ベル姉の鯉する日常ときどき妄想

(その8)

Another Garden Fallin’ Angel


あの夜は。
「リビングでテレビを見ていたら、兄さんが入ってきた。仮面をつけたような顔をして。
ストレスが溜まってイライラすると兄さんはむしろ無表情になる。そしてボクの顔をみてにやりと笑う」
「あ、くるんだ、とボクは思った。でも、その日はいやだった。いつものことなのに、
いつもちょっと我慢してればいいんだといいきかせてた。時間にしてそんなに長いことじゃない。
でも、その日はいやだった。どうしても」
「ボクは抵抗した。兄さんはすごくびっくりしていた。顔が真っ赤になった。
ボクが抵抗したことが許せなかったんだ」
「兄さんはリビングに置いてあった親父のゴルフクラブを抜いて大声で怒鳴りながらボクを
追い掛け回した。怖かった」
そのときを思い出したのかテツトは自分の肩を抱くような格好をした。
「ボクは2階に逃げた。でも踊り場で掴った。もみあってるうちに兄さんが階段から落ちた。
ボクは兄さんからクラブを取り上げて、兄さんの顔めがけて、、」
「もう、いい」
タカヤは低い声でいった。
「もう、いいよ」
「顔が血で真っ赤に染まった、でも兄さんは怒ってボクをまだ捕まえようとする。
怖かった。だからもう1回クラブを振り上げて、、ぐしゃって音がして」
「もう、いいったら!」
タカヤは首を振って叫んだ。
「なんでだよ!」
テツトは急に立ちあがり怒鳴った。
タカヤはびっくりした。
「なんでだよ!聞いてくれるっていったじゃないか。ボクの話を聞いてくれるって
言ったじゃないか!」
テツトは涙をぽろぽろこぼしていた。本人は気づいていない。
タカヤは心の底から後悔した。
「ごめん」
タカヤが肩を抱き寄せるとテツトは堰を切ったように嗚咽した。


             ★


テツトが腫れた目を恥ずかしそうにタオルでぬぐっているとき
「明日発つよ」とタカヤはいきなり言った。
「え?」
テツトは大人にいきなり突き飛ばされたこどものような顔をした。
「だから一緒に行こう?」
「え?」
「自転車で旅するのっていいぜ。計画なんかたてなくて、気ままにいくんだ。
泊まるとこなんて適当に探してさ。野宿でもいいよな。やったことないけど」
と言って笑った。
テツトは返事ができなかった。
なにか言葉を返そうとしても詰まって出てこない。
「今から北上して、5月頃北海道に着くなんてどう?」
そう、それがいい。学校は休んだってかまわない。
監督には怒られるだろうけど。そんなに早く結論を出さなくてもいいじゃないか。
「一番いい頃だよな。キャンプしたりしてさ。
自転車あるだろ?あとは適当に下着とか揃えてさ、簡単だろ?」
タカヤははしゃいでいるような感じさえ受ける。
「犯人逃亡幇助になるよ」
とテツトはぽつりと言った。
「なんのことだかわからないな」
とタカヤはとぼけた。
そのあと、テツトの目をまっすぐ見て言う。
「オマエ、ここから離れたほうがいい。出ていくんだ、ここから」
テツトは背中を押されたのだ。
自分はここに逃げてきたいつものように。
優しく迎えてくれる爺ちゃんはもういなかったが、それでもここに来た。
高い塀に囲まれて、誰もここに侵入するものはいない。
裏に入り口がある迷路もひとを拒否している。
だれにも会いたくない自分にはもってこいだ。
ここには自分の人生の一番暖かいものが詰まっている。
この屋敷全体に、この庭全体にボクの幸せだった季節の記憶が残っている。
ヒデユキを葬った後、もう終わったと思った。
もう実家には帰れない。ボクはここで思い出とともに暮らすのだ。
爺ちゃんの部屋にできる日溜りに体を預けたとき、そのまま夢の世界へ沈んでいきたいと思った。
もう、こもまま永遠に。そのときこの男に会ったんだ。
いや会ったんじゃない、この男が降ってきたんだ。天から降りてきたんだ。
裏口から迷路をとおってきた、と彼は言った。
誰も出て来られたことがない道を彼は何の苦もなく通ってきた。
逆光に浮かぶ彼の背中には羽根が生えてるように見えた。
あの時テツトはすでにわかっていたのかも知れない。
彼が自分を遠くに連れていってくれるかも知れないと。
だから、強引にこの屋敷に泊まらせたのだ。
離したくなかった。
そして今、タカヤはいっしょに行こうと言ってくれてる。
行こうか、これを逃したらもう二度とチャンスはないのかもしれない。
それはタカヤという人物を失うことを意味する。
もうひとりはイやだと初めてテツトはこころから思った。
テツトは決心した。
「いっしょに行くよ。アンタといっしょに。オレ、外にでてみる」

タカヤはこれでいいと思った。
母親や兄のことはもうどうでもいいじゃないか。
オマエは充分傷ついた。だれもオマエを責めないよ。
いや、法律的に倫理的には反してると世の中の人間がみんなが責めたとしても、
オレはオマエの味方だ。

テツトはやっぱりタカヤは変わっていると思った。
タカヤは自分のことを大馬鹿野郎と言ったが、タカヤだって大馬鹿野郎だ。
だって会ってまだ3日しか経ってない男、人を殺したっていってる男にこんなに優しくするなんて
ほんとに変なヤツだ。だからオレは初めて会ったときもずっと前から知ってるような気がしたのかもしれない。
大馬鹿野郎同士で。

明日からの計画をふたりで話した。
海沿いに走りたいとテツトは言った。
海がみたい。
ここは山国だから、潮の香りを感じながら走りたい。
テツトは嬉しそうだった。
ここにきて2日目の朝、キャッチボールをしたときと同じ無邪気な目をしていた。

そのとき、タカヤのケータイが鳴った。
やれやれ母さんかと思って出ると、予想外の人物の声が飛びこんできた。
どうしてオレの番号を知ってるんだと思ったとき、思い出した。
テツトの家にきた次の日の、訪問者の刑事だ。
「あのコのことが心配だ」と言ってなにかあったら電話してくれと番号をくれたのだ。
それは警察署の番号ではなく、刑事の自宅の番号だった。
それもあり、あの時タカヤは彼を信用していたので自分のケータイも教えたのだった。
「タカヤくん」とその刑事は言った。
その声はタカヤが知っている声音と違った。
あののんびりした声ではなかった。緊張でこわばっていた。
「なんですか?」
タカヤがきくと刑事はタカヤが無意識に避けていた事について知らせてきた。

「テツトの家の裏庭から死体があがった」
タカヤの受話器を握る手が震えた。


つづく


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