2「マサフミ、デッドボールが当たったときはウソでも痛がれ」 「・・ったく」とテツトは苦笑しながら言った。 その球はマサフミの右側頭部に向かってバカ正直なくらい真っ直ぐに飛んできた。 打席で打ち気まんまんのマサフミは当然前に深くステップを踏み込んでいた。 球場の中にいた人間全員のくちが一斉に「あっ」というカタチになった。 球は小気味いいほどマサフミのヘルメットを弾き飛ばした。 ついでに言うとその時発した音さえも小気味よかった。 笑ってしまうほど。 そうだ。テツトたちは笑っていた。マウンドで蒼白になっている敵のピッチャー。 リーグを代表する右腕。それはそのまま日本を代表すると言ってもいい。 そのチームで活躍すればマスコミはいつでも御輿の上に乗せて派手に持ち上げてくれる。 選手によっては活躍しなくてもな、と皮肉のひとつも言いたくなるほど、こんな地方の球団とは扱いが 比べ物にならないくらい別格だ。 しかしそのピッチャーに実力があることも言うまでもない事実ではある。その球団を嫌う人間は山ほどいるが 野球を知るファンなら誰もが認めざるを得ないところだろう。だから、テツトのチームのラインナップを目にしたとき はみな唖然としただろう。「おい、気でも違ったか?」「ばかじゃないのか?」「いや、きっとこりゃヤケク ソだな」呆れ返ったに違いない。 「それならひとひねりで片付けてやるまでだ」選手も首脳陣も中継するテレビのアナウンサーも解説者も 画面の向こうにいるファンたちもくちびるを曲げ笑いながらそう思ったに違いない。 だからこそ、この事態に連中は驚いている。エースなんだ。こんな球を投げるようなヤツじゃない。そもそも球が手についていない。腕が縮こまっている。 こんな格下の、試合経験も少ないヤツらを相手になにをびびってる。 最初から「らしく」なかった、この男。 空気をひゅーっと吸い込むような静寂が百分の一秒ほど訪れたあとは叫び声と悲鳴と怒号にそれは変わった。 こうなると次の展開は乱闘と相場は決まっている。スタンドからの怒号とヤジは充分それを期待している。 ベンチから脱兎のごとく飛び出したのは当てたピッチャーのチームのほうだった。 とにかく味方の選手を守らなければならない。さぁこい。 しかし敵のベンチからの動きはなかった。 当のマサフミは騒ぎの中でこきこきと首を回していた。 落とされたヘルメットをゆっくり拾い上げ被りなおす。 主審は呆気にとられていた。 「キミ・・・・」 それには答えずマサフミは自分を取り囲んでいる敵の連中を見た。 被りなおしたヘルメットは右側頭部のところがぽっこりと見事にへこんでいた。 それがなにを意味するか、わからないヤツはいない。 マサフミはバッターボックスに入りなおし敵の集団に向かってにやりと笑った。 集団の輪はその童顔の笑顔に凍りついた。 相手投手は当然危険球退場となった。 次の投手がマウンドで肩をつくるまでマサフミはびゅんびゅんと素振りをしていた。 退場となったチームのエースは青ざめた顔のままベンチで呆然としている。 「信じられない」 それはベンチ全体が言いたいことだ。 なんてヤツだ。衝撃に体は確かに反応した。もんどり打って転んだのだ。 だがその後、マサフミは転んだら立ち上がるだけさといいたげにそのとおりに立ち上がった。 そしてその後ヤツは笑った。笑ったんだ。エースは身震いした。(あいつ人間じゃない) それはマサフミの真実を見破った言葉ではなくこんな場合の常套句にすぎなかった。 それがそのままそのとおりの意味だということがわかるまでには、まだ若干の時間が必要だった。 そして2番手投手からマサフミはいとも簡単にホームランを打った。 ダイヤモンドを一周し自軍のベンチ前でハイタッチを受けるマサフミ。 アナウンサーが興奮して絶叫している。信じられません!信じられません! 「マサフミ、デッドボールを受けたときはウソでもいいから痛がれよ。転んだら当分起きてくるな」 テツトは苦笑する。 「おかげでベンチからダッシュするタイミングを逃しちまったじゃないか」 「だって痛くはないもんな。体は正直だ感じないものには反応しない」 マサフミは素っ気無くそう言った。その反面、仲間の手荒い祝福を受け彼の顔は紅潮している。 「みんな変に思うだろ」 テツトがたしなめると 「いじゃないかそれで、これがわたしたちのほんとの姿だ。見せつけてやりなさい」 後ろから声がした。それは天井からぶら下がっている蝙蝠からのものだった。 「ほんとの姿」 テツトは西陽に照らされるマウンドに上がったときまだぼんやりとしていた。 タミオには「オレたちは沈む夕陽に希望を見出すんだ」と言ったが、どろりと重たく鈍い光はまだ体を覚醒させてはくれない。やはり少しだるい。 早く陽が沈んで欲しい。空が漆黒になり月が出てきて欲しい。 オレたちを守護する月の光り。月のしずく。今夜はどんな月だろう。 3回までは本来の調子が出なかった。若い捕手は何度もマウンドに上がった。 それでもなんとか無得点に抑えられているのは相手がいつもと違う空気を感じていたからだろう。 あいつらの頭の隅にどんよりとした雲がかかっている。見えるような気がする。どんなに拭き払おうとしてもとれない、このもやもやとしたイヤな雲。 苛立ちというより漠然とした不安。打席に立つ打者にテツトははっきりとそれを感じた。 だがそんなものをハンディとして貰うわけにはいかない。ちゃんとした勝負がしたい。 自分のいちばんいい球を思ったところへ力いっぱい投げ込む。真っ直ぐか変化球か裏をかくか正面から勝負するか。すべてはオレが握ってるんだ。オレが投げないとなにも始まらない。観衆がそれを待っている。 いつのまにか空は赤みの強い紫色に染まっていた。 それはまるで最後まで抵抗した太陽が流した血のように見えた。 陽の残骸。 オレたちの世界が始まる。 テツトはキャッチャーのサインに頷き大きく右腕をふりかぶった。 |