけど来てくれた選手のこと、マジ好きなんすよ」
あ~バカじゃないのか、オレは。なんて子供っぽいこと言ってるんだ。
すると目の前の男は真顔になった。
ちろちろと見えていたものがぴたっと姿を消した。と同時にそっくりそのまま入れ替わったかのような別人が現れた。
マウンドで見るひたむきなまっすぐな瞳をもった本来の彼のあの顔だ。
「誇りに思ってるんすよ、っていったらオーバーかもしれませんけどね。でもほんとなんです」
こんな場面でこんなセリフ変だ。絶対変だ。でもそれはごく自然に出てきた。
それはまるで脱皮して現れたかのような「ほんとの彼」をみてごく自然に出てきたのだ。
しかし彼はオレのその言葉に動揺しているようだった。瞳の中になぜかせつなそうな色が浮かんだ。
その変化に気付いたのか後ろの赤い目の集団がいっせいにうろたえたような気がした。

「テツト?」
誰かが後ろから声をかけた。


                                   ☆

声をかけられて一瞬はっとした。
タカヤだ。
どうしたんだ?、、とけげんそうな響きだ。少し苛立っている。
後ろのみんなの気配も同じだ。輪が崩れようとしている。
いけない、このままじゃ、と思えば思うほどオレはすくんでしまっていた。
目の前にいるこの男のそのあまりにも無防備な態度にオレは何故かたじろいだ。
あの夜のことがまた甦る。
ケンタの部屋で神の手で烙印を押されたあの夜だ。ひたいがずきずきと疼く。
どうしてだ、コイツは神なんかじゃないはずなのに。単純でバカなヤツなのだ。
こんなヤツ簡単なのに。こんな単純でバカでノーテンキなヤツ。
それなのに、、。

「なにしてんだよ」
「やっちまうんじゃなかったのか」
ざわめく声が背中に突き刺さる。
ケンタがすっとそばに寄ってきた。
「オマエができないんならオレがやる」
「待ってくれ」
咄嗟に出た言葉に自分がいちばん驚いた。
「なに言ってんだいったい?」
「オレ、わかってもらいたいんだ」
「・・・・わか・・・?」
ナニヲイッテルンダオレハ?
「ひとりぐらいいいじゃないか、わかってる人間がいたって」
「おまえ、マジかよ」
マジだよ。そうだ、ずっとそう思っていたのだ。オレのせいでみんなが変わってしまった。
ときどきそれがとんでもなく恐ろしくなるときがある。誰にも言った事はないが。
今目の前にいるガタイのいいそして同じぐらいこころも大きそうなこの男。
コイツともっと別のカタチで会いたかった。
今日の昼間球場で会ったときすでにそう思っていたのかもしれない。
オレは待っていたんだ、こういう男を。
「話にならないよ、テツト」
ケンタは呆れて言った。
「オレたちのことを全部話すのか?」
「ちゃんと話せばわかってくれる」
「おいおい」
ケンタは心底呆れやってられないとばかり首を振った。
「責任はオレがとる」
「最後は仲間に加えるんだな」
「いや、、」
「なんだ、まさか話しただけで開放する気か?オマエ頭おかしくなったんじゃないのか」
いや、、。
まっとうさ。しごくまっとうだ。だからオレはそれだけ弱いんだ。ケンタ、オマエにはわからない。
いや、それは仕方ない。これはオレの身勝手だ。
「なに二人だけで喋ってんだ、聞こえてるぞ」
マサフミが抗議した。
「反対だ、そんなの信じられない。オレたちのこういう姿を見たんだぜ。このまま返すわけにいかないよ。
いったいどうしたんだよ、テツト」
「オレたちとは違う立場でわかってもらう人間が欲しいんだ」
そう言うとケンタとマサフミははぁ~っと大きなため息をつき首を振った。
タカヤは態度を保留していた。
タカヤはオレの孤独を知っている。

                            ☆

聞こえてくる言葉は本来はまったく現実味のないものだろう。
だがオレは彼が言っていることがわかるような気がした。
なにかとんでもない間違いでこんなことになってしまっている、そのことに彼自身が苦悩している。
だからオレを呼んだんじゃないだろうか。
オレは選ばれたのかもしれないと漠然と思っていた。
だからこそオレはここに来たんだ。
さっき一瞬見せた切なそうな瞳がオレのその考えが正しいことを証明していた。
悪夢に彼自身が苛まされている。強がっているがほんとは恐いのだ。
話してくれ、オレならちゃんと聞いてやれる。
そう声をかけようとしたとき後ろの集団の輪が崩れた。
「やめろ~っ!」
と叫ぶ声がする。
声がすると思ったとき目の前に充血した目と真っ赤なくちからやけにきらきらと光る白い歯が集団で襲ってきた。
何本もの手がオレの体を掴もうと伸びてくる。
オレは悲鳴をあげた。
あげた?
あげたのだろうか。ほんとに?オレの悲鳴は届いているのだろうか。誰かに。だ、れ、か、、。
押し倒されながらもがきながら、あ~月があんなに赤い、、と思った。
確か今夜の月は青白かった。ここにくるまでは。
それなのに今はあんなに赤い。満月だ。不吉、凶事、呪い、、。
こんなときに連想ゲームかよ、オレは笑った。
笑った。くそっ。

オレの首筋にやけに光る歯が食いこもうとする。
「抜け駆けするなよ!」
「順番だよ焦るなって」
「オマエはヘタクソだからダメだっ!」
「うるせ~!」
怒声が飛び交う。餓えた声だ。
「みんな、やめろ~っ!」
彼が、テツトが叫んでいる。
もう、もう、どうにでもなれ、、。

その時、月が隠れた。真っ赤な満月が隠れた。
黒い闇が月を侵食した。
その闇の真中に顔が現れた。
ダークグレーのオールバックにした髪。高い頬骨。知的なまなざし。
そして、たぶん、ただただクチをぽかんとあけているだろうオレをその闇で包むとそのまま持ち上げた。
イチタスイチハニダ。
ニニンガシ、ニサンガロク、ダイジョウブダ、チャントケイサンデキルゾ。イマハセイレキ2003ネンデニホンのシュショウハコイズミジュンイチロウデ、、。
だいじょうぶだ。オレはまだ狂ってない。
闇はオレを抱き上げたままふわりと上昇すると真っ赤な月に向かって旋回した。


つづく



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